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2011-03-13

未見の節用集上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載一) 未見の節用集(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載一) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 未見の節用集(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載一) - 国語史資料の連関 未見の節用集(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載一) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

    附載一 未見の諸本

 以上舉げた所の古本節用集諸本は、其の數、總て廿七であつて、中、九種は、既に、群書一覽節用集考及び國語學書目解題に收録せられ、二種(即、天正十八年本及び慶長十六年本)は日本古刻書史に名が見えて居るが、其の外の十六種は、未だ嘗て世に紹介せられなかつたものである。かくの如く、此處に收め得た諸本の數は、必しも少いのではないけれども、猶、古來の諸書に名が見えて、まだ見る事を得ないものが少ぐない。左に之を列舉しよう。



 文明六年本 寫本

國語學書目解題節用集の條に見えて居る。同書に

   文明本  文明六年成る  寫本

 この本、從來諸家の書に載せざるところにして、實に節用集の類の最も古きものとす、本文は他の諸本の如くいろはにて順序をたて、十六門にわかち卷末に附録あり、其の部門次の如し、

  天地 家屋 時節 草木 神祗 人倫 人名 官位 氣形

  支體 飮食 絹布 器財 光彩 數量 態藝

 附録には、

  點畫少異字 七十二侯 廿四節 名乘字 洛中横小路 比

  丘尼五山 竪小路 叡山延暦寺 京城五山之以次第 鎌倉

  五山 太子建立九ヶ伽藍

 毎紙半面八行、一行十五字、墨付本文は、五百六十九葉、附録十一葉あり、其部門の名のみは印刷したるものを貼付せり、國分寺の條の註にいはく、

 聖武帝之時諸國造之、同安國寺一國一寺在之、自天平廿年至文明六年六百十六年也

 この語によるに、文明六年になりたるものなり、文明六年は、節用集考等に最も古しといへる明應本の奥書の、明應五年に先つこと二十三年とす、而してこの本をもなほ最初の作とも斷じがたき歟、

とあるものである。此の解説によれば、此の本は、前掲の諸本の何れとも一致せす、別類のものと認められる。


 2明應二年

 田宮仲宣の橘菴漫筆二編の二(此の書出版の年代は明でないけれども、文化二年九月、友人國栖雷の序が有るから、略、其の頃のものであらう)十四丁裏以下に、天王寺村に饅頭を販ぐもの一人も無い事を記した條に、南都の饅頭屋林氏の事を述べ

此饅頭や先祖を宗二と云初て節用集著述せし人也元本を見侍りしが奥書に明應二年とか有しか此年庚申まで三百五年なれり

とあつて、これには「明應二年とか」と疑を存して居るが、同人の著、愚雜爼卷二(隨筆大觀第二所收、十頁)には

世俗常に用ふる節用集をはじめて作れるは、和州奈良の住饅頭屋宗二なり。奥書に明應二年とあり。

とあつて、明應二年と斷言して居る。但橘菴漫筆に此年庚申とあるのは寛政十二年の事と認められるが、明應二年から算へれば、此の年は三百八年目に當り、三百五年とあるに合はない。若し、此の年から三百五年前とすれば、明應五年となつて、丁度、次に舉げる明應五年本の奥書の年代に一致するのである。さうであるから、明應二年は五年の誤であつて、此の書は即明應五年本ではあるまいかとの疑も起るのであるが、我々は、確實なる反證を得るまでは、田宮仲宣の實見したといふ語を信じて、姑く之を掲けて置く。


 3 明應五年本  寫本二卷

群書一覽、卷二、七十九丁裏に

 節用集寫本  二卷  林宗二

(上畧〉日用の字をいろはに分ちをの/\、天地門時候門人倫門人名門官名門支體門財寳門食服門草木門畜類門光彩門言語門數量門等の十三門を立て眞字を以てこれをしるしまゝ註釋をくはふ。終に京の横小路九陌の名壹貳參肆より百千萬億にいたるまでの數并に十干十二支十二律點畫小異の字等をしるす(中略)予が藏する所の古寫本卷末に明應五年五月三日としるして花押あり(下略)

と見えるものである。此の本は、門、竝に附録の有様によれば、弘治二年本類又は温故堂本に近いやうに思はれるけれども、時候、食服など門名に差異あるは注意す可き事であつて、此等の點までも此の本と一致するものは、既見の諸本中には一も無いのである。


 4 文龜本  刊本二册

 辨疑書目、中卷、植字書目の條(三丁裏)に

 節用集 眞書本 二册文龜ノ本

とある活字本であつて、群書一覽巻二、八十丁裏に

 節用集活字本  二卷

  眞字にて卷末に文龜の年號あり

と見え、典籍秦鏡、五、フの部に

   和活字 文龜本節用集大本全二册

と見えるものである。

 京傳骨董集(上編、中之卷、火燵の條)に、饅頭屋本を文龜本のやうに書いてあるが、饅頭屋本美濃紙半截の小本一册であつて、文龜本が大本二册であるといふのに合はない。しかのみならす、骨董集饅頭屋本として引いて居るのは、實は易林本であるのを見ても、此の骨董集の文は、節用集の古本に異本あるを知らす、何れの版も同一であると考へたから起つた誤に過ぎないと推察せられる。

 此の文龜本の内容については何事もわからないのであるが、我々は、天正十八年本と同じものではあるまいかと私に疑ふのである。天正十八年本は、其の解題の條に述べた如く、天正十八年に刊行したものであるけれども、最後の、天正十八年の奥書ある一丁は、欄界の高さ及び文字の筆法を異にし、後の補刻と見えるから、其の他の部分は、天正十八年以前の刊刻であらうと思はれる。然るに、天正十八年以前の刊本として「名の傳はつて居るものは、文龜本のみである。これに依つて、我々は、天正十八年本の最後の一丁以外は、即、文龜本ではあるまいかと疑ふのである(饅頭屋本も、或は足利時代の刊行かとの疑も無いではないが、天正十八年本とは内容體裁とも全く違つて居るから、此の場合問題にならない)。若し然りとせば、辨疑書目に文龜本を眞書本二册と記し、典籍秦鏡に大本二珊と舉げたにも合ひ、天正十八年よりも古い時代の書寫と思はれる増刊本が、天正十八年本の如き本に増補を加へて増刊節用集名づけた理由も容易に解する事が出來る。しかしながら、諸書に文龜本を活字版といふ事だけは天正十八年本と合はないから、此の説は、必しも主張し難いのであるが、姑く臆説を記して、其の當否を實地に徴する時を待たうと思ふのである。



 5|新増色葉節用集  寫本

春村の節用集考に見える、名古屋の人神谷氏所藏の古寫本で、春村は親しく之を見て、梗概を記して居る。

 標題は新増色葉節用集と見えて、自序に編述の旨趣をしるせり。

 則、その文に云、一本|名《ク》節用|集《ト》不レ|知誰某作一聞《ラレシノナルコヲエタ》レ|出於《リジト》五岳|之《ノ》間東|山《ヨリ》矣

 乃至又|有《リ》昌一本一|名二《ック》色葉岸類|聚《ト》一|聞近出《ナラクコロツ》於叡|山《ヨリ》一世|無《ニン》レ|知二《ルモノ》作|煮《ヲ》乃至|頃者《コノコロ》

 |有《リ》髄志|學《ノ》少年|硬《ム》話|余寫斯《テンサノ》二大|本略混雜爲《グホコノス》=|集《トノ》ケ痴|頑《ノ》漢|摩《ン》二老|眼贅二《ヲヤン》《じ》|精

 |騨《テ》一|信《マカ》レ|手新増者夥《セナニスルシ》云々と見えたるが如し。(中略)さて序の次に目録

 あり。乾坤門乃至言語門等九門の目あり。次に色葉の四句の文及び伊呂波字の片假字あり。又、卷末に京師九陌,名、一二三の數字、十干十二支、十二時異名、十二律、五賣廿入宿、入卦、點畫小異字、名乘字、禮節案文等を載て墨付二百十六紙あり。又、最末に所持沼波小左衞門と記して花押さへにあるをおもへば、此沼波氏の手澤本とみえたり。料紙筆つかひもいひしらす古代に見えたり。恐らくは文祿慶長頃の寫本なるべし。

と記し、猶

扨本文は大旨我所藏本と同じくして、其外に増加字おほかり。

と説いて居るので、大體を知る事が出來る(我所藏本とは増刊節用集の事である).其の編述の年代については

序文年號をしるさゞれば詳にはしりがたきに似たれど、萬年、破衲騰英妙茂序とあるに就て、大永六年四月下旬に編集落成の明徴あり。

とて、此の序を書いた妙茂を天龍寺百八十一世竺芳和尚妙茂であるとし、之を大永年間の現住と推定し、序文の終に「蓋今月天子踐祚乾坤一統大平象也」とあるのを大永六年四月廿九日の後奈良天皇の踐祚をさしたものとし、此に依つて、此の書を大永六年四月下旬に成稿したものと論じて居る。

 春村が天龍寺百八十一世竺芳和尚妙茂を大永年中の現住と推定したのは、京都五山歴代に同寺百七十九世心翁和尚大永三年正月三日入寂と見え、又百八十四世光天和尚天文六年十二月九日入寂

よあるに基づいたものであるが、帝國圖書舘所藏の京都五山歴代の一本には、心翁光天兩和尚入寺の時が載せてあつて、心翁等安は永正十五戊寅年入寺とあり、光天馨恩は天文四乙未五月廿四日入寺とあるから、これに依って推算すれば、竺芳妙茂在職の年代は大永か享祿の初であつて、春村の考證の謬でないのを知るのである。しかしながら、此の妙茂は、春村の引用した京都五山歴代には竺芳和尚諱妙茂とあり、帝國圖書舘所藏の同書の異本には竹芳妙茂とあつて、號を竺芳又は竹芳と稱したのであるが、節用集の序には騰英妙茂とあつて、號が同じくないから、或は同名異人ではあるまいかと疑はれる。

 妙茂と云ふ名は、猶、善隣國寶記にも見えて、同書卷中、文明七年足利義政の遣唐表に「竝遣正使妙茂長老副使慶瑜首座」とあり、又、續善隣國寶記にも成化十四年(我が文明十年)明帝が義政に答へた勅書中に名が見えて居るが、蔭凉軒日録、文明十八年五月廿九日の條によれば、此もやはり天龍寺の竺芳妙茂であつて、明に此の節用集の序者と同人と認むべきものは、未だ見當らないのである。

 次に、序文に「蓋今月天子踐祚」とあるのを、春村は、大永六年四月廿九日なる後奈良天皇の踐祚の事と説いて居るが、若し然らば、同年四月は小の月であつて、廿九日限であるから、此の序は踐祚の當日か又は踐祚以前に記した事となるのであるが、これは事實に遠いとの感を免れ難い。我々は、縱令、春村の説に從ひ、此の序の記者を天龍寺の竺芳妙茂と認めるとしても、其の年代は寧、明應九年十月下旬〈大永六年より廿六年前)、後柏原天皇踐祚(同月廿五日〉の後と解すべきものと思ふのである。

 右に舉げた大永六年の後奈良天皇の踐祚、明應九年の後柏原天皇の踐祚の外、其の前には寛正五年七月十九日の後土御門天皇の受禪あり、其の後には弘治三年十月廿七日の正親町天皇の踐祚、天正十四年十一月七日の後陽成天皇の受禪などがあつて、妙茂の年代が確定しない以上は、其の何れであるか判然しないのであるけれども、我々は、明應九年か、さもなくば弘治三年ではあるまいかと思ふのである。けれども、これは、もとより臆説に過ぎない、決定は確實な資料を得る日を待たなければならない。

 此の書、九門に分れて居る點は天正十八年本類と一致するが、中に乾坤の名があるのは之と同じくない。且、附録の有樣も之と同じからずして、自ら別類に屬するものと思はれる。

 此の書の所藏者は、節用集考には、唯尾州名護屋の人神谷氏とあるのみであるが、同じ著者碩鼠漫筆の中なる伊呂波字類鈔の條には

 又尾張の藩士神谷克槙所藏に、大永六年述作の鈔本とおぼしき新増色葉節用集といふあり【此書の事は墨水抄卷八節用集考に委しきを見るべし】(同晝卷之六、百廿四頁)

とあつて、名古屋藩士神谷克槙の所藏であつた事、明である。神谷克槙は通稱を喜左衞門と云ひ頗る藏書家の聞えあつた人で、其の藏書の大部分は、現今名古屋の某氏が保管して居るといふ事であるから、文學士植松安氏に依頼して此の書の存否を調査した處、其の中には見當らないとの事であつて、まだ其の所在を明にする事が出來ないのは遺憾である。


 ω易林本別本 刊本

節用集考、上欄書入(これも春村の筆)に

後に聞く尾州名護屋人神谷氏所藏に易林本の部門朱圍のうちに黒字の本ありといへり。普通本は皆黒圍白字なり。然るときは易林本も亦二板あるなるべし。

とある本である。版本に朱圍があるといふのも疑はしく、春村も傳聞に依つて記したので、十分確實とは云ひ難いけれども、姑く存して置く。


 慶長十五年草書本  刊本二卷

舊刻書目(酉山堂編)、慶長十六年節用集の次に

又一本

上下二卷末二片力ナノイロハ四十八文字アリ初リ次ニ名乘字次ニ分毫字樣次ニ入聲去聲草書八行十四五字カナ違マノ字ハ丁ナノ字ハ弋ナリ

板元ナシ

 末曰 慶長上章閹茂仲春上澣洛下トアリ

   慶長十五年庚戌歳ニ當ル

とあるものである。日本古刻書史(百六十八頁)に節用集の諸版本を舉げた中に

 慶長十五年易林本を増減し字體草書に改めたるもの

とあるもの、即是であらう。

 此の解説によつて見るに、本文の草書である事は草書本に一致するが、假名は、草書本は平假名であるのに、此の本は片假名であつてサ、マに異體の假名を用ゐたなどは、却つて易林本に等しい。又、附録も草書本に似ては居るが、之よりもイロハの條だけ多く、五山の條だけ少い。されば、此の本は、草書本に似て居るが、之と同じものではなく、寧直接に易林本から出たものであつて、易林本の本文を草書に改め、附録其の他に多少の變更を加へたものらしく思はれる。


 8 小山版慶長十五年本  刊本二卷

此も舊刻書目にあるもので、前項の慶長十五年草書本の次に

又一本

上下二卷末ニ名乗字次ニ分毫字次ニ入聲去聲日本國郡付萬國五山

付アリ楷書片カナ付七行十八字カナタカヒアリ〓|蒼天《七ウデン》サ字違也

  末ニ 于時慶長十五年庚戍仲春如意吉辰

    釜座衝貫二條松屋町小山仁右衞門永次開板之

   按ニ以易林本天地ノ罫ヲ|結《(詰カ)》テ翻刻スルト見ヘタリ

とある。此の解説によれば、附録は易林本に等しいが、易林の跋は無いものらしく、行數も易林本一致するけれども、字詰は此の方が多いと見える(此の舊刻書目に、平井版易林本を七行十六字と云つて居る)。字違ひ、即、異體假名易林本と同じことである。恐らく、此の書は易林本に甚近いものであらう。


 諸書に名があつて、未だ見る事を得ない諸本は、以上八種であるが、中にも、新増色葉節用集までの五種は、何れも年代が古いのみならす、其の體裁組織などから觀れば、從來實見した諸本と類を異にしたもので、節用集著作の年代、原本の體裁等を研究する資料として有益なものであらうと思はれるが、之を見る事を得ないのは誠に遺憾である。

 猶、山崎美成世事百談(天保十二年成)甲乙人の條に「古寫本節用集に甲乙とよみて注にまた魁殿とあり」とあるのは、我々の目に觸れた何れの本とも一致しないから、恐らく、別の異本であらう。其の他、我々の未だ知る事を得ない節用集異本は、多分、數多あるであらう。

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