国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2011-03-08

[]日本語ほど、この点で特殊であり、非叙事詩的な国語世界に無かろう。(萩原朔太郎日本語ほど、この点で特殊であり、非叙事詩的な国語は世界に無かろう。(萩原朔太郎) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本語ほど、この点で特殊であり、非叙事詩的な国語は世界に無かろう。(萩原朔太郎) - 国語史資料の連関 日本語ほど、この点で特殊であり、非叙事詩的な国語は世界に無かろう。(萩原朔太郎) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 かく日本の詩は、内容上にも形式上にも、西洋と全く反対なる、背中合せの特色によって発展して来た。そしてこの事情は、全く我々の国語に於ける、特殊な性質にもとづくのである。元来、言語に於ける感情的な表出は、主として語勢の強弱、はずみ、音調等のものによるのであって、アクセント平仄とが、その主なる要素になっている。然るに日本国語には、この肝腎《かんじん》なアクセント平仄が殆どないため、音律的には極めて平板単調の言語にできている。特に純粋の日本語たる、固有の大和言葉がそうである。試みに我々の言語から、すべての外来音たる漢語一切を除いてみよ。後に残った純粋の大和言葉が、いかに平板単調なのっぺら棒で、語勢や強弱の全くない、だらだらした没表情のものであるかが解るだろう。

 しかしこうした没音律日本語にも、その平板的な調子の中に、或る種のユニックな美があるので、これが和歌等のものに於ける、優美な大和言葉の「調べ」になっている。けれどもこの特殊の美は、極めてなだらかな女性的な美である故《ゆえ》に、或る種の抒情詩表現には適するけれども、断じて叙事詩表現には適合しない。叙事詩男性的なものであるから、極めて強い語勢をもった、音律のきびきびした音律でなければ、到底表現不可能である。アクセントもなく平仄もない、女性的優美の大和言葉は、いかにしても叙事詩の発想には適しない。これ実に日本に於て、昔から真の叙事詩《エピック》が無い所以《ゆえん》である。(此処《ここ》で「真の」と断わるのは、多少それに類したものは、上古にも後世にもあったからだ。)

 思うに日本語ほど、この点で特殊であり、非叙事詩的《アンチエピカル》な国語世界に無かろう。西洋言語は、どこの国の言語であっても、ずっと音律が強く、平仄アクセントがはっきりしている。特にその叙事詩的《エピカル》のことに於て、*独逸ドイツ》語は世界的に著るしい。独逸語音律は、ニイチェが非難した如く軍隊の号令的で、どこまでも男性的にきびきびしており、音語が挑戦《ちょうせん》的に肩を張ってる。(実に独逸という国は言語からして叙事詩的《エピカル》に出来上っている。)東洋に於てさえも、支那語は極めてエピカルである。支那語は古代の漢音からして、平仄に強くアクセントがはっきりしている。故に支那文学は、昔から叙事詩的な情操に富み、詩人は常に慷慨《こうがい》悲憤している。吾人が日本語によってこの種の表現をしようとすれば、いかにしても支那音漢語を借り、和訳された漢文口調でする外はない。純粋の大和言葉を使った日には、平板的にだらだらとするばかりで、どんな激越の口調も出ない。(大和言葉によっては、決して革命は起らない。)明治の改革は、実に幕末志士の漢文学からなされたのである。

* 独逸語支那語とが、発韻に於て多少似ていることに注意せよ。今日我が国の軍隊等で、少許《すこし》のことを「じゃっかん」と言い、物乾場のことを「ぶっかんじょう」と言い、滑稽《こっけい》にまで無理に漢語を使用するのは、発音に於けるエピックな響を悦《よろこ》ぶのである。著者はかつて「郷土望景詩」の或る詩篇で、一種の自己流な漢文調から、独逸語に似た詩韻を出そうと試みた。

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