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2007-08-25

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◎『好きこそ物の上手』とは、實に名言である。文章に上達しようと思ふなら、先づ文を作ることが好きにならねばならぬ。

◎どうしたら文を作ることが好きになるかと云ふに、先づ文章の尊くして且つ必要であることを確信せねばならぬ。『文は遣りたし書く手は持たぬ?』では、困ったものである。

◎心に、文章の尊くして且つ必要であることを確信しただけでは、まだ不可ない、手が之に伴はねばならぬ。即ち、どし/゛\文章を作って居れば、初めは厭であっても、だん/゛\好きにになって来る。

◎多い友達の中には、必ず作文の好きな人があるに相違ない。その同好の友と文章の作りっこをするのも、文章が好きになる一の方法である。

◎さは云へ、如何に紙を展ぺ、筆を執っても、書くことが無ければ、一言半句も出て來ない文を作るには、先づ書くことを拵へねばならぬ。これが少年の人には、困難であるが、日記なら、誰でも出來るに相違ない。名論を吐かうとか、うまい文句を拵へようとか、そんなことに狗はらすに、毎日必ず日記をつける。見たり、闘いたり感じた事を、なるべく長く書くやうにする。それでも書くことが無かったら、わざ/\歩いて見るなり、何かして書くべき事柄を求め出すが宜い、凡そ一年も日記をつけると、必ず作文が好きになる。

◎字を習ふにしても、繪を習ふにしても、お手本が必要である如く作文の稽古にも、お手本が必要である。そのお手本も初めから大家の傑作ではむづかし過ぎる。易きより難きに及ぼし、浅きより深きに及ぼすといふ方針を取って、眞似の出来易いものから始めるが宜い。己れより少し年上の文才ある人々の作を参考にすることも、作文上達の一方法である

世間には、青少年の文章を集めた雑誌がいくらもあるから、之を讀むが宜い。

◎古今名家の作を讀めば、必ず己れの好きな文句があるに相違ない。勞を厭はすに、それを一々帳面に寫して置くが宜い。この手数を厭ふやうな人は、とても、うまい文章は作れない。

◎傑作と思つたら、暗誦するが宜い。暗誦するまでに文章を味ったら、文章の結構段落がはっきり解って來る。その暗誦する文章の數は必ずしも多きを要しない。五六篇でも宜い。

◎名文を暗誦する、名句を拔萃する、そして毎日どし/゛\作れば、上達しまいと思っても必ず上達する。

◎毎日作るといふことが肝腎である。一時間でも宜い。三十分でも宜い。時間は必ずしも多きを要しない。この一週間は作るが、次の一週間は作らぬ。又次の一週間は作るが、又その次の一週間は作らぬといふやうに、間斷があっては、筆が達者にならぬ。文章に上達するには、筆まめでなくては不可ない。

◎字を間違へたり、文法を間違へたりするのは、初學者の免れざる所である。あまりそれを氣にし過ぎると、筆が伸びない。文章が萎縮する。文字文法上の間違が無くて萎縮した文章よりも、間違は有っても縦横自在に書きまはしてある文章の方が將來有望である。

文字文法上の間違があってもかまはぬと云ふのではない。それはおひ/\に直せば宜い。否、稽古を積むに從って、自然に直って來るものである。

◎珍らしいものを見たら黙って居られず、それを人に話したいのが普通の人情である。それが筆に發して、文章となるのである。この普通の人情を缺いた人は、相交っても面白くない。無論文章家にはなれない。

◎人に示さすに居られぬといふ思想感情を持った人にして、始めて文章が出来るのである。

◎若いうちは、誰れでも誇張したがるものである。二三の事を五六に云つたり、七八に云ったりしたいものである。それは必ずしも悪くはない。若い人の文章は絢爛が宣い。絢爛の域を経て、然る後、平淡の域に入ると、その平淡に味がある。初から平淡では、所謂枯木冷灰に成りはしまいかと思はれる。

誇張は宜いが、心にもあらぬ虚言を吐いては文章の魔道に陷ったものである。世の中でも、誠のない小才子は、一寸成功しても必ず終に失敗する。大成しない。文章でも、その通りである。何事にも大成するには、正直で眞面目でなくては不可ない。馬鹿正直が必ずしも宣いといふのでは無いが、決して誤魔化しては成らぬ。誠意誠心に立脚して、その上に才智策略を振はねばならぬ。文を作るには己を欺いててはならぬ。正直に自己の思った儘を告白せねばならぬ。正直に自己を告白すれば、文章が活きて來る。己を欺いて、人を威さうとし把り、人に媚びようと思ったり、麗しい文句をならべたりした處で、知る人ぞ知る。識者は必ず顰蹙する。

◎造花は如何に巧であっても、生花には及ばない。剥製は、どうしても生きた動物とくらぺものにならない。それは生氣の有無で岐れる。文章も生氣がなくては、死文である。換言すれば熱が無くては成らない。人間の體温は三十七度が常熱である。それから昇ると病的になるが、精神上にはそれ以上の熱があっても宜い。熱が高いほど事に當って、事がはかどる。文を作って文に妙味がある。

◎併し物事にはすべて程度がある。精神上の熱が高いほど、名文が出來ると云っても、餘りに常軌を逸しては、病的となる。

◎精神上の熱と云っても、大別すれば二通になる。一は己に對する熱で、一は他に對する熱である。己に對しても熱あり、他に對しても熱あるが理想的である。即ち己れをつねって他の痛さを知る人でなくては成らぬ。唯己に對する熱のみあって、他に對する熱の無い人は、その熱が高ければ高いほど病的となる。人を動かす名文は作れない。

◎文を作らむには、平生いろ/\の事に深く注意せねばならぬ。普通世間の人も注意はする。即ち自分がえらくおもはれたいとか、失敗すまいとか、うまい儲け口はあるまいとかいろ/\さま/゛\に注意はするが、それは唯自分の生存に對する注意である。文章家はその域より上に出でゝ、自然の有樣、社會の有樣、人情の如何、道徳の如何、風俗の如何などを観察せねばならぬ。その観察の如何が、文章家として成功すると否との岐るゝ所である。

◎他の文を讀んで、唯面白いか面白くないかを辨別するだけでは、普通一般の讀者である

文章家になるには強いか、弱いか、大なるか、小なるか、眞面目なるか、不眞面目なるか熱あるか、熱なきか、正しきか、正しからざるかを噛み分けねばならぬ。そして學ぶべきは學び、捨つべきは捨てねばならぬ。

◎いろ/\の流儀を知り、それ/゛\の長短を辨別するは、鑑賞家の態度である。文章家となるには、まづ一流を貫きて、ひとかどの腕を拵へ、然る後に諸説を参考して、一家の機軸を出さねばならぬ。一流に没頭しては小家に留まる。さればとて、眼ばかり肥えて腕が伴はねば、小家にすら成れない。

文章家は人に對する情が切でなければ不可ない。餘りに人を馬鹿にしたり、人に冷淡であったりするやうな人は、社會にも成功しない。文章を書いても、人を動かす名文は出来ない。人を愛すべくして愛し、憎むべくして憎み、しかも熱がなくてはならない。美文を書くには、うるはしき情緒を有せねばならぬ。論文を書くには學識がなければならぬ。常識も缺けては不可ない。

手紙は日常何人にも必要である。將來は口語體になるであらうが、今の處は候文體が通用して居る。今の世に通用するには、候文體に由らぬばならぬ。親友同志では文體はどうでも宜いが、世間一般には、さうは行かぬ。一と通り候文體を心得ねばならぬ。

手紙を書く心持は、平生人に對する心持を筆にうつせば、宜いのである。親に對すると兄弟に對すると先生に對すると友人に對すると、それ/゛\心持が異なり、語氣も異なるものである。親しき仲には天眞燗漫が宜い。親しからぬ人、殊に目上の先輩には、敬意を失うてはならぬ。その呼吸を知ることが手紙を書く上に、尤も先づ注意せねばならぬことである。

◎また芽出度い場合には芽出度い云ひ方があり、悲しい場合には悲しい云ひ方があり。場合々々によりて、心持もかはれば、云ひ方もかはる筈である。それを等閑にすると、知らす/\手紙に失敗して、終に社會の落伍者となるのである。

◎要するに、文章は達意を主とし、己の人格を磨きつゝ、我文の品位を上げるべきである

次ぎに詞を熟知せねばならぬ。云ひ方を工夫せねばならぬ。文字の間違はぬやう、文法の間違はぬやうにも注意しなくてはならぬ。

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