国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2011-03-07

幸田露伴「なければならない」について和辻哲郎幸田露伴「なければならない」について和辻哲郎に - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 幸田露伴「なければならない」について和辻哲郎に - 国語史資料の連関 幸田露伴「なければならない」について和辻哲郎に - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 そういう類のことは日本語についてもいくつか聞いたと思うが、それらは大抵『音幻論』のなかに出ているらしい。そこに出ていないと思われることでさしずめ思い出すのは、「なければならない」という言い回しについて先生のいわれたことである。この言い回しがひどく目立って来たのは、ちょうど関東震災前後の時代からであった。先生は「この不思議な」言葉がどこから出て来たかをいろいろと考えてみたが、どうもこれは「なけらにゃならん」という地方なまりをひき直したものらしい、といわれた。この着眼にはわたくしは少なからず驚かされたのである。わたくし自身もこの言い回しが著しく目立って来たことには気づいていたが、しかしこれが格はずれの用法であるとは全然思い及ばなかった。先生の説明によると、「なければ」は「なくあれば」のつまったものであるから、「ならない」で受けることはできない。「あってはならない」「なくてはならない」ということはいえる。しかし「あればならない」という人はなかろう。「もしそうでなければ、かくかくであろう」というのが「なければ」の普通の用法である。それは、「もしそうであれば、かくかくでなかろう」という用法と対になる。もっとも後半の受ける方の文章はどう変わってもよいのであるが、とにかく「なければ」「あれば」は一つの条件を示す言葉であるから、それを「ならない」で受けることはできないはずである。これが先生の主張であった。わたくしはいかにももっともだと思った。その後わたくしは自分の書いたものを調べてみたが、やはりところどころに使っていることを見いだした。そうして「どこまでも追究して見なければならない」というふうな言い回しが、「どこまでも追究して見なくてはならない」というのと幾分違った語感を伴なうに至っていることをも認めざるを得なかった。先生が「なければならない」という言葉に出会うごとに感じられたような不快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい表現が作り出されているようにさえ感じていたのである。しかしわたくしは、一度先生に注意されてからは、この言い回しを平気で使うことができなくなった。それでも不用意に使うことはあるが、気がつけば直さずにはいられないのである。そういうことをわたくしはほかの人にも要求しようとは思わない。どんな破格用法を取ろうと、それはその人の自由である。日本語の進歩もたぶんそういう破格用法からひき起こされるのであろう。そうあってほしい。しかしわたくしは破格を好まない。そういう点で露伴先生の鋭い語感は実際敬服に堪えないのである。

幸田露伴「音幻論」

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