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2009-01-01

山田孝雄『日本文法學概論』第一章「文法學とは何か」 山田孝雄『日本文法學概論』第一章「文法學とは何か」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 山田孝雄『日本文法學概論』第一章「文法學とは何か」 - 国語史資料の連関 山田孝雄『日本文法學概論』第一章「文法學とは何か」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 言語は人が思想を發表し、他に傳ふる方法として、その思想を聲音にてあらはしたるものなり。されば、言語の内容は思想にして、言語の外相は聲音なりといふを得べく、思想も聲音言語にとりて必要缺くべからざる條件にして、思想を離れては言語なく、聲音を外にして言語なきこと勿論なれど、思想か聲音かの一方のみにては言語といふことを得ず。されば、思想即ち言語にあらざると共に聲音即ち言語にもあらざるなり。思想と聲音との相待ちて生じたるもの即ち言語にして、それらを分解して思想のみをとり、聲音のみをとらば、これ既に言語そのものにはあらざるなり。

 言語は人間の思想をあらはしたるものといふことはなほ少しく説明を要す。言語は元來思想の發表交換の要具にして、その思想といふ方面よりいへば、その言語の主たる個人の思想を發表したりといふには相違なきことなれど、その思想を寓せられてある言語は個人の勝手の産物にあらず。即ちその言語の主たる人が共同生活を營める民族の間に行はれてある言語を用ゐてはじめて思想交換の目由を達しうぺきものなり。かくの如く言語は社會内に發達したるものなることは小兒が、言語を覺ゆる事實を見ても、又國語民族により異なる事實を見ても知らるべし。即ち言語は個人的のものにあらずして一種の社會的現象なりといふことを先づ認めざるべからず。

 次に言語には合理的の部分ももとより存すれども、不合理の部分もまた少からず存することを知らざるべからず。たとへぽ「ウサギウマ」(驢馬)といふ如き語、「赤い白墨」といふ如き語の行はれて、いふ者もきく者も之を怪まざるもの多々存す。これらを見れば、言語は論理的哲學的にあらざる部分の少からざるを見る。かくの如き非論理的の言語の存する所以は一面は、それが社會的所産にして個人の意見にて任意に變更し得ざる點にも存すといふべきが、言語が時間性を帶ぶることによりてこれらの矛盾非論理的事實の存在する所以を理解しうべし。言語が時間性を帶ぶる所以は種々の事情によりてこれを明かにしうべし。先づ、言語の内容をなす所の思想といふものはその進展の過程が時間的のものなるを見る時に、その思想を發表したる言語が、時間的のものなることを考ふぺし。次には言語の外相をなす聲音も亦時間的繼續を本質とするものにしてこれを受けて生ずる聽覺も亦時間的なるものなり。かく言語そのものゝ内容外相共に時間的なるが、それと共に、その言語といふものが世に存するは、その言語が或る人がこれを使用する前に既に社會的に成立してありてそれを後の人がこれを使用すといふことによりてはじめて言語たる實をあらはすものなれば、この點に於いても著しく時間性のものなりといふこと明かなり。或はこゝに新にある言語を用ゐはじめたる時にはそれには過去といふものなければ、時間的のものにあらざるが如しといへども、しかも一旦これを使用しはじめたる後に、これが眞に言語としての生命を有するはその後に於いて使用せらるゝが爲なり。こゝに於いても時間的の性質を離るゝものにあらず。而してこの場合にはその言語が社會的のものといふ性質をあらはすものなるが、こゝに言語の有する時間的性質と社會的性質とは相表裏するものたることを考ふべし。

 かくの如く言語が有する時間的性質と社會的性質とが相待つて、こゝに言語の變遷發達を促す原因となるなり。從來は言語をば論理學的哲學的に取扱はむとしたる學者なきにあらず、又自然科學的に取扱はむとしたる學者もありき。これは言語の内容たる思想の方面のみを見れば、論理學的哲學的に取扱ふべき點も存すべきは否定すべからぬ事なり。又言語の外相たる聲音の方面のみを見れば、自然科學的に取扱ふべき點も存すべきは否定すべからずといへども、それは言語の本體そのものにつきての事にあらずして思想又は聲音の一面に拘泥するものなれば論理的哲學的若くは自然科學的にのみこれを説かむとするは謬見なること明かなりとす。

 言語は實に社會の所産にしてその發達變遷の跡を見れば、實に歴史的なること明かなり。即ち社會的の性と時間的の性との間に變遷を起す原因を有する歴史的の産物なりといふべきものなるが、ことに文化を有する民族言語はその文化の史的發展と深き關係を保ちつゝ變遷し來れるものたりと認めらるゝものなりとす。

 さて言語といふものは思想が聲音といふ外相をかりて發表せられたるものなる點に於いては世界中その趣を一にすといへども、もとこれ社會的歴史的の産物なるが故に、各國必ずしも揆を一にせず。言語がかく多樣になれる理由は一々あぐるを得ぺきにあらざるべしといへども、しかもその原因言語そのものゝ本質に存すといふべし。先づ、言語の外相たる聲音は如何といふに、これは種族的に又地方的に發聲機關の操縱の慣習を異にすることあるが爲に、その慣習の相違に相應じて各特色ある聲音とその組織體とを有することゝなり、從つてその聲音を材料として構造せる言語は種族又は地方により特異の外相を呈するに至る。又言語の内容たる思想に於いても種族によつて往々その概念構成法又は思想の運用法を異にし、從つてその言語構造、組織又それらの運用の方法を異にすることあるによりてこれ亦必ずしも一樣ならず。加之、言語は上述の如く社會的歴史的のものなれば、もと同一の言語なりとも、その地方又は社會を異にする時は各特異の經路をとりて發達變遷をなすぺきものなれば、相當の年月を經過したる後には各特殊の相を呈するに至るを常とす。かのエスペラントの如き人工的の語にても、常にその統一に努力するにあらずば早晩國々によつて異なる相を呈すぺきは睹易き事理なりとす。この故に國民又は民族によつてその用ゐる言語差異を生ずるに至るなり。言語がかく各國必ずしも一ならざるによつてそれらを區別して名づくる必要生ず。これ日本語支那語英語などといふ名目の生ずる所以なり。かくて國語といふ名目起る。國語とは國民が自國の言語を呼ぶ名稱にして我等日本語をさして國語といふなり。

 言語聲音を以て外相とするものなれど、聲音は一時的のものにして刹那に消えさり、これを永久的に、はた有形的に保存すること困難なるものとす。この故に聲音又は言語をば特別の符號を以て目に見るべく有形的に記し留むる方法按出せられたり。この目的の爲に供せらるゝ特別の符號文字といふ。然るにここに今や蓄音器の發明ありてその聲音を保存することを得るに至りたれば、文字の必要なきかといふに然らず。蓄音器文字との問には著しき性質の相違ありて決してこれを同一視すること能はざるものなり。蓄音器は要するに音響といふ自然現象の復現をなすものにして從つて聲音の保存をなしうぺしといへども、これを以て思想を交換する要具とすることは事實上不可能なるのみならず、假にこれを以て思想を交換しうぺしといふとも極めて迂遠なるものなりとす。文字の特色は第一は視覺的なる點にあり。かくて、ある場合には聲音よりも迅速に思想を傳達しうべく、又聲音よりも確實に、これを通達しうべく、しかも永久的のものなりとす。即ち文字言語の視覺的記號にして思想の發表交換の要具たる點に於いて聲音以外に別に一の領域を有するものなり。この文字といふものは苟も文化の存する國には必ず存在する現象となれり。

 文字には言語そのものを直接に代表する性質のものと言語の外相たる聲音を代表する性質のものとの二大別あり。甲を義字といひ、乙を音字といふ。而してその音字西洋學者によつて最も進歩せる文字と目せらるる所のものなり。然るに或る國語に於いてその言語の要素として用ゐらるゝ音韻の數は限定せられてあるものにして、それぞれ大體の型を定めて多少の異同はこのいづれかの型に收めて、これを精密に區別してあらはすことなし。かくてこれらの聲音をうつすに用ゐるものこれ即ち各國民の用ゐる實用文字なり。元來音字はその約束を精細にせば、聲音の委細を精密に寫し出すこと不可能にはあらねど、かくては極めて繁雜にして實用に適せざるなり。この故に、その國語音韻組織に照して、大體の型を定めて多少の異同はそのいづれかの型に收めたるものにして、これを精密にあらはしたるものにあらず。これ實用文字の實用文字たる本質に適したる重要なる性質をよく實現したるものなり。かの聲音學者の案出したる表音記號の如きは精細なるには相違なけれども實用に適するものにあらず、又そは實用の文字として製せしものにもあらざるなり。この故に實用文字としての音字は如何に精密なりといふとも、それが、實用文字たる限りその文字聲音のあらゆる現象を精細にうつし出したるものにあらざるは明かなり。即ち實用上の文字音字たりといふとも聲音の區別變化をありのまゝ委しくあらはすやうにつくられてあるものにあらざることを十分に知らざるべからず。

 文字言語を目に視るべく記したる符號たるものなること上述の如くなるがこれも亦言語の本來の目的即ち思想の發表、交換の要具たることを離れざるものなれば、社會的歴史的の産物にして、國民又は民族によって差違を生ずるに至ることあるものなり。それらの差違の起る原因は又その國の言語の性質、聲音の性質の差違、又その國の文化史上の經路等にあるものなるが、これらは言語學文字學の論ずべき所なるが故に今詳論せず。

 文字によりて言語を記載せるものを文章といふ。言語文字が、國により民族によりて差違あるによつてそれらの文字を以て、それらの言語を記載せる文章も亦各國必ずしも一ならず。これによりてそれらを區別して名づくる必要生ず。これ日本文漢文英文などいふ名稱の起れる所以なり。かくて又國文といふ名稱起る。國文とは國民が自國の文章を呼ぶ名稱にして、我等日本文をさして國文といふなり。

 言語文章とは元來同じかるべきものゝ如くに考へらるれども、實地につきて檢すれば必ずしも然らず。抑々言語聲音を外相とするものなるが、その聲音は自由に操縱するを得るが故に、放任すれば、容易に變易せらるべき性質ありて、その聲音にてあらはす言語も亦時と共に變遷自在にありうべき性質を有すといふぺし。文字はその實際に於いて聲音に嚴密に吻合せぬものなること既にいひたる如きものなれば、それらの文字にて記載したるものは如何に實際の言語に近づかしむぺく努力すとも嚴密の意義にては口頭の言語一致せぬこと少からず。ことに、文字は形ありて一旦成形せる以上は人爲的に改めざる限り、變化を呈することなし。されば、これを要素としたる文章は又固定的にして時と共に變遷することなきものなりとす。こゝに於いて聲音そのものを外相とする口頭のまゝの言語と、文章に用ゐらるゝ言語との二の區別を生ず。この口頭の言語をば口語といひ、文章に用ゐる言語をば文語といふ。

 上述の如く口語は時につれて多少變遷しつゝ行くものにしてその變遷は自然的に行はる。然るに文語として一定の形をとれば、そは固定的にして變遷すること能はず。この故に口語文語とは勢差違を生ずるに至る。一は流體の如く、一は固體の如し。これを全然一致せしむるが如きことは聲音文字との關係を説く際にいへる如くにして理論上なしうべきものにもあらざると共に、事實上なしうるものにもあらざるなり。世に言文一致といふことを主張する人あれど、嚴密なる意味にてのそれらの一致は實現しうることにあらざるはいふまでもなし。よし假に極端なる一致が一時實現せらるとしても、そは實は其の瞬時に止まるべきものにして、やがて直ちにその記載法は固定し、一方の口語は流轉し行くぺき運命にあるものなり。而してかくの如き極端なる言文の一致は實用的には決して實現せらるべくもあらざるのみならず、又實際實現したるものなし。これ文字そのものゝ性質と聲音そのものゝ性質との根本的の差違に基づくものなりとす。されど、文語口語との法格の甚しき差違は國民をして國語の操縱の上に困難を感ぜしむる點なきにあらざれば、兩者をなるべく接近せしめむとするは必ずしも不可なるにあらざるのみならず、なし得べくば之を近づかしむるを可とす。されど、これを以て純然たる言文の一致の行はるべきが如くに考ふるは一種の迷妄といふべし。現在行はるゝ口語體の文と稱せらるゝものゝ如きも亦一種の文語にして決して口語そのまゝの書き寫しにはあらざるものなりとす。

 言語が社會的歴史的のものなることは既に述べたる所なるが、その變遷發達は徐々に行はれて、或る一時を限りて見れば、殆ど動くことなきさまに見ゆれど、實は生々活動一日も止まぬものといふべし。この變遷も歴史なき野蠻人にありてはそれを討究すること殆ど不可能なるさまに見ゆれど、苟も文化を有する國民にありては、その史的變遷のあとをたどりて以て過去より現在にわたれる經過を知るを得べし。この故に言語を研究するにはその歴史的發達如何といふことも亦忘るべからざる重要事項なりとす。而してその文語なるものは、その國の文化の所産にして、同時にその國文化の寶庫たるものなれば苟も文化を尊重するものにとりては最も貴重すべき資材たりとす。

 現今文語と稱せらるゝものゝ實體如何といふにそのさす所殆ど一定せず。或は文語を以て古語の如くに説くものあり。然れども今日の文語はおのづから今の文語にして古代に未だかつてこのまゝの有樣のもの存せざりしなり。又その語法の如きも平安朝時代文法によるといふ人あれど必らずしも然らず。さて現代の文語と目すべきものは、大體書籍雜誌等に於ける論読の如きもの、又所謂口語體以外の雜録類又詔敕法令に用ゐらるゝ文章め如きものをさすと知るべし。この現代の文章鎌倉時代以來變遷し來れる和漢混淆體の文章にして、この現代の文章は一方に於いて、漢籍訓讀によりて傳へられたる言語及び語法を著しく、加味したるものなりとす。この故に現今の文語にはそれらの要素を有すると共に現代に至りて起れる新現象即ち近頃の外國譯語の感染と、明治以來の新しき風潮とにより釀成せられたるものを加味したるものなれば必ずしも古法に則るとはいふべからざるものなりとす。

 現代の口語は如何なるものなるかといふに、これに明かなる答を與ふるは頗る困難なる問題なりとす。即ちこれを文字通りに考ふれば、その本體はこれなりといふ事の容易にいはれぬものなり。そは何故ぞといふに、我が國には方言の差違頗る著しくして、鹿兒島邊の人と青森邊の人とが方言を互に用ゐて談話をなさば恐くは意思の交換は行はるまじと思はるゝばかりなり。これは極端なる場合なるが、少くとも東京を中心とする語と京阪を中心とする語との二の大なる區別あるは事實なり。なほその上に九州の大部分及びその他從來交通の不自由なりし地方には文語の法則に一致する如き點も多少殘り存せり。この故に現代の日本人の用ゐてある言語すべてを一々具體的に之を論ぜむとするには甚だ大なる努力を要することにして、しかもそれは、今遽に何人もなしとぐるを得ざる大事件なりとす。

 かくの如く多岐に分れたる方言に對して、日本口語なりと目すべき實體ありや否や。これに對して個々の方言のみ實存するものにして、それら方言の總計以外に國語と名づくべきものなしと論ずるものあり。これらの論者は一を知つて未だ二を知らざるものなり。これらの論者の論法に從ふ時は日本人の個々のみありて、その以外に日本人といふものなしといふ結論に到達すべし。これ恰も野蠻人が、甲の馬乙の馬といふことを知り得て馬といふ概念を有せざるにも似たり。堂々たる文化を有する國の學者にしてかゝる僻論を吐きて得々たるものあるは奇怪なりといふべし。吾人は個々の馬の知識を有すると共に一般的に馬といふ概念を有する如くに、個々の方言の存するを認むると共に日本國語の本體と認むべき共通語といふものゝ概念的に存するを認むることは明かなる事實なり。この共通語は、個々の方言の總和にもあらず、又一の方言にもあらずして、即ち全國共通に行はるべき性質を有していづれの方言にも屬せざる多少概念的性質を帶ぶる語にして、それが教育の普及と文化の發達とによつて生ずべき筈のものなり。今これを共通語といふ。從來かくの如きを標準語といひたれど、標準語といふ語はもと Standard language の譯にして言語を異にする異民族の集合國家に於いて政治的にその國家の議會、法令などに用ゐる標準的の語をさすものにして今いふ如き方言に對しての共通語をさすに用ゐるは不當なりとす。さて上述の如くなれば、現代の口語共通語としては何處にてか用ゐる語を基として識者が卑俗にあらず、又偏したるものにもあらずと認むるものをとらざるべからざる事なるが、それも亦容易に定め難き大問題なり。されど、大體は東京の中流の教育ある社會に用ゐる語を標準とすることになれるやうなり。然るに東京語も亦一種の方言なれば、卑俗なる語も少からず、又發昔の訛も存す。この故に中流の教育ある社會の語を標準とすといふ事唱へられてあるなり。さればとてこれらがその共通語なりとさしていふ事は甚だ困難なることなり。この故に、先づ教科書書籍雜誌などに人々が相當のものと認めて書けるものゝうちより我等の正しと認めたるものをとるより外に方法なきなり。しかもそれらは實は眞の口語にあらずしてなほ一種の文語たるものなるが、文法の研究對象にはそれらをとることこれ止むを得ざる點なりとす。

 言語その物の本體又は現象につきて一般的に研究する學科を言語學といひ、特殊の國語につきて研究する學科を國語學といひ、二者密接の關係ありといへども、各範圍を異にし一を以て他に代ふること能はざるなり。

 言語の研究に關聯して考へらるべきは思想の研究、聲音の研究、文字の研究等にしてこれらの研究と言語の研究との關係を十分に考へおかざるべからず。これらの研究は言語の研究に關聯する所甚だ密接なれど、そは言語の研究その事にはあらずして、それら思想の研究、聲音の研究、文字の研究の外に言語の存すべきはおのづから明らかなりといふべし。言語の研究はかく思想の研究、聲音の研究、文字の研究と同じものにあらずといへども、その間に密接なる關聯あるを忘るべからず。思想の研究には心理學論理學等あり。又社會學、文化史、思想史の如きものにありては皆言語の思想的方面を闡明する點少からずして言語の研究に相應の援助を與ふるものたるべし。聲音の研究には生理學の一部、物理學の一部、聲音學等あり。更に進みては音樂上の學理あり。これらの學問言語の研究には大なる關係あるものなり。されどこれらの研究は直ちに言語の研究の代理をなすものにあらず。文字の研究言語の研究の一分派といふを得ぺきものなれど、又おのづから別なる一科にして言語自體の研究とは別のものなりとす。然れども漢字假名とを併せ用ゐる本邦にありてこの研究はまた重要なる一科なりといふべし。

 國語學國語全般にわたりて研究するものなれば、その範圍また汎し。第一には音韻の研究あり。これは國語音韻の要素及びそれらにて言語構成し、文句を組織する事項の研究にして發音朗讀法の如きも亦皆これに屬す。次には記載の方法の研究あり。即ち文字及び、文章記載法の研究にして所謂假名遣送假名句讃法亦これが範圍に屬す。次には個々の語の研究にしてこれは個々の言語の起源變遷發達各語の關係等をも研究する部門なり。次には文法學にしてこれは語の性質運用等を研究する部門なり。

 文法學は如何なる學問なるか。從來往々これを以て文章の誤を正す爲の學問なりと考へたるが如し。もとより文法學を知るときはその知識を應用して文章の誤を正しうべしといへども、こはその直接の目的にあらず。文法學本質は記述的の學問にして國語の間に存する理法を探究し、之を説明するに止まるものにして、正不正の規範を論じ美醜の標準を論ずるを目的とするものにあらざるなり。凡そ言語は既にもいへる如く歴史的展開をなすものなれば、これを研究するにその史的展開の迹をたどりて研究するをうべし。西洋に起れる言語學は主としてこの史的研究の結果に基づくものにして隨つて言語の研究史的研究をなせば十分なるものにして文法の研究の如きは學問にはあらずとまで誤解せる學者近頃までわが國には存せしなり。言語の研究歴史的の研究の必要にしてそれが相當の學問的價値ある事は勿論なれども、しかも歴史的研究言語の研究の全體にはあらざるなり。たとへば歴史的研究を施す時にはある語或は言語組織のある成分の成長發展をみてこれを明かにすることは得べきなれど、その國語の全體の組織は如何にしても見られぬ筈なり。この、國語の全體の組織はその國語をば一時靜止的地位にあるものと見て、その横斷面を見る態度をとりて觀察せずば見られぬものなり。從來の言語學者が言語史的研究のみを言語學唯一の研究方法として文法學學問にあらずとやうに云ひたれど、それは恰も法制史の研究が法の研究の本體にして組織的の法學なるものは學問にあらずといふが如き論なり。世に豈にかゝる不合理の事あらんや。抑もかゝる社會の事相に對する學問にはいつも縱斷的に見る歴史の研究と横斷面的に見る組織の研究との二方面の存する筈なり。今文法學はこの横斷的に見る組織の研究たるなり。即ちこれはある國語につきて靜的に見て同時に關係的に存する言語材料とそれら材料が相關し相依りて組織する鱧系の研究なりとす。

 かゝる見地に立ちて、はじめて文法といふ事も考へ得べきなり。然らば文法とは如何なるものかといふに、これは既にもいへる如く、ある國語の内部の組織といふ事にして、即ちその國語に同時に共存し且つ一定の體系をつくる所の諸の言語材料の間に存する所の一定の關係及び組織の法則といふことなり。この事實はその内面にはたらく思想ありてこれを操縱するものなれば、これを簡單にいへば、國語を思想に應じて運用する一般的の法則なりといふをうべし。この法則はある一の語につきて存する個別的の慣例をいふにあらずして一般的の概括的法則をさせるものなり。さてその運用の根基はいづれにあるかといふに、これ實に思想に存す。即ち思想を基として、その思想に適應すべく國語を運用する法則即ち文法たるなり。されど思想の法は直ちに文法とはなるべからず。即ち文法は思想の法その者にあらざるは明白なりといへども思想なくして文法といふものは存すべからざるなり。かくの如く思想を全く離れては文法を講究すること能はざるものなれども、思想は直ちに言語にあらざるが故に思想のみを研究しつくしたりとも文法を研究せりとはいふを得ざるなり。

 上述の如き文法を研究する學問即ち文法學たるなり。文法の背景となれる思想には個人心理學的の部分もあり、論理學的の部分もあり、民族心理學的の部分もあり、又社會學的の部分、歴史的の部分もありといふべし。されば、それらの學問文法學の研究に大なる援助を與ふることもあれど又文法學がそれらの學問にも援助を與ふることもあるなり。而してこの文法研究といふことが一の獨立學科にして他の思想的學科と密接の關係を有しつゝ、しかもそれらの一部にあらざることは、それらの學科に樹して援けつ援けられつの關係にあるを見ても知らるぺし。

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