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2005-04-18

[]西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論16:07 西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論」 - 国語史資料の連関 西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

皇国風の文字を論ずるに、上古

 室寿詞 書記顕宗紀  法隆寺薬師造像記 推古十五年

 古事記 元明和銅四年 出雲風土記 同六年

 日本紀 元正養老四年

 詔詞

この七部なり、このなかより文藻をえり出すべし。

 中古

竹取 伊勢 土佐〔割註〕古今序、大井川行幸序、庚申夜奉歌序。」

 下古風

宇津保〔割註〕此書竹取とひとしくふるきものながら、文体はふるからず。」より以下、源氏、狭衣にいたるまでの物語日記草紙をばすべていふ。さて右の三等にて、皇国風の文章は備はり、下古の文章は、さま/\の物語類をばむねとみずとも、只々源氏物語を見るべきなり。中古は三部ともにみるべし。さるをいま文章かゝむずる時は、下古の文法によるべけれど、中古風をよく腹にいれおかざれば、文章めゝしくて雄々しからず。その中古の中にも、いせ尤よし。さすれば伊勢源氏の二部にて、文章は明らかなり。

随筆大成旧2-2,p200

[]西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章16:10 西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章」 - 国語史資料の連関 西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

皇国の文章といふもの、西土のごとくおのがこゝろざしをいひ、思ひをのぶる為につくりしものにあらず。むかしは神にまうす祝詞と、臣下に令す詔詞と、御世々々の事をしるす日次のふみとの三よりほかになし。あるは出雲風土記の国引の詞、また神寿、室寿のものにてほかになし。いまの和文とてかくは、古今の序。大井川行幸の序などを祖とすべし。この文章のこと別にいふべし。

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2005-02-22

[][]佐藤誠実五十音考18:26 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

第二十二 五十音考 文学博士 佐藤誠実

 五十音は、吉備真備公の作れるなりとぞ、そは僧明魏倭片仮字反切義解に、到天平勝宝年中、右丞相吉備真備公、取所通用仮字真仮名なり】四十五字省偏傍点画、作片仮字、抑四十字、音響反阿伊宇江乎五字、此乃天地自然之倭語焉、是故竪列五字、横列十字、加入同音五字為五十字、然後弘仁天長年中、釈空海造四十七伊呂波、以便于女童、其体則草書とありて、吉備公が片仮字を作り、片仮字にて、五十音を列ねたりと云へり、さて其書の五十音の列ねやうは左の如し、

  アイウエヲ  ワイウエオ

  ヤイユヱヨ  ナニヌネノ

  タチツテト  ラリルレロ

  ハヒフヘホ  マミムメモ

  カキクケコ  サシスセソ

明魏は応永比の人にして、旧と藤原長親と云へり、仙源抄の跋を書きて、日本語に、平上去の三声あることを云へり、契沖和字正濫要略明魏法師と云ふ人は仮名文字遣ひを破りて、いゐをおえゑの類、みな、一つに書くべしと申されけるよし、或物に云へりとあるは、林羅山の鉄鎚?に依りたるのみにて、鉄槌?は、此仙源鈔の跋を見誤りたるならんか、

管弦音義【文治元年の作なり】に依りて、図を作れば、左の如し、

  阿宇伊乎衣  訶倶幾古計

  和宇焉於恵  娑須志曾世

  耶由以輿衣  婆不比保遍

  摩無美母免  羅留利呂禮

  多都知土天  奈奴仁能禰

 管弦音義には、阿行をば、初め一処には於と書き、次の二処には、乎と書きたり、今は多き方に就て、乎と書けり、

二中歴反音五音の図

  アイウエオ  カキクケコ

  サシスセソ  タチツテト

  ラリルレロ  ナニヌネノ

  ヤイユヱヨ  ワイウエオ

  ハヒフヘホ  マミムメモ

 天文本倭名類聚鈔字切の図

  羅利留禮呂  摩彌牟咩毛

  阿伊烏衣於  可枳久計古

  左之須世楚  多知津天都

  那爾奴禰乃  波比不倍保

  和焉有恵遠  夜以由江輿


韻鏡開奩【寛永四年宥朔作】直音拗音

アイウエヲ カキクケコ

サシスセソ タチツテト

ナニヌ子ノ ハヒフヘホ

マミムメモ ヤヰユエヨ

ラリルレロ ワイウエオ

 韻鏡開奩には「アイウエヲ」の「ヱ」を又は「エ」に作り「ワイウエオ」を又は「ワヒフヘオ」に作れり、


寛永十八年開版の韻鏡五音五位之次第は、大方韻鏡開奩に同じ、但し「アイウエヲ」「ヤイユヱヨ」に作る、

右の如く、五十音図は、種々さまざまなれども、今の世に行わるる図は、悉曇の順序に称いたれば、此図ぞ正しかるベき、されども「アイウヱヲ」の「オ」と「ワヰウヱヲ」の「ヲ」と、互に紛れたるを、本居宣長先生が、深く考へて正されしは、いとも大なる功なりけり、契沖和字正濫鈔文雄和字大観鈔は、誤れる図に依りたれば、其説大に窮せり、其初めは、必ず本居先生の説の如くなりしならん、後の物ながら、ト部懐賢?後嵯峨天皇比の人】の釈日本紀に、阿伊宇江於之五音相通?而称之と云い、天文本倭名類聚鈔も、上に引ける如く、阿行を於と書き、和行を遠と書きたり、いかにも、本居先生の説は動くまじき名説なり、

倭片仮字反切義解に、此五十音吉備公の列ねたりと云へるは、如何にぞや、余は空海悉曇を支那より伝えて後に、誰にかあらん、悉曇の順序に依りて、列ねたるかと思はるるなり、そは如何にてと云はんに、我邦に五十箇の音の備はりしことは、「エ」得と云ふ言ありて「ウ」と活用すれは、阿行の「エ」「ウ」なることを知るべく、「コエ」【肥越】と云ふ言ありて、「コユ」と活用すれば、也行の「エ」と阿行の「エ」と分ちありしことも知るべく、「クイ」悔と云ふ言ありて「クユ」と活用すれば、此「イ」は也行なるを知るべく、「ウヽ」と云いて「ウヱ」と活用すれば、此「ウ」は和行なることを知るべきなり、爾るに、古事記日本紀万葉集などにも「イヰエヱオヲ」の別は、いと厳なれど「イ」「エ」の中に、阿行、也行を分くることなく、「ウ」の中に、阿行、和行を分くることなし、是れ其時代は、我邦の人は、皆阿行にのみ唱えて、五十音の中四十七音ならではなかりしなり、されば、我邦の音のみに縋りては、かく五十音を列ぬることは叶はぬことなれば、必ず依る所ありしならん、さて何にか依りしと云はんに、支那の音韻などは、此次第とは、痛く異なれば、悉曇に依れりとすべし、此図も、上に引けるが如く、いささかづつの違いはあれど、大体は、みな悉曇と同じ、この故に吉備公の作とするは疑はし、又、世に円仁在唐記と云ふものありて、悉曇を載せて、多く真仮字にて、其音を注せり、此書、果して当時の物ならば、五十音図を作りし時には参考になりしこと多かりしならん、

倭片仮字反切義解に、吉備公五十音を列ぬる時に、原来、四十五音にして、「イ」は阿行、也行に亘りて、一音なるを、新に二音を加えて、三音とし、「ウ」「エ」「ヲ」は阿和の二行に亘りて、各、一音づゝなるを、新に二音づゝ加えて、いずれも二音とし、字は旧の音に依りて、四十五の片仮字を作りしが、空海に至り、伊呂波を作りて、四十七字としたりと云ふ趣に記せり、是れ亦疑はし、明魏吉備公の時の音は、今の如くなりと思ひたらんにもせよ、其時は、今日と同じく、四十四音にして、「エ」「ヱ」の別のなかりしことは、明魏より二百年許前なる、藤原信実?後鳥羽天皇比の人】が、絵師双紙【当時の書の臨写本に依る】などを見ても知らるゝことにて、四十五音はなかりしなり、又、吉備公の時には、四十七音ありしことは、万葉集などを見て知るべし、されば何人にもあれ従来の四十七音の上に三音を加えて、五十音を作れりと定むべし、

因に云ふ、吉備公が片仮字を作れりと云ふことは、古くは見えず、倭片仮字反切義解の外には、ト部兼倶?が日本紀神代鈔?にも見えて、片仮名は吉備大臣の作たりとありて、新井白石同文通考には、之に依れり、其説の非なることは、已に辨へたるが如し、又、片仮字を、大和仮名と云ふことは貝原好古が、大和事始?元禄十年の作】に片仮名、吉備、之を作れり、又、之を大和仮名と云ものは、吉備公の作にして、大和国に起るを以てなりとあり、又、谷川士清日本書紀通證【宝暦二年の作】も孝謙帝御宇、下道真備作旁仮字、曰大和仮字、桓武帝御宇、護命空海作母仮字、曰出雲国仮字とあり、是等の説は、殊に非なるべし

契沖和字正濫鈔元禄六年の作】には、片仮名は、吉備公の作など云へど、させる証なし、若し常の伊呂波と共に、弘法大師の作り給へり歟と云へれど、是も亦させる証なし、又、五十音吉備公の作なりと云ふは、倭片仮字反切義解の外には、殊に古くは見えず、日本書紀通證に、世伝五音相通図?振之之音、而吉備公為五字十行、書以旁仮字と云へるは、倭片仮字反切義解に依りて誤れるならん、思ふに、斯る説は、伊呂波仮字を、共に空海の作なりと云へるからに、五十音、片仮字を真備?の作なりと云ひて、一対のやうにしたるならん、なほ、倭片仮字反切義解に就ては、他日、別に論ずることあるべし、又世に明了房信範記【文永九年の著】と云ふ者あり、五十音の次第、今と全く同じくして、爾も阿行の「エ」を廴と書き、也行の「イ」を〓と書き、和行の「ウ」を于と書きて、「エ」「イ」「ウ」を分てり、是は近世の偽書なる由にて、取るに足らず、況して、斯く分たんには「ウ」は宇の字の省文なれば、和行の「ウ」を原のままにして、阿行の「ウ」を改むべきを、心附かざりしにや、或は之を助けて、「ウ」は宥の省文なりなども云へど、宥を仮字真仮名】に用ひたる例なければ、此説は信じ難し、(我が語学指南にも、姑く明了房の記に据りて記しゝかど、今思へば、快くもあらず、)

  因に云ふ、和字正濫鈔に、信範と云ふ僧、涅槃経文字品?に善男子有十四音名為字義とあるを、「アイウエヲカサタナハマヤラワ」の十四音なりと云ひし由記せり、韻鑑、古来傳来の旧記に、文永之間、有明了房信範、能達悉曇掛錫於南京極楽院閲此書、而即加和点、自是韻鑑流行本邦也とあり、信範記は、是等の説に裾りて、偽造せる者なるべし、

五十音の古く見えたるは、我が是まで見し書の中にては、承暦三年に写せる、金光明最勝王経音義に、五十音濁音を挙げて、婆毘父(夫)倍菩駄(堕)地(時)頭(徒)弟【中欠】我(向)義(疑)具(求)下(夏)吾(五) 坐自(事)受是増とあれど、偽書なるべし。其次には、藤原基俊【保延四年削髪】の悦目鈔に、「ラリルレロ」の五文字も大切なりとて、ら文字を歌の首尾に居ゑ、「リルレロ」も同じやうにして、五音の歌あり、又藤原清輔【知承元年卒】の奥義鈔に、「キ」も「ク」も、五音の宇なれば、同じ事なりと云ひ、其弟の僧顕昭の袖中鈔に、「マ」と「メ」とは同じ五音なる故なりとも、「カケコクキ」の五音【此列ねかた亦異なり】叶へる故にとも云へり、其次は、上に引ける管弦音義の類にて、塵添壒嚢鈔にも「タチツテト」「ラリルレロ」など云へり。

五十音の初めは、国語の為にしたる者なるべし、されども、盛に音韻の翻切に用ひしことは、倭片仮字反切義解とある題号にても、又、其書の中に、父字子字など云へるにても、二中歴に、反音五音と云へるにても、天文本倭名類聚鈔に、字切とありて其注に、切与反同、同音取下字、又一行之中、取下切字為正字、軽重清濁依上字、平上去入依下字とあるにても知るべし。そは兎もあれ、角もあれ、五十音と云ふものは、我邦の言語の為には、至極都合の宜しきものなり。

  〔『国文論纂』(國學院、明治三十六年)所収〕

明治二十五年 『大八洲雑誌』『大日本教育会雑誌』に初出、いま『国文論纂』明治三十六年、三四九~ 三五八頁による。また『日本語の起源と歴史を探る』新人物往来社一九九四に再録


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2005-02-19

[][]橋本進吉五十音図橋本進吉「五十音図」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 橋本進吉「五十音図」 - 国語史資料の連関 橋本進吉「五十音図」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

五十音圖 國語

【名称】古くは五音図といつた。反音圖・假名反の圖・對馬以呂波(いろは)・五十字文・「いつらのこゑ」ともいふ。


【解説】假名を左の如く五字づつ十行に列ねた圖をいふ。

  ア イ ウ エ オ

  カ キ ク ケ コ

  サ シ ス セ ソ

  タ チ ツ テ ト

  ナ ニ ヌ ネ ノ

  ハ ヒ フ ヘ ホ

  マ ミ ム メ モ

  ヤ ィ ユ エ ヨ

  ラ リ ル レ ロ

  ワ ヰ ウ ヱ ヲ

縦の各行を「行」と云ひ、その最初の假名によつてそれ%\ア行・カ行・サ行などいふ。横の各列を「段」又は「列」と云ひ、その最初のア行の假名によって、それ%\ア段・イ段・ウ段など又はア列・イ列・ウ列などいふ。一々の假名は必ず一定の行の一定の段に位する。行及び段は一行又は一段づつ連ねて呼ぶのが常である。五十音は、古くは萬葉假名で書いたものもあるが、早くから片假名で書いたものがあリ、後にはそれが例となつた。それ故、片假名五十音圖とを混同する事もあつた(片假名参照)。しかし近來は平假名で書く事も多くなつた。又五十音図には、あらゆる發音を異にする假名が含まれ、それが一定の順序に排列せられてゐるために、假名で書いた語を排列する時には五十音の順による事が多い。


五十音と假名の発音】五十音図は、原則として、一々の假名の示す音節を二つに分解して、初めの子音の部分の同じものを同行に、終リの母音の部分の同じものを同段に置いたものである。それ故、五十の音は、悉く互に違つた音であるべきであるのに、ア行のイどヤ行のイ、ア行のエとヤ行のエ、ア行のウとワ行のウは全く同じ假名であつて、假名としては発音上区別がない。それ故、一方に別の字を置いて(例へばヤ行のイに「〓」を、ア行のエに「〓」又はヤ行のエに「〓」を、ワ行のウに「于」を置いて)音の相違を明かにしようとしたものもある(古く萬葉假名で書いた五十音図にはごれ等を区別したものがある)。この中、ア行のエとヤ行のエとは、古く発音にも假名にも區別があつたが、後に同音となリ假名も一つになつたのである。又、ワ行のヰ・エ・ヲは、今はア行のイ・エ・オと同音であるが、これも古代には発音上区別があり、同音になった後も、假名としては、別々のものと考へられてゐる。又、サ行のシ、タ行のチ・ツは、理論から云へばsi・ti・tuであるべきであるが、今はshi(∫i)、chi(t∫i)tsuとなつて、例に合はないが、古くはチ・ッはtituと発音した(「シ」の古音は、siかshiかまだ明かでない)。かやうに古代の假名の発音によれば、五十音図は、大抵規則正しいものとなり、当時の國語の音をその異同によって組織的に排列した音聲表と見られるが、なほヤ行のイ、ワ行のウの如き、古代國語に無かつた音を加へてゐる。さうして後世、國語の音声変化に伴ふ假名の発音の変化と共に、五十音圖は音聲表としては正しくない部分が生じたが(タ行がta chi tsu te toとなリ、ワ行がwa i u e oとなったなど)、それにも拘はらず、國語の音相通又は声転換等を示す図としては、そのまゝ用ひる事が出來る。(例へば、「こゑ」――「こわいろ」に於ける「ゑ」と「わ」の転換は、「ゑ」の発音がweからeに変化した後も、やはリワ行の二段とア段との転換である)。


五十音圖の異同】古代からの文献に五十音圖の全部又は一部が見えてゐるものを集めて見ると、その行及ぴ段の順序に異同あるものが少くない。段の順序に於ては今の五十音図の如くアイウエオの順序であるものの外に、古くイオアエウ、アエオウイ又はアウイオエと次第するものがあり、行の順序は、今の五十音図に普通であるアカサタナハマヤラワの順序と多少の差あるものが非常に多く、今の順序のまゝのものは平安朝にはなく、鎌倉時代にもあまリ多くない。しかし吉野時代頃からは次第に多くなり、室町時代に於ては大概これに一定したやうである。現存最古の五十音圖に属する明覺の「反音作法」及ぴ「梵字形音義」に見えるものは、萬葉假名を用ひ、ア行は阿伊烏衣於、ヤ行は夜以由江與、ワ行は和爲于恵遠とあつて、片假名で区別なき音まで区別してゐる。又、明覺の書にある片假名五十音圖でも、当時同音になってゐたとおもはるゝイエオとヰヱヲとの位置も正しくなってゐる。然るに平安朝終りから鎌倉時代に入っては、ア行のオとワ行のヲとの位置を誤って、ヲをア行にオをワ行に置いたもの、又は、ア行・ワ行共にヲとしたものが出來、それが次第に普通となり、更に、エとヱ、イとヰの属する行を誤るものさへも出た。然るに江戸時代に入りて、契沖の挙げた五十音圖は、ア行のオとワ行のヲとの位置が入れかはリ、その他は正しくなってゐたが、本居宣長にいたりて、その誤を訂して、古代のまゝの正しい図が行はれるに至った。


五十音圖に關する最古の文献】現存最古の五十音圖として年代の明かなものは、悉曇學者僧明覺の著なる寛治七年の「反音作法」承徳二年の「梵字形音義」及ぴ康和三年以後の作たる「悉曇要訣」に見えるものである。なほ古いのは、大矢透氏が寛弘よリ萬寿年間迄のものと推定せられた醍醐三宝院所藏古寫本「孔雀経音義」の巻末に七行だけあるものと、承暦三年に出來た「金光明最勝王経音義」に濁音の行を挙げたものとがある。なほ天台座主良源から道命に傳へたと称する「五韻次第」の中にもあるが、この書は早くも平安朝の終リ、多分は鎌倉時代のものと思はれる。


五十音図成立の由來】 五十音図國語の音声表のやうに見えるけれども、元來國語のために作られたものでなく、外國語學、殊に漢字音の反切(別項)のために作られたものらしく思はれる。國語には区別なく、漢字音(及ぴ梵語梵字)では区別があるア行のイとヤ行のイ・ア行のウとワ行のウを区別したのも、漢字の音を反切で示した「孔雀経音義」の末尾に最古の五十音圖の一つが見出されるのも、僧明覺が最も古く五十音図を挙げて假名による反切法を説いてゐるのも(反音作法)、後世までも五十音圖反切に用ひられて、反音図とも假名反の圖とも名づけられたのも、右の如く考へれば最も自然に解せられる。反切のためには、各行の假名が皆同様の順序に並んでゐる事だけが必要なのであつて、行と行との順序も、行中の假名の順序もどんなでもよいのである。又賓際用ひる場合には、反切の上字と下字とに關係ある二行だけあればよい。古代の五十音図に、行や段の順序がさま%\になつてゐるのも、又古書に二三の行だげ見えて全部揃はないものがあるのも、かやうな理由による。尤、支那語の音声は日本語よリ複雑であつて、日本語に無い音が少くない故、正確な漢字音は假名では寫し盡せない譯であり、梵語も亦同様であるが、支那との交通が盛んであつた時代には、正確な支那語又は梵語の發音が伝はってゐたであらうが、間もなく日本化した事と思はれるから、漢字音も梵字の発音もすべて假名で示し得る事となつたのであらう。その時代に同じ子音ではじまる音を連呼して反切をなす事となつて、五十音図の個々の行が出來、それが纏まつて五十音圖となったのであらう。


五十音圖悉曇】同じ子音を有する音を連呼する事は、悉曇に於てあリ、悉曇章の各行は皆同子音ではじまる音節である(悉曇参照)。その順序はa ā i ī u ū e ai o au am ahであって、日本の假名に無いものを除けばアイウエオの順となる。又子音悉曇字母に於けるものの中、日本語に無いものを除けば、カサタナハマヤラワの順序となる。これによれば、現今の五十音圖悉曇に基づくものであること疑ない。古代の五十音図は、段の順序に於ては、明覺以後アイウエオの順のものが最も多く、悉曇の影響が明かであるが、しかし「孔雀経音義」の末尾や、教長の「古今集註」や、顯昭の「日本紀和歌註」、涼金の「管絃音義」の如き古い時代のものには、これとも違ひ、又相互にも同じくないものがある。これ等は、或は悉曇とは關係なく、漢學者、その他から出たものかも知れない。又行の順序は、悉曇に一致するものは、鎌倉時代以後のものであつて、それ以前には見えないやうである。これはその順序があまリ大切でなかつたためでもあり、又學者が自分の考で、音の性質の類似したものを近くに置いたリしたためでもあるらしい。しかし、途に今日の如き順序にきまるやうになったのは、悉曇の影響であることは疑ない。


五十音圖の成立年代及ぴ作者】現存文献の示す所では、五十音図は院政時代には既にあリ、平安朝半頃にも多分あつだらうと考ヘられる。その作者については、藤原長親(耕雲明魏)の「倭片假名反切義解」には、吉備眞備を片假名及び五十音図の作者としてゐるが信じ難い。眞備は支那に留學して、常時の支那語に精通してゐたのであるから、漢字音のために作つたとすれば、五十音では、漢字音を写すに不足であり、又國語のために作つたとしても、奈良朝に於ては、國語の音節の種類は少くも六十ぽどあつて(別項「國語」の中「沿革」の條を見よ)、五十音ではやはリ不足であるからである。又江戸時代の國學者には、既に神代からあつたと考へたものもあつたが(眞淵の「語意考」、篤胤の「古史本辭経」など)、これは一層成立し難い。大矢透氏は、萬葉假名で書いた最古の五十音圖及びその系統のものに於て、ア行のエとヤ行のエとを区別した事、及ぴこれに用ひた文字が、弘仁よリ天暦までの有様に一致し、且つその母音を写した文字が「慈覺大師在唐記」中の悉曇字母の音註に類似した点がある事と、萬葉假名五十音図を有する「五韻次第」が良源の伝本といはれてゐる事からして、天台の慈覺大師圓仁の流派から出たものであることを主張された(音圖及手習詞歌考)。しかしながら、現存最古の五十音圖が、果して原始的の形を残してゐるものかどうかは疑問であリ、假にさうであるとしても、これはア行・ヤ行・ワ行のあらゆる音をすべて区別してゐるのであるから、ア行のエとヤ行のエとの別ある事のみを標準として時代を論ずるのは、當を得たものとは思はれない。又大矢氏は、五十音図が最初から悉曇と關係あるものとして説を立てたのであるが、その他の系統のものが無かつたとも断定出來ない(前出)。されば大矢氏の論は、まだ根據薄弱であると言はなければならない。今日の處では、五十音圖平安朝の前半の中に出來たものの様であつて、悉曇學者即ち僧侶が之と深い關係があつた事は否めないが、果してそれが最初の又唯一の作者かどうかは未だ決し難い。


五十音図國語研究】 五十音圖は主として反切のために作られたもののやうであつて、後までも反切に用ひられ、韻学に必要なものとせられたが、又國語の音声表とも見られ、國語の音の性質を説明するに便宜であり、殊に仮名のやうな、音節文字を用ひる國語に於て、音節中の単音の変化又は轉換を示すには必要であるところから、國語研究にも利用せられ、語釋語源の説明からはじめて、仮名遣てにをは活用の研究にいたるまで、間接直接に影響を與へたのであつて、國語研究には缺く事の出來ないものとして重んぜられた。(別項「國語學」の中「國語研究略史」參照)、


【参考】音図及手習詞歌考 大矢透*

音圖及手習詞歌考を読む 吉澤義則(國語國文の研究)*

五十音考 佐藤誠實(國文論纂*

五十音圖に就いて 金澤庄三郎(國語の研究)

五十音圖の歴史 山田孝雄              〔橋本〕

『新潮日本文学辞典』新潮社( 橋本進吉国語音韻史』岩波書店にも再録)

http://blog.livedoor.jp/bunkengaku/archives/25104025.html

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2002-06-30徒然草(22)

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 何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。

 文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講の御聴聞所なるをば「御講の廬」とこそ言ふを、「講廬」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。


古事類苑』人部十一「言語

長谷川如是閑国語の文化的性格」(『文学』1941.4)(『言葉の文化』p139)

松村明(1986)『日本語の世界日本語の展開』p16