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2011-04-20

[]鶯亭金升『明治のおもかげ』無筆 鶯亭金升『明治のおもかげ』無筆 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 鶯亭金升『明治のおもかげ』無筆 - 国語史資料の連関 鶯亭金升『明治のおもかげ』無筆 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 根岸に住みし頃、近くに小岩井甚吉という職人がいた。当時|草履《ぞうり》の下に板を附けた草履|下駄《げた》が流行して多く売れるので、甚吉はこれを作って相応に儲《もう》けていたが、妻は病身なので子がなく、明けても暮れても夫婦差向いの淋しい生活ながら、甚吉に取ってなお一層淋しいのは、字の読めない事である。いろはのいの字も読めない。少年の頃、下駄屋に奉公していたが、「職人は手習いなどしなくても宜い」と親方は教えず、下駄を作る一方の修業をして来たので、一文不通《いちもんふつう》の無筆になってしまった。

 世話をする人が気の毒がって、読み書きの出来る女を探してくれたので、甚吉は万事妻にたよりながら、仕事をしていたが、病身なのに弱っている中、妻はとうとう亡くなった。

 運の悪い時には、都合の好くないもの。独身の明《あ》き盲でも稼ぐ腕があれば喰うには困らぬのに、草履下駄は廃《すた》って靴の世の中となり、駒下駄《こまげた》雪駄《せつた》の上等品が売れる事になると、今まで下等の物ばかりやっていた職人は手が明いてしまい、甚吉の仕事はパッタリなくなった。

 「仕様がねエ。何か商売替えをしなければならない」

 相談をしようと思う人は、皆無筆仲間の職人ばかりだ。甲は八百屋《やおや》になり、乙は露店商人になるなどと、草履下駄の連中が商売を替えるのを見て、甚吉も友達を師匠にして八百屋を始め、天秤《てんびん》を肩にして、籠へ野菜を入れ、町中を売り歩いた。

 「オヤ、甚吉さん、八百屋さんになりましたか。今は何処《どこ》においでなさる」

 「ヘイ、天神下《てんじんした》の友達の家に厄介になっております」

 「そうですか。面白いネ。独りで気楽だろうネ」

と言えば、甚吉は苦い顔をして天秤を下ろし、こんな事をいった。

 「旦那、気楽どころじゃアありませんよ。御存知の通り、わっちは字が読めねエ。市場へ行っても大根がいくらだか、葱《ねぎ》がいくらだかわかりません。字の読めねエ不自由さを今つくづく知りましたが、今になって手習いも出来ませんや。友達も同じような無筆ですけれど、子供が学校へ行って字を覚えて来たり、女房が附いているので不自由しません。わっちは嬶《かか》アがいなくなったら、盲が手引きに離れたような目に遇《あ》っちまいまして家を持っていられなくなりました。それでネ、道具をみんな叩き売ってやっと資本《もとで》を拵《こしら》えて八百屋になりましたが、馴《な》れね工事はいけねエもの。旨《うま》く行きません。何をしても字が読めなくては不自由で御座んすネ」

 「全くだ。しかし江戸時代の職人は、読み書きの出来ないのを、かえって自慢にしたものサ。それがこの明治までまだ残っているのだ。落語にも無筆の噺《はなし》がいろいろあります。もうそろそろ無筆の珍しがられる時が来ましたネ。手を取ってくれる子のない人はお気の毒だナ。マアマア折角お稼ぎなさい。家へも来たら買いましょう」

 「どうも済みません。宜しう御願い申します」

と言ってまた天秤を担《かつ》ぎ、よろよろして行く甚吉の後ろ姿は哀れであった。

 その後|湯屋《ゆや》で無筆の話が始まって、甚吉の噂をしている処へ、炭屋の主人が入ってきてこの話を聞き、

 「甚吉は気の毒なことをしましたよ。字が読めねエので頼まれた大事な手紙を外《ほか》へ届けて、飛んだ手違いをしたとか言うことで、何処《どこ》かへ姿を隠しちまったそうだが、立《たち》ん坊《ぽう》にでもなりはしねエか、正直な男だから、別荘の番人のような仕事をさせれば宜《よ》かったろうに。けれどもネ、何にしてもいろはもわからねエと来ちゃア、どうにもならねエ」

 「ほんとに明き盲は使いようがないよ」

 これも今は六十年も前の昔話になってしまった。甚吉の話の如き嘘《うそ》のような出来事が当時まだ多くあったが、落語の職人には無筆の噂が、今もなお残っている。その無筆を笑った明治の人々も、昭和の今日|老《おい》ぼれになると、また若い人に「あいつア横文字が読めない」と無筆を笑われる事になったのだから可笑《おか》しい。

リテラシー


明治のおもかげ (岩波文庫)

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