国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2013-06-04

柳田国男「蝸牛考」四つの事實 柳田国男「蝸牛考」四つの事實 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 柳田国男「蝸牛考」四つの事實 - 国語史資料の連関 柳田国男「蝸牛考」四つの事實 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 最初に方言の觀察者として、先づ少なくとも四つの事實が、我々の國語の上に現存するとを認める必要がある。是が又自分の「蝸牛」を研究の題目として、わざ/\拾ひ上げた動機をも説明するのである。

 第一には方言量、斯ういふ言葉を新たに設けたいと思ふが、日本の方言は全國を通觀して、その目的とする物又は行爲毎に、非常に顯著なる分量の相異がある。たとへば松は昔からマツノキ、竹は昔からタケであつて、如何なる田舍に行つても日本人ならば呼び方を變へて居ない。動詞にも形容詞にも是と同じ事實はあるが、説明が煩はしいから主として物の名を擧げる。小さな動物で謂つて見ても、土龍は何れの土地でもムグラモチか、ウゴロモチかイグラモチかであつて、其以外の別名は殆と聽かない。蜘蛛はクモでなければ、クボかグモかキボかケーボと轉音するのみであり、蟻はアイ・イヤリ・イラレ等に變つて居る他には、僅かにアリゴ・アリンボ・アリンド又スアリなどゝなるばかりで、異なつた名詞は一つも無いと言ひ得る。是に反して魚では丁斑魚、是にはメダカ・メンパチの如く眼に注意したものゝ他に、なほウルメ・ウキス其他の十數種の地方名があつて、それが又細かく分れて居り、蟷螂にはイボムシ・ハヒトリ・ヲガメ等の、全く系統のちがつた二十に近い方言が、いつの間にか出來て相應に弘まつて居るのである。蝸牛が又其中の驚くべき一例であることは、讀者は程無く飽きる位それを聽かされるであらう。此等の事實から推して、方言生成の主たる原因が、必ずしも國語の癖、又は歴史の偶然に在つたとは言はれないこと、即ち地方言語の差異變化を要求する力が、目的物そのものに在つたといふことが、直ちに心づかれるわけである。方言訛語とを混同した從來の誤り、それからやたらに數多く松や櫻の地方名までも集めようとした、前の調査者の無用なる物好きも、やがて悔いられる時が來ると思ふ。

 第二には方言領域、この術語も是から大いに用ゐられる必要がある。個々の事物に對する個々の單語は、やはり各自の支配力を持つて居て、たゞ同種の事物に於て對抗して居る。別な言ひ方をすると、蟷螂や丁斑魚の方言を共同にして居る土地でも、蝸牛なり土筆なり梟なり、其他の多くの語は別々のものを用ゐて居て、あらゆる方言を組合せて、甲乙異なる組といふものは無いといふことである。尤も大數の上から見て九州と奥羽、又は中央部と國の端とは、差異が多いといふことは有り得るが、それにも例外は甚だ多く、豫め命名法の一つの傾向の如きものを測定することは出來ぬ。個々の方言はそれ /゛\の領分を、何れも自分の力を以て拓き又保持して居て、しかも單語毎に其地域には著しい大小がある。是も二三の實例を以ていと容易に立證し得られるが、それを重ね取り寫眞の如く積み重ねて見た上でないと、近年唱導せられる「方言區域」の説、即ち東國方言とか上方言葉とかの名目は、訛り即ち音韻の變化以外には、まだ安心して之を探用し得ないのである。

 第三には方言境堺、即ち二以上の方言領域の接觸面には、他では見られない特殊の現象が發生することも認められなければならぬ。その特殊相といふのは、(イ)には數語併存であり、(ロ)には即ち複合である。一つの土地の一つの物體には、一つしか方言は無いだらうといふ今までの想像は、之に由つて恐らくは覆へされるであらう。方言の蒐集者に取つては、この境堺線上の言語現象は、可なり印象の深いものである。將來の方言區域説は、專ら此方面からの考察によつて決定せらるべきであらうが、大體に同じ樣な錯綜の起り易い土地といふものがあるから、將來は獨り方言分布を知る爲のみならす、なほ交通と移住との歴史を明かにする爲にも、もつと深い注意をこの方言の邊境現象に拂はなければならぬことになるかと思ふ。是も後に詳説するつもりであるが、たとへば加賀能登越中は特に蝸牛の方言に於て、最も數多き小領主を簇立せしめて居る土地であつて、同時に又蟷螂と雀とに付ても、澤山の方言をもつて居る。他の一方關東の利根川下流と、其兩岸十數里の平地は、やはり雀と蝸牛との二種の方言に富んで居る區域である。雀の如き變化の少ない名詞が、特に此二地方に於て、蝸牛と同樣の境堺現象を示して居るといふことは、何か今までの方言區域説にも便利なやうであるが、斯ういふ一致はまだ他の動植物に付ては見出されて居ない。たゞ幾分か遠方の旅客の來往が繁かつたらしき地域に於て、殊にこの錯綜の傾向が著しいといふのみである。東國でいふと山梨縣、それから三河の碧海郡なども此例に引くことが出來る。一方に九州の方では大分縣が、少なくとも蝸牛だけに付ては、可なり紛亂した境堺線を持つて居る。自分一個の假定としては、此現象は方言の輸送、即ち人は移住せすとも新たに隣境の用語を採つて、我が持つ以前のものを廢止する事實が、度々あつたことを意味するかと思つて居る。もしさうだとすると、是は交通の問題であつて、方言區域の説を爲す人の心中の前提、即ち九州人だから九州方言を、北陸人なら北陸方言を、保留して居たと見る理由としては、頗る不十分なものになつて來るわけである。

 第四には方言複合の現象、是はあまり長たらしいから後に説くことになるが、前段に謂ふ所の數語の併存といふことは、やはり文化の交通と關係があるもので、人は或は之を採集地域の限定に基づくものとし、たとへば一縣の方言としてならば、富山石川の如く蝸牛に數十種の名稱があることになつても、之を郡又は村大字として見るならば、やはり一つの土地には一つしか方言は無いのだと思ふかも知らぬが、事實は必すしもさうでは無い。即ち個々の話者を單位として、一人が知つて居る語も亦幾つかあるのである。是は結局定義の問題に帰着するかも知れぬが、耳の方言即ち人が言ふのを聽いて、即座に會得するものも亦其土地の語であるのみならす,それと純乎たる口の方言、即ち平生自然にロへ出る語どの中間にも、實はまだ幾つかの階段があるので、常には使はぬが稀には使ふ、若くは少し聽耳を立てさせようと思ふときに、改めて使ふといふ方言もあるのである。もし方言の領域が非常に小さくなつて、たとへば茨城縣南部の蝸牛などのやうに、次の部落に行くともう別の名があるといふ迄になれば、それが縁組によりて更に交錯し、小兒は母の使ふ語に附くといふこともいと容易なので、後には家々で選擇を異にするといふ場合さへ現れて來るのである。しかも此様な事實は、決して廣大なる一つの方言領域の、中央部に於ては起るべきものでなかつた。即ち距離と交通方法の便不便とが、私の言はんとする個々の方言量、及び其領域の大小と、深い關係を持つて居たことは、疑ふことが出來ないのである。しかしながら是ばかりでは説明し難いことは、如何にして最初同一の事物に付いて、二つ以上の單語が分立し、又割據するやうになつたかといふことである。幾つかある同種方言の中で、或者は曾て廣大なる領分をかゝへ、又他のものは狹い區域に引籠つて居た理由としては、其選擇なり流行なりの根本に、既に一種新語作成の技衒、即ち前から名のあるものに、もう一つ好い名を付與しようとする企てと、それを批判し鑑賞し又採用する態度とがあつたこと、別の言ひ方をすれば、言語も亦廣い意味文藝の所産なりしことを、想像せぬわけには行かぬのである。それが今日までの方言變化の上に、果してどの程度まで一貫して居るか。又所謂標準語の確認に向つて、どれだけの支援を與へて居るか。現在用ゐられて居る日本語の語數は、恐らく千年前に比して數倍の増加を見て居る。しかも只其一小部分のみが、新たなる文物と伴なうて、國の外から輸入せられたのである。さうすると其殘りの部分の増加は、何の力に由つて之を促したのであるか。誰か文化の上層を占めて居るといふ者で、意識して之を試みたものが一度でもあつたらうか。彼等が「匡正」に努力する方言の亂雜といふことが、假に無かつたとしたならば、果して同じ結果を得られたであらうかどうか。斯ういふ問題も一應は考へて置くべきものであつた。

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