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2012-03-23

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江戸の自尊心から來る言葉の吟味

 そこで前にも云った通り、洒落本の「田舎芝居」が出て、それから後に田舎を舞臺とするものがいろ/\出て居ります。寛政二年竹塚東子の書いた「田舎談義」は洒落本ですが、文化元年には中本で、一九の「田舎草紙」が出てゐる。続いて文化五年には、七文舎鬼笑の「田舎芝居楽屋雑談」、同七年には米花散人の「勧善田舎相撲」、悼歌亭眞楫の「下愚方言鄙通辞《    ゐなか  》」、同八年には三馬の「狂言田舎操」があり、東里山人の「田舎通言驛路の鈴]が出てゐる。同十年には三馬の「田舎芝居忠臣蔵」、十一年には萬壽亭正二の「旅芝居田舎正本」、十二年には東里山人の「片言雑話田舎講釋」、といったやうな調子で、それから後にもまだ澤山あろやうです。此等の趣向といふものは、都會と村落との比較《ひかく》に於て、田舎言葉がをかしく聞えるから起つたことであります。

 江戸と京と大坂が三大都會と云はれたのは、慶長《けいちやう》以来のことでありますが、三都の中でも江戸を第一と思ふやうになったのは寳暦度からの話です。江戸の人間は寳暦から土地自慢をする風が甚しくなってゐる。さうして又その時分から、尊王運動が頭を持上げてゐるといふことも、まことに面白い事だと思ひます。京を花の田舎と見下すやうになったのは天明年間で、江戸ッ子といふ變なものが出て來たのは文化度からです。江戸の自尊心《じそんしん》と云ったらいゝか、己惚心《うぬぼれしん》と云ったらいゝか、何方であるかわかりませんが、その時は江戸の衰退を示す時だつたのであります。

 その時に江戸の者は何でも自分の住んでゐる所ほどいゝ所はないと極め込み、第一に江戸の言葉を結構《けっこう》なものゝやうに思って居つたのですから、江戸自慢《  じまん》の眞先に出るのは江戸言葉で、從って田舎言葉を僉議立《せんぎだて》するやつになつた。一九の「方言修行金の草鮭」、三馬の「大千世界楽屋探」などといふのがそれで、三馬はこの本の中で、熊谷敦盛《くまがいあつもり》の組打のところを、上方言葉と關東言葉に書分けて、口語體に書いて比較して見せる、といふやうなことをやって居ります。それが大變面白かつたのです。

 文化文政江戸といふものは、最も成熟した都會の様でありまして、江戸としては絶後《ぜつご》とは云へませんが、空前の發達であったらうと思はれる。だが江戸ッ子といふ者は歴史も時世も何も知らないから、江戸日本であると思ってゐる。江戸が幕府の所在地で、政令がそこから出ろ爲に、江戸が馬鹿にえらく見えるのだ、といふやうなことは知ってゐない。たゞ自分達が住み慣れてゐるから、何慮よりもいゝと思ってゐるので、彼等は實のところを申せば、江戸以外の何處も知ってはみない。云はゞ世間見ずから来る獨合點《ひとりがてん》に過ぎないのです。

 それですから他国の者が来て、土地不案内の爲にまごついたり、耳慣れぬ言葉を使ったりすると、頭から馬鹿にしてかゝる。田舎者とか、田印とかいふことが一ッの悪對になるのです。その癖《くせ》さういふ江戸の者にしたところが、さう遠くない五里三里といふ土地へ旅に出ても、もうへこたれてしまふ。それどころぢやない、名主の玄關へ行つてもまごつけば、自身番《じしんばん》へ連れて行ってもへどもどする。江戸の言葉は託《なまり》が多い、重言片言だらけのものなんだけれども、そんな事には一向氣がついてゐない。眞に江戸の言葉として、標準《へうじゆん》になるやうな言葉を彼等は使ってはゐないのです。元来江戸ッ子なるものは、或経済事情からこの大都會に生れた崎形兒《きけいじ》に過ぎない。江戸生活を三階に分けるとすれば、彼等はその下階に居る者であり、五級に別けるとすれば、その第五級に居る者なのであります。

 けれどもそんな知識も無ければ考も無いところの江戸ッチどもは、外来人を貶《けな》しつけるのに一番手勝手のいゝのは、言葉の違ってゐることである。外には何も持ってるない、持合せてゐるのは言葉だけですから、何腿から来た者に對しても、言葉の違ふところから之を田舎者と云って貶《けな》しつける。さういふ風がありますから、先に来た田舎者が少し土地に慣れると、自分は江戸ッ子でなくても、あとから来た新参者《しんざんもの》の方言や國訛に就て、前に自分がやられた通り、繰返して馬鹿にするといふことになる。その言葉咎《ことばとがめ》をする江戸の人達は知るまいが、本當の江戸言葉はどんなものか、方言や國訛を離れた江戸言葉はどんなものか.といふことに就ては、三馬が「狂言田舎操」の中に書いて、これが正眞正銘《しやうしんしやうめい》の江戸言葉だと云って居ります。その文句をこ・へちよつと摘出《てきしゅつ》して置きませう。

(中略) http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/kuzan/20060303/p1

 正しい意味江戸言葉といふものは、所謂江戸ッ子の使ってゐるものとも違ふし、武家にせよ町家にせよ、第三階級の生活者が使ふものとは違ふ。都會人だとか、田舎者だとかいふ區別を、いきなりその使ってゐる言葉できめるのは間違で、自分達の使ふ言葉と違ってゐるからと云って、直に貶しつけるのは宜しくない。けれども文化文政度は言葉の吟味の實に甚しい時代でありまして、何も彼も江戸を標準《へうじゆん》にしてやろ。江戸ほど結構《けっこう》なところは無い、と世間知らすのやつが思込んだのですから、飛んでもない固陋《ころう》なものになってしまって、どうにもならないのです。

 田舎者を馬鹿げたものと見ることが、已に滑稽なことになり行くのですが、それをさうとも思ひませんで、馬鹿けたものは田舎者だと極めてしまふ。さういふ馬鹿けたものばかり聚合してゐる村落は是非とも滑稽なものでなければならぬ.といふ心持を持って居りましたから、それを舞臺にして書出す風が、戯作者の方にも出て來ました。それは天明に萬象亭が「田舎芝居」を書きました頃よりも、享和一九が「膝栗毛」を書きました時の方が、さういふ思ひ込が益々強くなって来てゐる。實際江戸生活と村落生活との差隔も著しい、天明以来百姓の暮し方も大變立派になりはしたものゝ、江戸の暮し方は寛政以後急激に華美になりましたから、其隔りは夥しい、それ故に江戸ッ子のみならす、江戸に住む人達の心持がだん/\増長して参りましただけに、田舎を舞臺《ぶたい》とする滑稽が大きくなって來たといふことも、更に疑《うたがひ》を容れぬわけであります。

三田村鳶魚「滑稽本概説」?

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