国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2007-03-21

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「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日

 国語波行子音、即ちハヒフヘホの最初の子音は、現在に於てはh音又は之に近い音であるが、古くはF音であり、更に古くはp音であったらうといふ事は、Hoffmann?, Edkins, Satow, Chamberlain, 上田万年博士、大島正健博士、岡倉由三郎氏、金沢庄三郎博士、伊波普猷氏、安藤正次氏など、内外の学者の討究によって、ほゞ明かになった。しかるに、pからFへ、Fからhへと転化したのは果して何時であったかといふ年代上の問題になると、今猶明かでない点が多いのである。そのうち、Fからhへの推移については、前にはHoffmanの外国人の書いた資料に基づく提案があり*1、近頃また新村出博士の国内の文献による研究があって*2室町時代の標準的発音はFであり、Fからhに遷ったのは主として江戸時代に在った事が知られるにいたったが、pからFへの推移の年代については、上田博士奈良朝以前にありとせらるるやうであり*3、安藤氏は奈良朝を以てその転換期であららかと説かれて居るが*4、まだ定説とする事は出来ないやうにおもはれる。それは、それぞれの時代に於て、たしかにF又はpと発音した事を証明すべき確実な根拠がまだ提出せられて居ないからである。


 平安朝に於ける波行子音の発音がFであった根拠として安藤氏が挙げられたのは、平安朝初期から中期にかけて波行音が和行音に変化した事である。和行子音wは両唇の間をせばめて発する摩擦音であって、両唇を閉ぢて発する破裂音であるpよりも、両唇をせばめて発する摩擦音なるFによほど近いのであって、pが直にwに変じたとするよりもFがwに変じたとする方がよほど自然であるから、この点からして波行子音がFであった事を主張するのは甚有力である。しかしながら、波行音が一般に和行音に変じたのは、「はる」「ひと」「ふね」「へた」「ほね」のやうに語の最初に在る場合でなく、「かはる」「こひ」「おもふ」「かへる」「かほ」の如く、語の中又は終にある場合であって、音の変遷は、語頭音の場合と語中又は語尾音の場合と、必ずしも同様でない事は、東西古今の言語史に於て屡遭遇する事実であるから、この二つの場合は、別々に考察するのが当然である。


 語中語尾の波行音が和行音と同音になってしまったのは、平安朝中期以前であらうが、そのなり初めたのはかなり古く、奈良朝に於て既にその痕跡が見られるのである。万葉集に、「かほ鳥」を「杲鳥」と書いてある如きが即ちそれであって、この例によれば、カホが、少くとも或場合にカヲと発音せられたものと解さなければならないのである。さうして、かやうにホがヲと同音になったのは、当時の波行子音がFであったからであるとすれば、波行子音は、語中及び語尾に於ては、奈良朝時代に既にF音であったと考へなければならない。それが奈良朝から平安朝に入るに随って、段々w音に変化し、平安朝の半頃には、すべて和行音と区別がないやうになったものと思はれる。現に今日まで天台宗に伝はって誦へられてゐる古代の仏教讃歌の一なる法華讃歎?

法華経を我が得し事は薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ得し

とある「事は」の「は」を明にFaと誦へる事となってゐるが、この歌は、平安朝の中頃(永観年中、西紀九八三年頃)に源為憲の作った三宝絵詞の中に、光明皇后作或は行基菩薩作として載せられ、その用語及び形式からしても奈良朝のものとも見得るものであり、又上のやうな「は」は、天台の声明でも他の場合にはワと誦へるのに、この歌ばかりにFaと発音するのは、よほど古い時代の発音を伝へたものと考へられるのであって、奈良朝の発音でないまでも、平安朝初期の発音をそのまま伝へてゐるのであらうかと思はれる。果してさうであるとするならば、これも語中語尾の波行子音平安朝初期又はそれ以前に於てF音であった事を証するものと観る事が出来よう。


 次に語の最初に於ける波行音はどうかといふに、既に安藤氏も指摘して居られるやうに、この場合にも波行音が和行音に転じたと見られる例がある。「はつか」と「わづか」(共に僅の意味)、「はしる」と「わしる」(走の義)などがそれである。「はつか」「わづか」は共に平安朝以後のものに見えてゐる語であり、「はしる」は奈良朝以前からあるが、「わしる」は平安朝以後にはじめて見える語である。しかし、古事記及び日本書紀木梨軽皇子の御歌の「あしびきのやまだをつくり、やまたかみしたびをわしせ」の「わしせ」を「走らせ」の義に解してゐるによれば、「わしる」も奈良朝以前からある事となるのである。この「はつか」及び「はしる」が単なる音転化によって「わづか」及び「わしる」となったものであるならば、これ等の「は」が平安朝初期又は奈良朝(或はそれ以前)に於てFaと発音せられたと考へる事が出来るのであるが、かやうな例は、語中及び語尾の波行音がことごとく和行音と同音となったのとはちがって、唯二三の例しか見出されないのであるから、果して単純な音変化によるものか、類推其他心理的要素の加はって出来たものか、又は全く語源を異にした類義語で偶然語形が類似してゐるだけのものか、たしかでない。それ故、語頭に於ける波行子音の発音を推定する根拠としては、まだ不十分であるといはなければならない。


 それでは、語頭の波行音の発音を知るべき資料は他に無いかといふに、必ずしもさうでない。まづ近古から溯って行くに、室町時代の標準的発音に於て語頭の波行子音がFであった事は耶蘇会士?が日本で出版した教義書語学書等に於ける日本語羅馬字綴、支那人の作った日本語学書や日本関係書中の日本語の写しやう、新村博士?が見出された後奈良院御撰の何曽?などによって明である。南北朝?頃のものでは、元末明初(日本の南北朝?頃)の人である陶宗儀が著した書史会要巻八に、日本の伊呂波をあげて、漢字で、その発音を註したものがある。宗儀?が親しく日本僧克全(字は大用?)に会って聞いたもので、その当時の発音を写したものとおもはれるが、その中波行仮名に関するものは次の通りである。

は 法(平声)近排

ほ 波(又近)婆

へ 別(平声又近)奚

ふ 蒲(又近)夫

ひ 非

 当時の支那語の発音は明でないけれども、現代の発音から推せば、大体、法はfa、排はp'ai、波はpo、婆はp'o、別はpieh、奚はhi、蒲はp'u、夫はfu、非はfeiらしく、波行子音を、或はf或はp或はp'(ph)或はhで写してゐるのであって、その間に統一が無いやうであるが、一々の仮名についてみれば、一つの仮名を、同じ子音ではじまる二つの漢字で写したものは無く、いつもfとp'、又はp'とp、又はpとhのやうに、ちがった子音を有する漢字で写して居るのである。これは、多分、日本の波行子音が両唇音のFであって、歯唇音である支那のf音とも正しくは一致せず、両唇音のpやp'とは、違ひはあるが、また却って性質の似た点もあるので、いろいろ違った漢字の音を併せ挙げて日本のFの発音をあらはさうと企てたのであらう。又ホヘの如きは、漢字では之に近い発音のものが見当らない為、やむを得ずpo又はp'o、pieh又はhiのやうな、やゝ遠い音を有する漢字を之に宛てたので、やはり波行子音はFであったらうと思はれる。


 次に鎌倉時代に溯ると、宋の羅大経?が日本僧安覚から聞いた日本語を、其の著鶴林玉露の中に挙げてゐるが、そのうち、語頭の波行音はフデ(筆)を「分直」と書いたものしか見えないが、この「分」もfではじまる語である。安覚は良祐?と称し、栄西禅師の俗弟で、在宋十余年、建保二年(西紀一二一四年)帰朝した。平安朝末期から鎌倉初期に世に在った人である(寛喜三年寂、寿七十三)。


 かやうに、支那に存する資料からして、語頭の波行子音が鎌倉初期から南北朝にかけてF音であった事が推定せられるが、更に溯って平安朝に入れば、我が国にも有力な資料が見出される。その一つは、平安朝末の悉曇学者、東禅院心蓮?(治承五年寂)の口伝を記した悉曇口伝である。この書は大矢透博士が醍醐三宝院?から見出されて、古い五十音図を知るべき資料の一つとして、音図及手習詞歌考の中に、梵字口伝?の名で引用して居られる。原本は鎌倉時代の中期建長元年に、醍醐寺の僧深賢?の書写したものである。(その書名は悉曇口伝であって、悉曇の二字を梵字で書いたのが、虫損の為大部分失はれて、字形が明でない為に、大矢博士は之を梵字口伝?と名づけられたのである)この書の初に母音及び五十音の各行について、その発音法を説明してゐるが、単に従来の説を襲踏したものでなく、発音器官の運動を実際に観察した結果と見えて、今日の音声学の知識から観てもほゞ正鵠を得たと思はれるものが多いのであって、たとへば加行音を

以舌根付〓[月咢]、呼〓(a)而終開之、則成〓(Ka)音、呼〓(i)〓(u)〓(e)

〓(o)則キクケコヲ成也と説き、サ行音を

以舌左右端付上腭、開中呼〓(a)、而終開之、則成サ音、自余如上

と説いてゐる如き、よくそれぞれの音の調音部位と発音法とを明にして居る。さうして波行音の発音について、この書の説く所は次の如くである。

以唇内分上下合之呼〓(a)、而終開之、則成ハ音、自余如上

 これによれば、波行子音は疑もなく両唇音である。しかも上下之を合すといふのであるから、p音であるかのやうに思はれる。もし完全に唇の間を密閉するならば、必p音でなければならない。しかしながら、この書に麻行音の発音について、

以唇外分、上下合之呼〓(a)、而終開之、則成マ(ノ)音、自余如上

と説いて居るを見れば、波行子音と麻行子音との差異は、唇の内方を合せるのと、その外方を合せるのとだけに存するのである。然るに、波行子音をp音であるとすれば、その上下の唇を合せる場所は、m音の場合とさほど差異があるとは考へられない。されば、波行子音は、やはり両唇音のFであったのであらうとおもはれる。F音の場合は、mよりも、もっと内側(後方)で唇を合はせるのが常であるからである。勿論、Fの場合は、mの如く上下の唇を全部密着せしめる事なく、中央にすこしの間隙を剰すけれども、やはり上下の唇を合せるのであるから、「上下合之」と云っても決して事実に背かない。ただ説明が精密でないだけである。


 かやうに考へれば、平安朝末に於ける語頭の波行子音はF音であったのであって、かの鶴林玉露によって推定した、平安朝末鎌倉初期の発音とも一致して、少しも不自然な感がないばかりでなく、また、もっと古い時代の資料の示す所に照しても矛盾する所がないのである。その資料といふのは、慈覚大師在唐記に存する梵字の発音の説明である。


 この在唐記は、慈覚大師(名は円仁平安朝初期の人で、天台宗延暦寺の座主となり、貞観六年、西紀八八二年、七十一歳で寂した)が入唐中(承和五年から同十四年まで、西紀八三八年から八四七年)諸師に就いて学び得た教法の事を集録したものであるが、中に宝月三蔵?から学んだ梵字の発音を記録したものがあって、これによって、梵語と当時の支那及び日本の発音とを対照出来るものがあるのである。そのうち、今の問題に関係のあるのは下の文である。

〓(pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音

〓(pha) 波、断気呼之

 かやうに、梵字のpa及びpha共に本郷即ち日本の波の字の音に呼ぶと説いてゐるのであるから*5、波を当時日本でpaと発音して居たかのやうに思はれるが、しかし、こゝに注意すべきは、その下にある「皆唇音を加ふ」といふ一句であって、特にかやうな注意を加へなければならないのは、日本の波字の音がpaでなくFaであった為であって、軽い両唇音Fを重くしてp音に発音させる為に、この一句を加へる必要があったものと考へられる。この推定をたしかめるのは、こゝに引用した文にすぐ続く次の文である。

〓(ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然

〓(bha) 婆、断気呼之

 ba、bha共に日本の婆の字の音に呼ぶといふのであるが、この婆は何と発音したかといふに、梵字vaの条に

〓(Va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是軽

とあって、vaの場合の婆はbaの場合の婆に比して軽いといふのであるから、婆の日本の発音は、後世と同じくbaであったと見るべきである。さうしてpaの場合には、波と呼ぶと云ひながら、特に「唇音を加ふ」と註し、baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで、何等の註をも加へてゐないのを以て見れば、日本の婆は正しく梵字baの音に相当するが、波は梵字paの音とは幾分の相違があるのであって、婆がbaであるに対して、波はFaであったと認められる。かやうにして、語頭の波行子音は、平安朝初期に於てもやはりFであったと推定せられるのである。


 以上述べた所によって、語頭に於ける波行子音をFと発音した時代は、平安朝初期まで溯る事が出来たと信ずる。更に一歩を進めて奈良朝に於ける波行子音の発音はどうであったかといふに、之を断定すべき資料は、殆ど全く見出されない。当時の万葉仮名について見ても、波行音に宛てた漢字の支那音は、重唇音(p系統の音)と軽唇音(f系統の音)とが混同して居って、F音を写したものか、p音を写したものか全く不明である。しかしながら、平安朝初期に於て既に語頭の波行子音がFであり、且つ上に述べた如く語中語尾に於ては奈良朝に於てもFと発音せられた形跡があるとすれば、奈良朝に於ては波行子音は語頭でも語中語尾でもF音であったのではあるまいかと思はれる。少くともpからFへの変遷は、遅くとも奈良朝に於ては既に始まって居たと云ふことは出来るであらう。


 奈良朝よりもっと古い時代になると、国語の音を漢字で写した実例は極めて少くなるが、推古時代の金石文などにも、波行音に宛てた漢字は、支那に於て重唇音(p)に発音するものと軽唇音(F)に発音するものとが混じ用ゐられてゐるのであって、これらは、共にF音を写したものとも、又共にp音を写したものとも考へられる。もっとも、支那の軽唇音重唇音から出たもので*6軽唇音の出来たのは隋代又は初唐であって、それまではすべて重唇音ばかりであったとの論もあり*7、又日本に漢字音を伝へた朝鮮人は、p音ばかりで、f又はF音を用ゐないのであるから、推古時代の波行音を写した文字も、その原音は皆pであったかとおもはれるが、日本の漢字音は、その伝来古く、十分日本化したものであったらうから、これによって日本の波行子音はFでなくpであったといふ事は出来ない。魏志倭人伝以来初唐までの支那の史籍に、日本の波行音を「卑」「巴」「比」などp音ではじまる文字で写したものも、波行子音の発音を決定する拠とするには不十分である。支那古代に軽唇音がなかったとすれば、日本の波行子音がFであっても、之をpで写したであららからである。


 其他、日本語と朝鮮語とに於て意義及び外形の相類似した諸語に於て、日本語波行子音が朝鮮語に於てはp音に当る事、アイヌ語に入った日本語に於て、波行子音がp音になってゐる事なども、朝鮮語はp音のみあってF音なく、アイヌ語はF音もあるが常にuの前にのみ用ゐられて、用法が甚だ限られてゐるのであるから、此等の事実も、唯古代日本語波行音唇音であった事を示すだけであって、p音であったかF音であったかを決定する根拠とする事は出来ないのである。又支那語の入声のp(語尾音p)を波行音に宛てた例を以て、波行子音がpであった事を証明しようとするものがある。いかにも、志摩の郡名タフシを「答志」と書き、近江の地名カフカを「甲賀」と書き、佐渡のサハタに「雑太」を宛て、大隅のアヒラに「姶羅」を宛てたなど、皆字音のtap、kap、sap、asを、タフ、カフ、サハ、アヒに宛てたものであるけれども、此等の漢字をかやうに用ゐた時代に、入声のpを果して原音通りpと発音して居たかは疑問であって、恐らく当時の漢字音は、よほど日本化したものであったらうからして、入声音のpもその次に母音を加へて普通の波行音と同じく発音したであらう事は、平安朝に於ける梵字の発音を観ても推測せられるのであるから、これも波行子音がp音であった証とするには足らないのである。


 かやうに考へて来ると、波行子音が最初にp音であった確実な証拠と見るべきものは、あまり多くない。その一つは、日本語と同系統の言語として疑なく、日本の方言とも見られる琉球諸島の言語に於て、殊に交通の不便な辺鄙の地に依て、今猶波行音にpを用ゐてゐる事であり、一つは、「ひとびと」「いしばし」の如く所謂連濁の場合に於て、波行子音が、b音になる事である。猶、ヤハリがヤッパリとなり、アハレがアッパレとなる如く、波行子音がpになる事があるのも、また波行音がpであった時代の発音の名残と見るべきであらう。


 これ等の事は、従来屡説かれてゐるのであって、今更説明を加へるまでもないが、只一二注意すべき点のみを挙ぐれば、琉球に於て、波行子音を一般にpに発音する地方でも、之をpに発音するのは、語頭にある場合だけであって、語中語尾の波行音は、今日の日本語と同じやうに、和行音と混同し、地方によっては、更にその前の母音と合体して一の長母音となってゐる処もあるのである(例へば、アヒはe-,アフはo-)。しかしながら、語頭のp音が古音を残して居るものであるべき事は、琉球の諸方言の比較からも、日本語に於ける波行子音の歴史からも推測せられる。


 次に、波行音が連濁によってバ行音となるが、バ行子音はbであるから、之に対する清音としては、hでもFでもなく、p音であるべきであるといふのは、甚有力な論証であるが、ここに観過する事が出来ないのは、バ行子音は古代に於てもやはりb音であったかどうかといふ問題である。もし知り得る限りの古い時代に於て、バ行子音がb音でなかったとすれば、この論証は根柢から覆らなければならない。しかるに、古代のバ行子音の発音は、さほど容易に知る事は出来ないのである。奈良朝及それ以前の万葉仮名では、重唇音(p,b)及び軽唇音(f,v)を語頭に有する漢字でバ行音を写して居るのであって、当時のバ行子音は果してbであったか、又はv(もし日本にあったとすれば、両唇音の〓であらう)であったかを定める事が出来ない。しかしながら、バ行子音室町時代に於てbであった事は、耶蘇会士刊行書に之をbで写して居る事、当時支那人の書いた日本語に、波行清音子音は或はf、h或はp,p'で写してゐるに拘はらず、波行濁音子音は殆んどいつもp,b又はp'を語頭に有する文字で写して、f,hを有する文字を用ゐない事によって明かであり、又、鶴林玉露(前出)にも「御坊」を「黄榜」と写して居るのを観れば(榜は音pang)、平安朝末鎌倉初期でもやはりb音であったと考へられ(猶、この時代に「まもる」を「まぼる」といふやうに、語中語尾の麻行音でバ行音に変じたものが少くない事も参照すべきである)、前に述べた如く慈覚大師の、在唐記に梵字のbaに婆をあて、vaには婆をあてながらその婆は軽く発音すべき事を注意してゐるのも、亦平安朝初期に於てバ行子音がbであった事を証するものと見る事が出来よう。さすれば奈良朝に於てもやはりb音であったらしく考へられるのであって、もし奈良朝に於て、v音又は之に類する音であったとすれば、平安朝以後に於てb音になったのは、之を発音する時、唇を合せる度が強くなったわけであるが、一方奈良朝から平安朝にかけて語中語尾の波行音が和行音と同音になったのであって、これは波行子音fがwに変じたので、前の場合とは正反対に、唇を合せる度合が少くなり、唇の運動が弱くなったのである。かやうな性質の全く相反した音変化が、同じ時代又は近い時代に行はれたとは信ずる事が出来ないし、国語音声史の上から観ても、我国の音変化は、Fからhへ、kwからkへ(kwa,kwi,kweがka,ki,keとなる)。wi we woからi e oへと、唇の運動を軽くし又は無くする方へ進んでゐるのであるから、古いv音が平安朝以後b音に変じたのではなく、バ行子音は古くからbであったらうと考へられる。さすれば、之に対する清音はpであるべきであって、随って波行子音は最初はp音であったと認められる。さうして、このpに対する濁音としてbがあったが、p音が変化した後も、b音はそのまま伝はり、波行音に対する濁音として今日に及んでゐるものと見るべきである。又波行子音がpであった時代に、之を強めていふ場合、たとへば、アハレ即ちapareがappareとなったが、波行子音がpでなくなった後も、かやうな場合にのみ、孤立して、もとのp音が伝はったものと見られるのである。


 かやうにして、波行子音が元来p音であった事は略疑無い事とおもはれるが、之を一般にpと発音してゐたのは何時頃であったかといふ問題になると、まだ全く不明である。このpが、語頭の波行音ではFに変じ、後更にhに変じ、語中語尾の波行音ではFに変じて更にwに変じたのであるが、そのpからFへ変じた時代も明瞭でない。しかしながら、平安朝初期に於ては、語頭の波行音では既にFとなって居り、語中語尾ではFから更にwに転じて、平安朝の半以前に全く和行子音と混同し、之と同じ音変化を受けたのであって、当時語頭では専らFのみ用ゐられたらしく、語中語尾ではF音から更に転化の歩を進めて居たのであり、奈良朝に於ては、語頭の場合はわからないが、語中語尾に於ては既にF音になって、w音と混同する傾向さへ生じて居たらしく、語頭に於ても既にF音はあらはれて居たであらうと考へられるから、pからFへの転訛は、遅くも奈良朝の終頃までには大体完了したのであるまいかとおもはれる。しかし、これは、pからFへの転換期をなるべく遅く見た場合であって、実際に於ては、この変化は奈良朝よりも前に既に終って、奈良朝には、語頭にも語中語尾にもすべてFのみ用ゐられて居たかも知れない。さうして、このF音は、語中語尾の波行音では、和行音と混同して、平安朝の半頃には大体今日の標準語と同じやうな有様になったが、語頭に於ては室町時代までもそのまま残って居たのであって、それがh音に変ったのは主として江戸時代に入ってからであらうと思はれる。


 要するに、波行子音にp音が専ら用ゐられた時代については、まだ全く確める事が出来ず、p音がF音に遷り行った時代については、奈良朝又はそれ以前であらうといふだけで、十分確実な年代をきめる事は出来ないが、唯、F音の用ゐられた時代、殊にどの時代まで溯ってF音の存在を証明出来るかといふ問題については、これまで挙げられて居ない資料に基づく考察によって、或程度まで之を明め得たと信ずる。


  追記

 此の稿に引用した慈覚大師在唐記は、典拠とすべき古本が伝はって居るかどうか明かでないが、梵字の発音に関する部分だけは、かなり古い時代の写が今に残ってゐる。その中最も古いのは、石山寺の座主淳祐?(菅原道真の孫、天暦七年、即西紀九五三年寂、齢六十四)の手書した悉曇字母?と題する巻子本(石山寺蔵)の中にあるもので、その終に「円仁記」と明記してある。東寺?観智院には鎌倉時代の写本を蔵してゐるが、表紙在唐記と題してある。又院政時代の悉曇学者明覚の悉曇印信?(四家悉曇記?)には慈覚大師在唐記として引用してゐる。この書が慈覚大師の著である事は信じてよいと思ふ。

*1:J. Hoffmann?; A Japanese Grammer. Leiden, 1868. Introduction p. 15-.

*2波行軽唇音沿革考(雑誌国語国文の研究、昭和三年一月号

*3国語のため第二(明治三十六年刊)p音考*

*4古代国語の研究(大正十三年刊)162頁以下

*5:断気といふのはaspirated(有気、帯気)の意味である。

*6銭大昕十駕斎養新録巻五、古無軽唇音の条

*7満田新造博士、支那音韻断 四頁

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