国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2013-01-04

国語史上の暗黒な空隙(安藤正次『国語史序説』第四章 集中・偏在の時代国語史上の暗黒な空隙(安藤正次『国語史序説』第四章 集中・偏在の時代) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 国語史上の暗黒な空隙(安藤正次『国語史序説』第四章 集中・偏在の時代) - 国語史資料の連関 国語史上の暗黒な空隙(安藤正次『国語史序説』第四章 集中・偏在の時代) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 奈良朝時代平安朝時代との間には、国語史の上に一の暗黒な空隙がある。その間の国語資料は欠けてゐる。和歌にしても、万葉集古今集との間をつなぐべき資料に乏しい。散文にしても、わたくしは、既記のやうに、続紀の宣命竹取伊勢・土佐などとの間に一脈のつながりを見出してゐるけれども、それは弱い。儒学漢文学の方面では、大学国学の制は連綿として絶えず、列聖常に意を講学に用ゐさせられ、ことに仁明・嵯峨の両帝は、漢文学の奨動に力をそそがれたので、斯学の、隆運はまことに人目を眩するものがあつた。大学に対して諸氏の私学も起つた。弘文院は和気清麻呂の子広世が父の志を纒いで創設したもので、日本後紀には、「大学南辺、以2私宅1置2弘文院1、蔵2内外経書数千巻1、墾田四十町、永充2学料1、以2終父志1焉。」と記してある。弘文院に次いで創立の旧きは勧学院である。嵯峨天皇弘仁十二年藤原冬嗣の肇めたところで、これを大学の南曹とし封戸を割いて、その資としたのである。これについでは嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が、その弟氏公と議して設立された学館院があり、王氏の学問所であつた淳和院、元慶五年在原行平の設立した奨学院などがある。淳和天皇の天長年中僧空海の設立した綜芸種智院もまた儒仏二教を教授するためのものであった。したがつて言時における漢詩文はめざましい発達を示してゐたが、わが国文学の方面にはほとんど見るべきものがなかつた。世の学者の多くが、この時代国文学史上の暗黒時代となすのはこの故である。

 しかしながら、この期間は、国文学にとつては、実に平安朝中期の展開をなすべき準備時代であつたのである。草仮名の発達は、この期間の所産であるといつてもよい。国語書記すべき簡易平明な文字を有たなかつたために、その進路を妨げられてゐた散文は、草仮名の発達によつて、はじめて光明を得たのであつた。したがつて、われわれは万葉より古今へ、宣命より竹取伊勢・土佐へと移つて、直ちに平安朝文学の春に接することになり、いかにもその間に一大飛躍があるやうに感ずるのであるが、おもふにこれは資料の中断に基づく認識の不足であらう。言語はさう急速に変化するわけのものではない。この故にわたくしは、奈良朝時代から平安朝末に至る間を以て、国語史上の大きな一時期と見、これを以て国語の発達の第一期と考へることも可能であると思ふ。奈良朝時代は、国字がまだ漢字仮用時代を脱しなかつたために、国語もなほ十分の発達を遂げるに至らなかつた時代であつた。奈良朝時代にあつては、儒学漢文学がなほ純支那的のものたるを失はず、漢音呉音の学習も語学的に相当に重んじられてゐたために、漢字字義漢字の字音の歪曲は識者の許すところではなかつた。しかるに、平安朝に入つては、草仮名の発達があつて、国語書記にも不便を感ずることなく、漢字の使用においても自主的裁量を下すことが出来るに至つたことは、国語・国文の発達にかなりの影響を与へたものである。遣唐使の廃止も、支那語学支那文学の方面では、一つの著しい打撃ではあつたらうが、国語国文の方面にとつては、それは一つの福音でもあつたのである。

 平安朝国語は、かくの如くにして、国語史の上において、二つの重要な意義をもつてゐる。一はすなはち、発達史的のものであり、一はすなはち文化史的のものである。発達史的に考へれば、平安朝国語は、国初以来の伝統をもつわが国語が、多くの年代を重ね、大化の改新を一転機として、爾後幾多の外面的影響をうけ、不断の内面的展開を示して来ながら、ここに一旦落付くところに落付いたといふやうな、発達の一段階を示すものである。これを文化史的に見れば、平安朝国語は、王朝文化の所産として、王朝文化がわが国において後世の仰慕するところであつたがために、長く規範的の力をもつやうになつた。ただし、その規範の力は口語に及ばなかつたのは、いふまでもない。それは和歌において、和文においてのみ権威を有するに過ぎなかつたのである。

 平安朝国語の軌範としての力が、口語の上に及ばなかつた理由は明白である。それは、平安朝の中期頃から、言文が二途にわかれたからである。何故に言文が二途にわかれたかについては、従来はつきりした答が与へられてゐないが、わたくしは、この時代文学が、和歌にせよ、物語にせよ、貴族文化の上に発達したものであるからであると思ふ。言語学上から見ても、口語文語とはどうしても相分れる運命にあるには相違ないが、いはゆる縒れつ縺れつで、常に不即不離の関係に立つのが普通の場合である。しかるに、わが国語にあつては、延喜天暦の頃に袂を分つた口語文語が、明治の御代に至るまで、相会ふことの無かつたのは、まことに不可思議な次第といはなければならぬが、これは、わが国の過去における文化の集中性・偏在性の然らしめるところである。過去における文化は、地理的には首府に集中し、階級的には上流に偏在してゐた。これは、奈良朝時代からすでにさうである。万葉集における東歌は、地理的には東国であるが故に、階級的には下層のものであるが故に、それらの人人の歌を特殊の存在として取扱つたものである。方言尊重の意味でないことはいふまでもなく、編者は全く異郷趣味ともいふべきものに刺戟されたのであらう。方言の軽侮は、平安朝文学の諸所に見えてゐる。都人士は、地方の言葉を嗤ふ。これは、教育その他の見地からではない。ただそれが地方の言葉であるが故に嘲笑の題目となる。同じく都会の言葉であつても、それが階級を異にするものの言葉でさへあれば、宮廷人士はこれを雅かならぬものとして、擯斥したのであつた。宮廷の才女たちにとつては、国語に熟してゐない漢語の如きは、まことに厭はしいものであつた。錚錚たる博士も、源氏物語にあらはれては、「おほし垣下あるじひざうに侍りたうぶ」といつて笑はれてゐる。「ごくねちのさうやくをぶくして」と語る、儒者の娘もあるが、それは非常識の女であると見られてゐる。東国言葉が舌だみて聞かれるも当然である。かういふ時代には、貴族社会、宮廷人士によつて、雅馴であり、優美であると認められたもののみが、標準的の力をもち、伝統的に権威あるものとなる。しかしながら、これは、他の人々にとつては、風馬牛である。教育のこれを導くことなく、印刷のこれを広めることなく、交通のこれを達することなく、衆庶は、その一部の社会においてのみ発達した言語を、高閣の花と仰いでゐた。したがつて、この両者は、到底手を携へて行くことは、出来なかつたのである。しかるに、この標準語は、年次を経るに及んで、ほとんど人工語の如き性質を帚びるやうになつた。ちやうど中世ヨーロッパにおいて、学者の間ではラテン語談話にも書記にも用ゐられ、わが国において、漢学者の間では漢詩漢文が盛に作られてゐるやうに、後世の人々は、自己常用の口語とは非常に異なつてゐる平安朝言語を用ゐて、作歌・作文を試みることに、何等の疑惑をもいだかず、年久しきにわたつて用ゐ馴らされたのであつた。ほとんど死語のやうになつてしまつた平安朝言語が、かくも時と処と人とを超越して、長く標準語的権威をもつてゐたといふことは、伝統の力の人にはたらく作用が、いかに強いかを語るものである。しかしながら、それは、夢幻の世界においてである、黄昏の世界においてである。現実の社会、白日下の大道にあつては、伝統の力はややもすれば弱められる。旧に対する反抗の勢はいつしかにあらはれて来る。


『日本語の歴史3言語芸術の花ひらく』第1章にいう「国語学者安藤正次がいうように」は、このあたりなるべし。

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