国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2009-01-04

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二 外來語としての漢語の位地の概觀

 漢語はもとより本來の國語にあらざるが故に、外來語と稱すべきものなるべし。然るに言海の統計にはその熟語の目を見れば、

  和漢熟語

  和外熟語

  漢外熟語

  和漢熟語

  外々熟語

といふ目を見る。これによれば、言海はこの場合

  和語

  漢語

  外來語

といふ三の範疇を立てたるものと見られ、漢語外來語にもあらず和語にもあらず、その二者の外に特立せるなり。而してその著者大槻文彦の著復軒雜纂を見れば、明治十七年學藝志林に載せたる

  外來語原考

を採録せるが、そこに外來語の読明あり。曰はく

外來ノ語ハ唐音支那語琉球語蝦夷語朝鮮語梵語、南蠻語、羅甸語、葡萄牙、斯班牙、和蘭、英吉利、佛蘭西語等ナリ。

とあり。これを言海の統計表の目に照すに、ただ洋語といふ一目を加へたるに止まれば、彼是、同一の精神に出づるものにして、漢語外來語として取扱はざりしことは偶然にあらずと知られたり。果して然らば、漢語は固有の國語なりやといふに、決して然らざるはいふまでもなくして、外來の語たることは爭ふべからず。然るに言海著者が、これを外來語として取扱はざりしは如何なる理由によるか。

 今、この問題を呈出すれども、その著者は幽冥界に入りて答ふる所あらず。これによりて私見を以て忖度するに、著者が、これを純粹の國語とは認めざりしはいふをまたぬが、これを外來語とせざりしものは恐らくはそれらの語が、殆ど國語に熟化して他の外來語と同一に取扱ふべき程度のものにあらずと認めたるが爲なるべし。かかる見地よりすれば、著者の意は諒とせらるべく、それと共に漢語國語の中に占むる地位も亦他の外來語とは異にして特殊の取扱を受くべきものなることを認むべきなり。

 かくはいふものの、なほ漢語外來語たるに相違なくして純粹の國語として取扱はるべきものにあらざるや論をまたず。果して然らば、吾人は如何にこれを取扱ふべきか。ここに於いて顧みるべきは外來語一般につきての考察にして、一旦その見地に立ちて、而してのち、漢語の地位も考察せらるべきものならむ。この故に姑く外來語一般につきての考察にうつらむとす。

 先づある國語の内に外來語といふものの存する事情を考察するに、その國語が他の國語と觸接せる結果なることいふをまたず。これはある異なる言語(國語内に於ける方言相互の間にても、又異なる國語の間にても)が相觸接すれば全く無關係といふ事はなく、大抵その間に交渉を生ずるものにして、その交渉の状態はもとよりその事情によりて一律ならずといへども、大體よりいへば、その一方が他より影響をうくるか、若くは兩方共に影響しあふといふ二樣のうちにあり。

 而してその一方が他より影響を受くることもその程度によりて種々の場合を考へらるべし。その最も著しき黠につきて考ふるに、一方の國語が、他方の國語の影響を極端にうけてそれが滅亡することなり。即ち一方の國語が他方の國語を併呑して殆ど滅亡せしむることなり。かくの如きは極端なるものにして頻繁に起るものにあらざるべきが、事實上行はれざるものにあらず。たとへば、滿洲語支那語に於けるが如きこれなり。はじめ愛親覺羅氏が滿洲より起りて支那を統一したることは政治上に於いては勝者として漢民族の上に君臨したりといヘども、その國語たる滿洲語支那語に壓倒せられて、殆ど全く滅び、今や清朝の發祥地なる南滿洲にはこれを口にするものなく、僅かに北部滿洲にその俤を止むるにすぎずといふ。これは武力又は政治の勢力と文化の勢力とは全く同一のものにあらざるを語るものにして、滿洲人は武力を以て支那人を征服したれども、支那文化の勢力が、その征服者たる滿洲人をば文化の上より反對に征服せりといふべきさまなり。かかる例は西洋にも存在したり。中世羅馬を征服したる北方民族が、言語の上よりはかへりて自の國語をすてて羅甸語に從へる如きこれなり。さてかくの如く一方の國語が他の國語に全然征服せらるる場合には外來語と名つくべき事實は生ぜざるなり。外來語といふ名稱の有する意味は、自國語が本體として儼然として存し、それに外國より來たる語が混入せりといふ思想をあらはすものなればなり。

 次に、上述の如き被征服の場合を除きて、或る國語と他の國語との間に生ずる影響を考ふるに、これには種々の状態あるべし。これにも亦一方が優勢にして他方が受身なる場合、二者共に影響しあふ場合の二を考へうべきが、それらの點より考ふれば、漢語國語との關係は雙方的にあらずして一方的なりといふべし。即ち國語より支那語に與へたる影響は近時の支那語を除きては殆ど全く存せずといふべきに、漢語國語内に於ける勢力は上述の如きさまなればなり。

 今ここに眼を轉じて、或る國語のみにつきてその内部に於ける外來語が如何なる状態にあるかといふ問題を考ふるに、これには種々の點より考察すべき問題ありと思ふ。そのうちその外來語がその國語にとり入れらるる深さの程度即ちその國語の法格との調和の度合によつて大體四樣に分つことをうべし。

 第一は純なる外國語なり。

 これは發音意義もすべて外國語の姿のままに用ゐらるるものにして、近來雜誌新聞などに漢字平假名文のうちにカタカナにて書かれてあるものの如きこれなり。かくの如きは外國語國語のうちに混じて用ゐらるといふ程度のものにして國語としての資格を與へられてあるものとはいふべからず。

 第二は狹義の外來語といふべきものなり。

 これは、外國より來たる語たることを認めながら、しかも盛んに國語の中に用ゐらるるものなるが、その発音又は形態などが或る點に於いて國語的になれるものなり。たとへば、、

  インキ  テープル  ピストル  ページ サラダ  ズボン  チョッキ

  ステーション

等の如きこれなり。而して漢語はこの程度のものかといふに、普通に考へらるる場合に於いて漢語外來語といふ感じを以てむかへられぬものなれば、この程度よりも進めりと考へらる。

 第三は借用語ともいふべきものなり。

 これは純なる國語と異なることなく國民の日常用語となりはてたるものにして、外國語たる特色を失ひて、全く固有語と異なることなき取扱をうけ、國民の感じも固有語と異なることなきものなり。たとへば

  たばこ  きせる  めりやす  かっぱ  ぼたん  かなりや  えにしだ  かすてら  かぼちや  ばか  だんな

の如きものなり。それらに樹して常人は外來語としての感じを有せず、又外來語としての取扱をなさざるものたり。

 今、漢語はこの程度に達せるものにして、國民の大多數はこれに對して外國語たりといふ意識をもたざるはもとより、これを用ゐてある場合外國語たりといふ感じをも生ぜざるなり。この意味に於いて、漢語外來語として取扱はざりし言海著者の態度も諒とせらるべし。然れども、この借用語の程度に達したるものは決して漢語に限らぬものにして、たとへば、

  だんな  ばか

の如きは梵語より出でたれど、何人も外來語として取扱はざらむ。又

  かるた  じばん  かんてら  ぼたん  めりやす  びろうど  かつぱ かすてら  かなきん

の如きは葡萄牙語より出でたれど、何人も外來語とは取扱はざらむ。その他、外國の地名より起りて物の名となれるものにしてわが國に入れるもののうち

  たばこ  らを  かぼちや  かなりや

の如きも、また同樣なりとす。然るときはここに漢語漢語以外の外來語とをば、その國語化の程度の差の意味を以て區別すべき根據なしといふべし、即ち一方に漢語といはば、他はそれに對して、直ちに梵語、葡萄牙語等といふべきものにして、外來語といふ名目を以てせば、これに對して他を借用語などいふべきものなりとす。しかも今はそれらは主たる問題にあらざれば措きて論ぜず。

 第四は歸化語といふべきものなり。

 これは第三の借用語と或る場合は區別する必要なきものならむが、これが國語同化せる程度甚だ深くして外國語たる特色を失ひて全く固有語と異なることなく世代を經るにしたがひて固有語と同一に取扱はれ、國語として後代に傳へらるるに至るものなり。然らば、その歸化語借用語との差別は何によりて測定せらるべきかといふに、それが國語同化する程度によるといふより外に、區別の方法は無きなり。

 元來外國語國語にとり入れらるる最初の状態を考ふるに、それはただ或る概念をあらはずものとして、取扱はるるに止まるものなるが、それが資格は概念語として單に體言の取扱に準ぜらるるものとすぴこれは如何なる語にても(それが國語たると外國語たるとを問はず)或る概念として取扱はるるときはいつも體言に準じて取扱ふものたるが故なり。而してこれは第一の純外國語としての場合も、第二の狹義の外來語としての場合も同樣なり。第三の借用語の場合も略同じ。即ちそれが國語のうちに同化したりといふとも、それが體言として取扱はるるのみにしてそれ以外に一歩も進出せざるときはなほ借用物たることを冤れざるなり。然るに、それが、A二歩進みて國語淀歸化するに至るときは單純なる體言の取扱を受くるに止まらずして、或は國語にての用言副詞としても用ゐらるるに至り、或は國語造語法の活動に支配せらるるに至るべきなり。かくの如き域に入るときに、はじめて歸化語と稱せらるべきなり。

 今次にこの歸化語につきてなほ少しく説くべし。

 國語の中に存する外來語觀念語に限るものにして、語法上の關係を示す部分、即ち助詞複語尾等は決して如何なる外國語よりも借用歸化せしむることなし。

 又國語と他の國語との性質上の差異たる點即ち用言は其の語尾變化は殆ど他國語に無きを以て他の諸國語用言等は決して其の本來のそのままの形質を以てわが國語動詞形容詞の代理をなすものにあらずして、それが歸化したるものはわが國語の法則によりてはじめて活動すべきものにしてかくしてはじめて國語と同一の資格を有するに至るなり。

 これを以てかれらの國語歸化語とならぬかぎりはいかなる語も國語體言すなはち概念語とし、同時に語尾變化なき語として取扱はるゝなり。其のうち其の本義によりて國語にてその取扱方を異にするものあり。それにつきて考ふるに四種の別ありとす。

一、體言

外來語の本義が、名詞代名詞數詞なるもの。これらは又國語にても名詞代名詞數詞として取扱はれ、其の間に幾ど國語と其の取扱方に差を見出すことなし。

名詞素  天 地 人間  莫迦  般若  ボーイ  ボート

代名詞素 僕  余  閣下  貴下

數詞素 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千  萬  億  ダース

  而して、この部類にてはそのま玉にて歸化語か否かを區別する道なし。

二、動詞

 これは、その外來語の本義が動詞なるものの轉來せるものにして、その本體は國語にては一種の名詞として取扱はるべき性質のものなり。さて、かく名詞として取扱はるゝ場合に於いては如何にそれに親しき感あひとも借用語の範圍に止まるといふべし。然れども、これが歸化語となれば動詞としての活動を起すに至る。これにも程度の差あれど、普逋にはサ行三段活用の語「す」に熟して、その「す」が有する一切の用法を享有するに至る。即ち

 運動せ   ズ  ジ  ム マシ バ

 = し テ ツ ヌ タリ   キ ケリ タシ

 = す ベシ マジ メリ

 = する ヲ ニ ガ

 = すれ バ ドモ

 = せ ヨ

 の如し。從つて又「す」と「あり」と熟合せる「せり」にも熟しうるなり。

  運動せら  ム  マシ  バ

  = せり  キ

  = せる  ヲ  ニ  ガ

  = せれ  バ  ドモ

 語尾變化ある外國語英獨語等にてはその動詞の本幹即ち不定法に立つべき形を以てこの活用の本幹となして、上述の如くす。

  ローマナイズする

  タツチする

 かくてかゝる場合にその動詞素の意義補格を要求するものなるときは、それに對すべき補格の語を伴ふことあり。たとへば、

  學問を研究す。

  法律案を議す。

  新聞を發行す。    池邊を徘徊す。

  京都に旅行す。    研究に熱中す。

  熊と格鬪す。

  大阪へ出張す。

  神戸より乘船す。

の如し。

 さて又かゝる性質を有するに至れる動詞素の語は準體言又は目的準體言と同じ取扱を受くることあり。その準體言たるものは形體上に變化なきが故に、體言素としてのものと區別せられざれども、それが、往々補格を伴ひてあらはるることあるによりてその性質をあらはにす。

  研究に熱中のあまり、

  神戸より乘舶の際に、

  大阪へ出張を命ず。

 かゝる際にはそれが準體言たる取扱をうけたること著しきなり、目的準體言たるものは次の如し。

  研究に從事す。

  散歩に出かく。

 これも單純なるものは體言としてのものと區別せられざれど、補格を伴ふ場合には明かにこれを認めうべし。たとへば、

  敵状を偵察に行く。

  芝居を見物に出かける。

 の如し。

三、形容詞

 これは本義が、外國語形容詞たるものが、借用せられたるものにして、それが、體言の扱を受けずして、國語上の情態副詞として取扱はるゝに至れば、歸化語と見なすべし。かくてその取扱は國語情態副詞と同樣の資格を得て、格助詞「に」又は「と」を從へ、隨つて又「なり」「たり」を伴ひて形容存在詞となるなり。

  永久にこれを保存す。

  漠然として端倪すべからず。

  天上太平なり。

  勝算歴々たり。

 而してその内面の性質に關するものは主として「に」「なり」を伴ひ、外貌の形容にかゝるものは主として「と」「たり」を伴ふ。

四、副詞

 元來外國語にても副詞たるものが入り來りしものにしてそれらは專ら時間、程度を示すものたり。而してこれが歸化語たる場合には國語にても副詞として用ゐらる。

  元來  爾來  向後《きやうこう》  一切  大抵  悉皆

 以上の如く用言副詞として用ゐられるゝものはこれを歸化語と目して可なる程度にすゝめるものなりとす。

 次に國語造語法の活動に支配せらるゝものとは如何なるものかといふに、これに三樣あり。

 一は國語の法則に隨ひて或る合成語をなすこと、たとへば、

   鸚鵡がひ  鸚鵡がへし       の(鸚鵡)

   あか合羽  あま合羽  合羽ざる  の(合羽)

   障子紙   あかり障子 障子骨  .の(障子)

あがり段  はしご段  段ばしご の(段)

あか繪 墨繪 繪かき の(繪)

惡ち(血) 惡源太 惡太郎 の(惡)

あて字 字あまり の(字)

重ばこ さげ重 の(重)

の如きものなり。

 二は語の構造をなす性質の接尾辭をふみて、新なる語をなせるものにして、たとへば、

可愛らし    可愛げ      の(可愛)

窮屈がる 窮屈さ の(窮屈)

他人がましい の(他人)

不憫がる 不憫さ の(不憫)

退屈がる 退屈さう の(退屈)

勿體ぶる の(勿體)

利口ぶる 利口げ 利口さ の(利口)

才子がる 才子らし の(才子)

愛らし の(愛)

  執念がる         の(執念)

  追從がまし の(追從)

  大膽さ の(大膽)

  存外げ の(存外)

  迷惑げ  迷惑さう の(迷惑)

の如きものなり。

 三は外來語國語用言に化して用言としての語尾變化を起したるものにして全く、國語の法格の支配を受くべくなれるものにして、完全なる歸化語といふべき程度のものなり。たとへば




 





の如きこれなり。

 以上述べたる如き程度に至る時にこれを歸化語名づけて差支なかるべく思はる。

 かくて顧みるに漢語國語の中に入れるものは大多數が歸化語となれるものと考へらるゝなり。然らばかの言海著者漢語を特別にせるはこの歸化語の程度に進みたるが爲かといふに、漢語以外の外來語にも歸化語たるものなきにあらず。たとへば、

  檀那らしい風體  若檀那  大檀那   の(檀那)

  馬鹿らしい事  馬鹿げた事

  大周圃  "周鬪もの            の(馬鹿即ち莫迦)

  まぐねる               の「まぐね」

の如きあり。されば、かの漢語外來語との區別は結局一の便宜に止まるものならむ。然れども、その歸化語の域に進めるものゝ量を見れば他のものと比較すべくもあらぬほどの多數なれば、これを他の外來語と區別して漢語を特別に取扱ふことも必ずしも不可ならずといふべし。

 要するに漢語外來語として占むべき位地は實にこの歸化語の域に達せるものにして、しかもその量は既に述べたる如く甚だ多きものにして、今假りにこれを除くとせむか、われら日本人の思想交換の要具たる國語の實用は恐らくは半減せむか。


引用

石野博史『現代外来語考』pp.26-27

 第一は純なる外国語なり。

 これは発音意義もすべて外国語の姿のままに用ゐらるるものにして、近来雑誌新聞などに漢字平仮名文のうちにカタカナにて書かれてあるものの如きこれなり。

 第二は狭義の外来語といふべきものなり。

 これは、外国より来たる語たることを認めながら、しかも盛んに国語の中に用ゐらるるものなるが、その発音又は形態などが或る点に於いて国語的になれるものなり。たとへば、、

  インキ  テープル  ピストル  ページ サラダ  ズボン  チョッキ  ステーション

等の如きこれなり。

 第三は借用語ともいふべきものなり。

 これは純なる国語と異なることなく国民の日常用語となりはてたるものにして、外国語たる特色を失ひて、全く固有語と異なることなき取扱をうけ、国民の感じも固有語と異なることなきものなり。たとへば

  たばこ  きせる  めりやす  かっぱ  ぼたん  かなりや  えにしだ  かすてら  かぼちや  ばか  だんな

の如きものなり。今、漢語はこの程度に達せるものにして、国民の大多数はこれに対して外国語たりといふ意識をもたざるはもとより、これを用ゐてある場合外国語たりといふ感じをも生ぜざるなり。

 第四は帰化語といふべきものなり。

 これは第三の借用語と或る場合は区別する必要なきものならむが、これが国語同化せる程度甚だ深くして外国語たる特色を失ひて全く固有語と異なることなく世代を経るにしたがひて固有語と同一に取扱はれ、国語として後代に伝へらるるに至るものなり。然らば、その帰化語と借用語との差別は何によりて測定せらるべきかといふに、それが国語同化する程度によるといふより外に、区別の方法は無きなり。

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