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2004-10-14

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http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=gengo1939&cdvol=1950&noissue=16&startpage=1

言語研究 16 1950/8 (『国語音韻史の研究 増補新版』三省堂1957.10に再録)



 元末明初の人陶宗儀の著である書史會要(洪武九年自序)の巻之八外域篇は、天竺・畏吾兒?・回回?日本等の文字を記載した興味ある文献である。先年複印上梓された洪武原刊本に據り、その日本國の部を引用すれば、左の通りである。

(中略)

 著者陶宗儀は、本籍地は天台の黄巌(浙江省)であるが、致仕して後は多くは松江(江蘇省)の遇に居た。その日常話す所の言語は、いづれ呉方言の一種であつたに相違無い。今、書史會要の「いろは」の音註に用ゐられた漢字の音を、現代の温州・寧波・上海方言について示せば左の通りである(なほ、参考のため北京音をも附記した。

略符は温州W、寧波N、上海S、北京P)。

以下略

 書史會要の「いろは」に於て、懐を「わ」に、和を「お」に、奚を「え」に充て、宜を「に」に充て(以上頭音の問題)、又排を「は」に、懐を「わ」に、楷を「か」に、乃を「な」に、阿頼を「ら」に、埋を「ま」に、挨を「あ」に、飾.柴を「さ」に充て(以上中心母音の問題)たやうな点には、呉方言の特色がよく現れてゐる。この音註は呉方言によらなくては到底説明がつかない。北京官話などの知識だけで解明しようとすることは全く不可である。

 さて右の音註の中で、「か、楷」「や、爺」「あ、挨」の下には、各「作喉音呼」と註してある。これについては、私に考はあるけれども、未だ臆測の域を脱しないから、此處には述べることが出來ない。

 次に、「ね、尼」「て、悌」の下には、各「縮舌呼」と註してある。その意味は如何と言ふに、この「いろは」の音註の文字の中で止摂に属するものは、以移(い)宜(に)梨(り)伊(ゐ)欺其(き)皮眉(み)戸時(し)非(ひ)の如く一般に皆イ列の仮名に充てられてゐるのであるが、唯一字、尼だけがエ列の「ね」に充てられ、特に「縮舌呼」と註せられてゐる。恐らく、宗儀?の尼の音がniに近いものであつたのに対し、克全の「ね」はneであつたため、eがiと性質を異にする点に注意したものであらう。「舌を縮めて呼ぶ」とは、多分、iの場合程舌を前上の方に伸しきらず、中途で止めておく、といふ程の意味ではなからうか。

 蟹摂四等の齊韻は、中古音iei(註五)から出でて、現代の温州・黄巖・寧波・上海等の諸方言のi韻に移つて行つたものである。これらの方言では、現今歯音開口(止摂1齊韻i)の場合を除く外、止摂諸韻と齊韻との区別が無くなつてゐる。併し、唐の中葉に山陰(浙江省)の沙門智廣が書いた悉曇字記では、梵音aiを「長 字、近於界反」と註したのに封して梵音eを「短 字、去聲、聲近櫻係反」と註して居り、又梵音rkeを「醫力 」と註してゐる。而して、一方では、梵音kiに「紀以」を充て、梵音kiに「紀夷」を充ててゐる。これに據れば、當時の呉方言では、止摂諸韻のiに封して、齊韻はiei又はieの如き形を有し、互に区別されてゐたことが分るのである。

現代呉方言の中でも、浙江省の金華白話音や永康音では、開口の場合、止韻i齊韻ieのように、その区別がなほ保存されてゐる。(註六)さて、第十四世紀の頃、陶宗儀方言では齊韻はどんな形であつたかといふと、舌音の場合には多分既にiになつてゐたのであらうと思はれる。何故なら、啼及び低を「ち」に充てた場合には何の但し書きをも附け加へてゐないのに、悌を「て」に充てた場合には特に「縮舌呼」と註してゐるからである。それはあたかも、止摂に於て、宜を「に」に充てた場合には何とも断つてゐないのに、尼を「ね」に充てた場合には特に「縮舌呼」と註してゐるのと、全く同じことである。故に齊韻(開ロ)は、舌音の場合には、陶宗儀言語では既に止摂諸韻と同じくi類の韻になつてゐたことと思はれるのである。併しながら、喉音の場合には少し状態が違つてゐる。即ち、「い」に以・移が充てられ、「ゐ」に伊が充てられてゐるのに封し、「へ」「え」には奚が充てられ、「ゑ」には が充てられてゐる。つまり、止摂の字はイ列の仮名に、蟹摂(齊韻)の字はエ列の仮名に、といふ風に、ちやんと使ひ分けられてゐるのである。書史會要巻之七の巴思八文字の註でも、(i)に伊を充てたのに封し、(e)には翳を充てて、伊(止摂)と翳(蟹摂)とを互に区別して用ゐてゐる。又、同書巻之八の回回字の註では、(he)に ( の俗字、蟹摂)を充ててゐる。それ故、陶宗儀言語では、齊韻(開ロ)は未だe類の母音要素を保存して居り、その点で止摂諸韻(i)とは区別されてゐたものと思はれる。さればこそ奚を「へ」「え」に充て、 を「ゑ」に充てた場合には、悌を「て」に充てた場合とは違つて、何ら「縮舌呼」の註を必要としなかつたのである。

「ら、阿頼、頼作平聲弾舌」単に「頼」と註せずして特に「阿頼」と註したのは、克全のラの頭音が、支那語の頼の頭音(l)とは異なり、一種のrであつたため、聴き慣れない耳にはそのon-glideが特に異様に耳についた結果であらうと思はれる。次に、弾舌といふ術語は、無論悉曇家から出たものであるが、この語の用法については、悉曇家の中にも種種異説がある。悉曇藏に引かれた諸説の中では、全眞の悉曇次第の用法が最もこの陶宗儀の意に近い。畢竟、齦に向つて舌尖を弾いて振動させる意味である。然らば、克全ラ行子音は本格の振動音(rolled)であつたか、それとも現代の東京の音の如き単振音(註七)(唯一回だけ齦を打つもの)であつたかといふに、どちらかと言へば、寧ろ単振音の方の可能性が多くはないかと思はれる。何故なら、現代諸方言の中で本格の振動音を正規的に持つものを余り聞かないのみならず、書史會要の「いろは」に於ても、「阿頼、頼作平聲弾舌」のやうな念入りな詮明を加へてあるのは、たゞラの場合だけであり、リ、ル、レ、ロの如きは単純に「梨」「盧」「 」「羅」と註せられてゐるのみだからである。単振音なるが故に、支那語のlとの差異が、或場合には余り顯著に感ぜられなかつたものと想像されるのである。

 書史會要の「いろは」の音註を解糧する上で最も困難な、併し重要な問題は、「い、以又近移」「は、法平聲又近排」などとある、その「又近」の意味である。ごく普通に考へるならば、克全の「は」の發音は、法の平聲のやうにも聞えるが、又排に近くも聞える。つまり法の平聲と排との中間音であつた、といふ風に解したくなるけれども、此處に現れた「又近」の例を廣く見渡す時は、どうもそれでは解しかねる場合が多い。