国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2005-02-22

[][]佐藤誠実五十音考18:26 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 佐藤誠実「五十音考」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

第二十二 五十音考 文学博士 佐藤誠実

 五十音は、吉備真備公の作れるなりとぞ、そは僧明魏倭片仮字反切義解に、到天平勝宝年中、右丞相吉備真備公、取所通用仮字真仮名なり】四十五字省偏傍点画、作片仮字、抑四十字、音響反阿伊宇江乎五字、此乃天地自然之倭語焉、是故竪列五字、横列十字、加入同音五字為五十字、然後弘仁天長年中、釈空海造四十七伊呂波、以便于女童、其体則草書とありて、吉備公が片仮字を作り、片仮字にて、五十音を列ねたりと云へり、さて其書の五十音の列ねやうは左の如し、

  アイウエヲ  ワイウエオ

  ヤイユヱヨ  ナニヌネノ

  タチツテト  ラリルレロ

  ハヒフヘホ  マミムメモ

  カキクケコ  サシスセソ

明魏は応永比の人にして、旧と藤原長親と云へり、仙源抄の跋を書きて、日本語に、平上去の三声あることを云へり、契沖和字正濫要略明魏法師と云ふ人は仮名文字遣ひを破りて、いゐをおえゑの類、みな、一つに書くべしと申されけるよし、或物に云へりとあるは、林羅山の鉄鎚?に依りたるのみにて、鉄槌?は、此仙源鈔の跋を見誤りたるならんか、

管弦音義【文治元年の作なり】に依りて、図を作れば、左の如し、

  阿宇伊乎衣  訶倶幾古計

  和宇焉於恵  娑須志曾世

  耶由以輿衣  婆不比保遍

  摩無美母免  羅留利呂禮

  多都知土天  奈奴仁能禰

 管弦音義には、阿行をば、初め一処には於と書き、次の二処には、乎と書きたり、今は多き方に就て、乎と書けり、

二中歴反音五音の図

  アイウエオ  カキクケコ

  サシスセソ  タチツテト

  ラリルレロ  ナニヌネノ

  ヤイユヱヨ  ワイウエオ

  ハヒフヘホ  マミムメモ

 天文本倭名類聚鈔字切の図

  羅利留禮呂  摩彌牟咩毛

  阿伊烏衣於  可枳久計古

  左之須世楚  多知津天都

  那爾奴禰乃  波比不倍保

  和焉有恵遠  夜以由江輿


韻鏡開奩【寛永四年宥朔作】直音拗音

アイウエヲ カキクケコ

サシスセソ タチツテト

ナニヌ子ノ ハヒフヘホ

マミムメモ ヤヰユエヨ

ラリルレロ ワイウエオ

 韻鏡開奩には「アイウエヲ」の「ヱ」を又は「エ」に作り「ワイウエオ」を又は「ワヒフヘオ」に作れり、


寛永十八年開版の韻鏡五音五位之次第は、大方韻鏡開奩に同じ、但し「アイウエヲ」「ヤイユヱヨ」に作る、

右の如く、五十音図は、種々さまざまなれども、今の世に行わるる図は、悉曇の順序に称いたれば、此図ぞ正しかるベき、されども「アイウヱヲ」の「オ」と「ワヰウヱヲ」の「ヲ」と、互に紛れたるを、本居宣長先生が、深く考へて正されしは、いとも大なる功なりけり、契沖和字正濫鈔文雄和字大観鈔は、誤れる図に依りたれば、其説大に窮せり、其初めは、必ず本居先生の説の如くなりしならん、後の物ながら、ト部懐賢?後嵯峨天皇比の人】の釈日本紀に、阿伊宇江於之五音相通?而称之と云い、天文本倭名類聚鈔も、上に引ける如く、阿行を於と書き、和行を遠と書きたり、いかにも、本居先生の説は動くまじき名説なり、

倭片仮字反切義解に、此五十音吉備公の列ねたりと云へるは、如何にぞや、余は空海悉曇を支那より伝えて後に、誰にかあらん、悉曇の順序に依りて、列ねたるかと思はるるなり、そは如何にてと云はんに、我邦に五十箇の音の備はりしことは、「エ」得と云ふ言ありて「ウ」と活用すれは、阿行の「エ」「ウ」なることを知るべく、「コエ」【肥越】と云ふ言ありて、「コユ」と活用すれば、也行の「エ」と阿行の「エ」と分ちありしことも知るべく、「クイ」悔と云ふ言ありて「クユ」と活用すれば、此「イ」は也行なるを知るべく、「ウヽ」と云いて「ウヱ」と活用すれば、此「ウ」は和行なることを知るべきなり、爾るに、古事記日本紀万葉集などにも「イヰエヱオヲ」の別は、いと厳なれど「イ」「エ」の中に、阿行、也行を分くることなく、「ウ」の中に、阿行、和行を分くることなし、是れ其時代は、我邦の人は、皆阿行にのみ唱えて、五十音の中四十七音ならではなかりしなり、されば、我邦の音のみに縋りては、かく五十音を列ぬることは叶はぬことなれば、必ず依る所ありしならん、さて何にか依りしと云はんに、支那の音韻などは、此次第とは、痛く異なれば、悉曇に依れりとすべし、此図も、上に引けるが如く、いささかづつの違いはあれど、大体は、みな悉曇と同じ、この故に吉備公の作とするは疑はし、又、世に円仁在唐記と云ふものありて、悉曇を載せて、多く真仮字にて、其音を注せり、此書、果して当時の物ならば、五十音図を作りし時には参考になりしこと多かりしならん、

倭片仮字反切義解に、吉備公五十音を列ぬる時に、原来、四十五音にして、「イ」は阿行、也行に亘りて、一音なるを、新に二音を加えて、三音とし、「ウ」「エ」「ヲ」は阿和の二行に亘りて、各、一音づゝなるを、新に二音づゝ加えて、いずれも二音とし、字は旧の音に依りて、四十五の片仮字を作りしが、空海に至り、伊呂波を作りて、四十七字としたりと云ふ趣に記せり、是れ亦疑はし、明魏吉備公の時の音は、今の如くなりと思ひたらんにもせよ、其時は、今日と同じく、四十四音にして、「エ」「ヱ」の別のなかりしことは、明魏より二百年許前なる、藤原信実?後鳥羽天皇比の人】が、絵師双紙【当時の書の臨写本に依る】などを見ても知らるゝことにて、四十五音はなかりしなり、又、吉備公の時には、四十七音ありしことは、万葉集などを見て知るべし、されば何人にもあれ従来の四十七音の上に三音を加えて、五十音を作れりと定むべし、

因に云ふ、吉備公が片仮字を作れりと云ふことは、古くは見えず、倭片仮字反切義解の外には、ト部兼倶?が日本紀神代鈔?にも見えて、片仮名は吉備大臣の作たりとありて、新井白石同文通考には、之に依れり、其説の非なることは、已に辨へたるが如し、又、片仮字を、大和仮名と云ふことは貝原好古が、大和事始?元禄十年の作】に片仮名、吉備、之を作れり、又、之を大和仮名と云ものは、吉備公の作にして、大和国に起るを以てなりとあり、又、谷川士清日本書紀通證【宝暦二年の作】も孝謙帝御宇、下道真備作旁仮字、曰大和仮字、桓武帝御宇、護命空海作母仮字、曰出雲国仮字とあり、是等の説は、殊に非なるべし

契沖和字正濫鈔元禄六年の作】には、片仮名は、吉備公の作など云へど、させる証なし、若し常の伊呂波と共に、弘法大師の作り給へり歟と云へれど、是も亦させる証なし、又、五十音吉備公の作なりと云ふは、倭片仮字反切義解の外には、殊に古くは見えず、日本書紀通證に、世伝五音相通図?振之之音、而吉備公為五字十行、書以旁仮字と云へるは、倭片仮字反切義解に依りて誤れるならん、思ふに、斯る説は、伊呂波仮字を、共に空海の作なりと云へるからに、五十音、片仮字を真備?の作なりと云ひて、一対のやうにしたるならん、なほ、倭片仮字反切義解に就ては、他日、別に論ずることあるべし、又世に明了房信範記【文永九年の著】と云ふ者あり、五十音の次第、今と全く同じくして、爾も阿行の「エ」を廴と書き、也行の「イ」を〓と書き、和行の「ウ」を于と書きて、「エ」「イ」「ウ」を分てり、是は近世の偽書なる由にて、取るに足らず、況して、斯く分たんには「ウ」は宇の字の省文なれば、和行の「ウ」を原のままにして、阿行の「ウ」を改むべきを、心附かざりしにや、或は之を助けて、「ウ」は宥の省文なりなども云へど、宥を仮字真仮名】に用ひたる例なければ、此説は信じ難し、(我が語学指南にも、姑く明了房の記に据りて記しゝかど、今思へば、快くもあらず、)

  因に云ふ、和字正濫鈔に、信範と云ふ僧、涅槃経文字品?に善男子有十四音名為字義とあるを、「アイウエヲカサタナハマヤラワ」の十四音なりと云ひし由記せり、韻鑑、古来傳来の旧記に、文永之間、有明了房信範、能達悉曇掛錫於南京極楽院閲此書、而即加和点、自是韻鑑流行本邦也とあり、信範記は、是等の説に裾りて、偽造せる者なるべし、

五十音の古く見えたるは、我が是まで見し書の中にては、承暦三年に写せる、金光明最勝王経音義に、五十音濁音を挙げて、婆毘父(夫)倍菩駄(堕)地(時)頭(徒)弟【中欠】我(向)義(疑)具(求)下(夏)吾(五) 坐自(事)受是増とあれど、偽書なるべし。其次には、藤原基俊【保延四年削髪】の悦目鈔に、「ラリルレロ」の五文字も大切なりとて、ら文字を歌の首尾に居ゑ、「リルレロ」も同じやうにして、五音の歌あり、又藤原清輔【知承元年卒】の奥義鈔に、「キ」も「ク」も、五音の宇なれば、同じ事なりと云ひ、其弟の僧顕昭の袖中鈔に、「マ」と「メ」とは同じ五音なる故なりとも、「カケコクキ」の五音【此列ねかた亦異なり】叶へる故にとも云へり、其次は、上に引ける管弦音義の類にて、塵添壒嚢鈔にも「タチツテト」「ラリルレロ」など云へり。

五十音の初めは、国語の為にしたる者なるべし、されども、盛に音韻の翻切に用ひしことは、倭片仮字反切義解とある題号にても、又、其書の中に、父字子字など云へるにても、二中歴に、反音五音と云へるにても、天文本倭名類聚鈔に、字切とありて其注に、切与反同、同音取下字、又一行之中、取下切字為正字、軽重清濁依上字、平上去入依下字とあるにても知るべし。そは兎もあれ、角もあれ、五十音と云ふものは、我邦の言語の為には、至極都合の宜しきものなり。

  〔『国文論纂』(國學院、明治三十六年)所収〕

明治二十五年 『大八洲雑誌』『大日本教育会雑誌』に初出、いま『国文論纂』明治三十六年、三四九~ 三五八頁による。また『日本語の起源と歴史を探る』新人物往来社一九九四に再録


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