国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2017-09-29

永井荷風「濹東綺譚」 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方も「おら」を「わたくし」の代りに使う。説話は少し余事にわたるが、現代人と交際する時、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗る困難を感じる。殊に女の手紙に返書を裁する時「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」となし、又何事につけても、「必然性」だの「重大性」だのと、性の字をつけて見るのも、冗談半分口先で真似をしている時とはちがって、之を筆にする段になると、実に堪難い嫌悪の情を感じなければならない。恋しきは何事につけても還らぬむかしで、あたかもその日、わたくしは虫干をしていた物の中に、柳橋の妓にして、向嶋小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。手紙には必ず候文を用いなければならなかった時代なので、その頃の女は、硯を引寄せ筆を秉れば、文字を知らなくとも、おのずから候可く候の調子を思出したものらしい。わたくしは人の嗤笑を顧ず、これをここに録したい。

一筆申上まいらせ候。その後は御ぶさた致し候て、何とも申わけ無之御免下されたく候。私事これまでの住居誠に手ぜまに付この中右のところへしき移り候まま御知らせ申上候。まことにまことに申上かね候え共、少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何卒御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待申上候。一日も早く御越しのほど、先ずは御めもじの上にてあらあらかしく。

◯◯より

竹屋の渡しの下にみやこ湯と申す湯屋あり。八百屋でお聞下さい。天気がよろしく候故御都合にて唖々さんもお誘い合され堀切へ参りたくと存候間御しる前からいかがに候や。御たずね申上候。尤もこの御返事御無用にて候。

 文中「ひき移り」を「しき移り」となし、「ひる前」を「しる前」に書き誤っているのは東京下町言葉訛りである。

ゲスト



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