国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2010-01-15

[]日本国語がまだ語格までも変る程には変遷してゐないといふ事を指摘したに過ぎなかつた(石川啄木日本の国語がまだ語格までも変る程には変遷してゐないといふ事を指摘したに過ぎなかつた(石川啄木) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本の国語がまだ語格までも変る程には変遷してゐないといふ事を指摘したに過ぎなかつた(石川啄木) - 国語史資料の連関 日本の国語がまだ語格までも変る程には変遷してゐないといふ事を指摘したに過ぎなかつた(石川啄木) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 新らしい詩の試みが今迄に受けた批評に就て、二つ三つ言つて見たい。

「[なり]と[である]若くは[だ]の相違に過ぎない。」と言ふ人があつた。それは日本国語がまだ語格までも変る程には変遷してゐないといふ事を指摘したに過ぎなかつた。

 人の素養と趣味とは人によつて違ふ。或る内容を表出せんとするに当つて、文語によると口語によるとは詩人の自由である。詩人は唯自己の最も便利とする言葉によつて歌ふべきである。といふ議論があつた。一応尤もな議論である。然し我々が「淋しい」と感ずる時に、「あゝ淋しい」と感ずるであらうか、将又「あな淋し」と感ずるであらうか。「あゝ淋しい」と感じた事を「あな淋し」と言はねば満足されぬ心には徹底と統一が欠けてゐる。大きく言へば、判断――実行――責任といふ其責任を回避する心から判断を胡麻化して置く状態である。趣味といふ語は、全人絡の感情的傾向といふ意味でなければならぬのだが、往々にして、その判断を胡麻化した状態の事のやうに用ひられてゐる。さういふ趣味ならば、少くとも私にとつては極力排斥すべき趣味である。一事は万事である。「あゝ淋しい」を「あな淋し」と言はねば満足されぬ心には、無用の手続があり、回避があり、胡麻化しがある。其等は一種の卑怯でなければならぬ。「趣味の相違だから仕方がない。」とは人のよく言ふところであるが、それは、「言つたとてお前には解りさうにないからもう言はぬ」といふ意味でない限り、卑劣極まつた言ひ方と言はねばならぬ。我々は今迄議論以外若くは以上の事として取扱はれてゐた「趣味」といふものに対してもつと厳粛な態度を有たねばならぬ。

石川啄木「弓町より」

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