国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2013-06-02

柳田国男「蝸牛考」初版の序 柳田国男「蝸牛考」初版の序 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 柳田国男「蝸牛考」初版の序 - 国語史資料の連関 柳田国男「蝸牛考」初版の序 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 前年東條氏の試みられた靜岡縣各村の方言調べ、又は近頃岡山縣に於て、島村知章佐藤清明君等の集めて居られる動植物名彙などを見ると、言葉が相隣する村と村との間にも、なほ著しい異同を示す例が、日本では決して珍らしくないといふことがわかる。府縣を一つの採集區域とした方言集が、よほど氣を付けぬと正確を保ち得ないのは勿論、親切なる各郡々誌の記述でさへも、果して能く隅々の變化までを代表して居るかどうか、時としてはやゝ心もと無い場合がある。我邦が世界の何れの部分にも超えて、殊に言語の調査を綿密にする必要があり、又その大いなる價値があると思ふ理由は、獨り人ロの夙に たゞよひ、土著の順序が甚だしく入組んで居たといふだけでは無い。海には何百といふ小島が、古い新らしい色々の村を形づくり、一方には又小國五箇山中津川といふ類の奥在所が、嶺に取圍まれて幾つと無く、異なる里人を定住せしめて居るからである。岬の端々に孤立する多くの部落などは、今まで何人も心づかなかつたけれども、實際はこの島と山里と、二つの生活の特質を兼ね備へて居たのである。さういふ土地の方言報告は、遲れて到逹するにきまつて居る。故に若し國語の調査を周到ならしめんとすれば、進んで我々の方から指定又調査しなければならぬ區域が、實は日本には非常に多かつたのである。

 それが少なくとも今日までは、まだ一つとして調査せられたものが無い。方言採録の事業は既に過去四十年に亙り、其編集も亦數百の多きを見たけれども、なほ我々の資料が貧弱の感を冤れないのは、言はゞ未知の事實が餘りに豐富なる爲であつた。私は自身數年の實驗によつて、誰よりも痛切にこの不備を認めて居る。從つて言語誌叢刊の將來の收獲に向つて、最も大いなる期待を繋けて居る。故に現在のやうな乏しい知識を基にして、歸納の方法を試みようとすることは、或は自己の危險を省みざる所業と評せられるであらう。しかし新たなる次の發見の爲に、覆へるかも知れぬのは粗忽なる私の假定だけであつて、私が處理し整頓して置いた事實の方は、たとへ追々に其重みを加へぬまでも、兎に角にそれ自身の意義を失ふことは無いと信する。此方法は今後の資料の累積と比例して、歩一歩完成の域に進むべき希望のあるものであるが、假に不幸にしてまだ當分の聞、日本の採集事業が今の状態に放置されることにならうとも、少なくとも各地に散在する同志の人々を、糾合し又慰留するぐらゐの效果だけはある。我々は所謂方言の理論、方言國語の眞實を闡明する爲に、如何に大切であるかを既に聽き知つて居る。それが一二の進んだ國に於て、最近どれ程の成績を擧げ、たかといふことも、頼めば講説してくれる人が必す有るであらう。獨り欠けて居るかと思ふのは學問の興昧、斯ういふ切れ/゛\の小さな事實を集めて行くことが、末にはどういふ風に世の中の智慧となるか、それを眼の前の實例によつて説明することであつた。是にも方式があり又準備が無ければならぬが、私には徒然草説教僧のやうに、乘馬の稽古の爲に費すべき若い日が無いので、其支度の調ふのを待ちきれずに、忍んでこの未熟の初物を摘み取つて、やがて大きな御馳走の出るまでの、話の種にしようとするのである。我々俗衆の學問に對する手前勝手な要求は、第一には之に由つて怡樂を得、又安息を得んとすることである。それには萬人の幼なき日の友であり、氣輕で物靜かで又澤山の歌を知つて居るデデムシなどが、ちやうど似合はしい題目では無いかと思ふ。私たちは田舍の生活に遠ざかつて居る爲に、既に久しい間この蟲が角を立てゝ、遊んであるく樣子を見たことが無い。其進歩の痕の幽かなる銀色をしたものが、眼に付くことも段々に稀である。都府の庭園が日照り耀いて、餘りに潤ひの足らぬといふことも、蝸牛の靜かなる逍遥を妨げて居るか知らぬが、一つには我々の心があわたゞしく、常に物陰の動きを省みようとしなかつた故に、是も多くの過ぎ行くものと同じく、知らぬ間に無くてもよいものになつてしまつて居るのである。我々はこの小さな自然の存在の爲に、もう一度以前の注意と愛情とを蘇らせ、之に由つて新たなる繁榮の悦ぴを現實にして見たいと思ふ。所謂蝸牛角上の爭鬪は、物知らぬ人たちの外部の空想であるゆ彼等の角の先にあるものは眼であつた。角を出さなければ前途を見ることも出來す、從つて亦進み榮えることが出來なかつたのである。昔我々が角出よ出よと囃して居たのは、即ちその祈念であり又待望でもあつた。角は出すべきものである。さうして學問が又是とよく似て居る。

  かたつむりやゝ其殼を立ち出でよあたらつの/\めづる子のため

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1823865/5
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