国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2014-01-02

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 時は夏の半、「いやとこせ」と長閑《のど》やかに唄ひつれてゆくお伊勢參《まゐり》の群も、春さきほどには騒がしからぬ伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舖文海堂柏屋兵助の店先に、「御免」といつて腰をかけたのは、魚町の小兒科醫で年の若い本居舜庵であつた。醫師を業としては居るものの、名を宣長というて、皇國學《みくにまなび》の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧客《とくい》であるから、主人は笑《ゑ》ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ殘念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、お立よりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここへ」と、いつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は、「何でも、田安樣の御用で、山城から大和とお廻りになつて、歸途《かへり》に參宮をなさらうといふので、一昨日、あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫《むくみ》が出《で》たとやらで御逗留、今朝はもうおよろしいとのことで、御出立の途中を、何か古い本はないかと、暫らくお休みになつて、參宮にお出かけになりました」。舜庵「それは殘念なことである、どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の樣子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて、次の宿なる垣鼻《かいばな》村のさきまで行つたが、どうしてもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて來た。

 數日の後、岡部衞士は、神宮の參拜をすませ、二見の浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に、再び松坂なる新上屋に宿つた。もし歸りにまた泊られることがあつたらば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使を得た。樹敬寺の塔頭《たつちゆう》なる嶺松院の歌會にいつて、今しも歸つて來た彼は、取るものも取りあへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は二十五、その弟の

春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衞士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。

 賀茂縣主眞淵、通稱岡部衞士は、當年六十七歳、その大著なる冠辭考萬葉考などもすでに成り、將軍有徳公の第二子、田安中納言宗武國學の師として、その名嘖々たる一世の老大家である。年老いたれども頬豐かなるこの老學者に相對せる本居舜庵は、眉宇の問にほとばしつて居る才氣を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壯年。しかも彼は、二十三歳にして京都に遊學し、醫術を學び、二十八歳にして松坂に歸り、醫を業として居るが、京都で學んだのは啻に醫術のみでなくして、契沖の著書を讀破し、國學の蘊蓄も深く、排蘆小船《あしわけをぶね》のごとき著書もあつたのである。

 舜庵は、長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき對面を喜んで、かねて志して居る古事記註釋に就いてその計畫を語つた。老學者は、若人の言を靜かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意《からごころ》を清く離れて真のまことの意《こころ》を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには、萬葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は、專ら萬葉を明らめて居た間に、既にかく年老いて、殘りの齡いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば、必ず成し遂げられるであらう。しかし、世の學問に志す者は、とかく低い處を經ないで、すぐに高い處へ登らうとする弊がある。それで低い處をさへ得る事が出來ぬのである。この旨を忘れずに心にしめて、まつ低いところをよく固めておき、さて高い處に登るがよい」と諭した。

 夏の夜はまだきにふけやすく、家々の門《かど》のみな閉ざされ果てた深夜に、老學者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利《をけり》の主人は律儀者で、いつも遲くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍《たが》をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には何の音も響かなかつた。

 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳藏の仲介で名簿《みやうぶ》をささげ、うけひごとをしるして、縣居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾來、松坂と江戸との間、飛脚の往來に、彼は問ひ此《これ》は答へた。門人とはいへ、その相會うたことは纔かに一度、ただ一夜《ひとよ》の物がたりに過ぎなかつたのである。

 今を去る百五十餘年前、寶暦十三年五月二十五日の夜、伊勢國飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下《もと》に語つた老學者と、若人とを照らした。しかも、そのほの暗い燈火ね、吾が國學史の上に、不滅の光を放つて居るのである。

  附言。余幼くて松坂に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁日記玉かつまの數節等をあざなひて、この小篇をものしつ。縣居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、當夜、宣長と同行せし者(尾張屋太右衞門)ありしものの如くなれど、ここには省きつ。                大正五年九月

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