国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2009-01-05

[]山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第一章「序説」三「研究の範圍と目的」 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第一章「序説」三「研究の範圍と目的」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第一章「序説」三「研究の範圍と目的」 - 国語史資料の連関 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第一章「序説」三「研究の範圍と目的」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

三 研究の範圍と目的

 漢語國語の中に存する分量と、漢語國語の中に侵入せる程度との大樣は上述の如く蹴れば、大體に於いて漢語の状勢は認められたりといふべきに似たり。然れども、よく考ふれば、上に述べたる所は漢語が個々の語として國語の中にとり入れられたる結果の觀察に止まりてその他には及ばざるものにして、それらの漢語が如何にして國語にとり容れられしかといふ如き方面の觀察は全く缺如せり。こゝに考ふべきことはその漢語國語に入るに至りし事情、及び國語に及ぼしたる影響等をも考慮するにあらずば、眞に研究を施したりとはいふを得ざるべしといふことなり。こ玉に於いて問題は多端に起り來るべきなり。今その問題とすべき著しき點をあぐれば、大略次の如し。

一、漢語が何時頃より國語に入り、而して如何にして純外國語、狹義の外來語借用語歸化語といふやうに漸次に深く化し來りしかの時代的考察。

一、如何なる漢語が如何なる方面より國語にとり入れられたるか。これにも時代的の變遷あるべし

一、國民が如何なる方針と態度とをとりたるが爲に漢語國語にとり入れられしか。又如何なる手續によりて漢語國語化したるか。これにも時代的變邉あるべし

以上はそのとり入れられし漢語を主としての考察なるが、それが國語に及ぼしたる影響如何と顧みるときは更に幾多の問題生ず。その著しき點をあぐれば次の如し。

一、漢語國語の上に及ぼせる分量上の影響

一、漢語國語の性質の上に及ぼせる影響

なほこの漢語の及ぼせる影響は深く國語の上に及びて、日本製漢語漢語日本語ともいふべきをも生ぜり。、即ち

一、漢語を基としてつくりたる日本語

一、漢語を基としてつくりたる日本製漢語

一、はじめより日本語としてつくりし漢語形式の語

の如きものも亦少からず生じたるを見る。

 次には又その漢語の影響が如何なる邊にまで及べるものなるかといふその範圍及び極限如何といふ問題もあり。この點につきて少し述べむ。

 一國語が他の國語より借入を行ふ場合にはその事情によりていづれの國語に在りても同一なりといふ事を得ざれども、その借入れらるるものは主として單語にあり。しかもそれは物體の名稱及びそれらの性質をあらはす語を多しとす。動詞に至りては最少く、種々の「パアティクルス」(小品詞助詞)は殆どこれ無きを常とす。又文法上の形體たる「デクレンジオン」「コンヂユゲイション」の前綴及び語尾をばとりいるゝこと最も僅少なるものとす。その一例をいはゞ、語の上に於いては殆ど羅甸語化せられたる英語と雖も其の文法は殆ど全く純粹にして文章構成の上に思想を表はし、句を構成するに用ゐる語は大抵皆アングロサクソン系の者なり。この點よりして英語は今なほ純然たる獨逸語族なりといはる。國語に於いてもこれと趣稍似たる點あり。今わが國語にては上述の如く單語に於ては數萬の漢語が日常用ゐられてあり。而して或る程度までは慣用語句をも借り入れて用ゐてあり。たとへば「入學」「退校」「觀櫻」「作文」「修身」「習字」「不着」「未完」「不完全」「未曾有」「不可思議」「不得要領」「捧腹繦倒」「徹頭徹尾」の如き熟字成句の盛んに用ゐらるゝが如きは著しき現象なり。然れども、全く組織の異なる語の構成上の法則又は句の構成の法則をば借用すべきにあらねば、漢語の運用法までを借り入るゝことなし。たとへば、

  「出2於幽谷1遷2于喬木1」

の如く、「より」「に」を「幽谷」「喬木」の上におき、又「出づ」「遷る」の動詞をば、なほその上に置くといふが如きことは決してなきなり。

 以上の如く多端の問題存して、これを論究しおほすることは容易の事件にあらざるに似たり。然れども上述の諸問題につきて調査せざるときには眞に國語の中に於ける漢語及び、その影響を知り得たりといふを得ざるべし。而してかく國語の中に漢語がとり入れらるゝ事情及びその漢語國語化せらるゝ事情並に漢語國語に及ぼせる影響を知ると共に、吾人はこれを逆に考へて、漢語が侵入し得ざる國語の勢力範圍を知り、以て國語の生命のやどる所何處にあるかを認むべく、又以上種種の方面の研究によりて間接に國語本質をも認めうべきなり。

 要するに、この研究は漢語國語の中に侵入せる状態を仔細に極めむとするにあり。而してこれはもとより學術上の研究として上述の諸種の事實を明かにし、その理由を研究する事のみにて目的は十分に果されたりといふべきものなりとす。或はこの研究によりて、わが文化の側面觀を得ることあらむか。然れども、そはもとより直接の目的とする所にあらず。或は又この研究の結果としてこれによりて漢語に關して將來の國語をば如何に處理せむとか、或は又漢語の整理、國語の整理などに關して、自然參考すべき點生ずることあらむか。然れども、それも亦この研究の本來の目的とする所にはあらざるなり。この研究はかくの如く、或る政策の準備手段にあらずして、獨自の目的を儼然として有するものなり。されど、上述の如き調査又は研究を施すことなくして漫然として國語、又漢語の整理の論をなすものありとも、そは畢竟机上の空論たるに止まり、又漫然これらの整理を企つるものありとも、それ亦基礎の無き企てなれば、結局失敗に終るべきは理の睹易き所なりとす。

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