国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2004-05-05

ハイカラの語の始め(石井研堂明治事物起原・人事部) ハイカラの語の始め(石井研堂・明治事物起原・人事部) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - ハイカラの語の始め(石井研堂・明治事物起原・人事部) - 国語史資料の連関 ハイカラの語の始め(石井研堂・明治事物起原・人事部) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 明治三十一、二年の頃、毎日新聞の記者石川半山、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎のごとき、洋行帰りの人々を冷評することたびたびなりし。泰西流行の襟の特に高きを用ひて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障の限りなりければなり。

 しかるに、三十八年八月、築地のメトロポールホテルにおいて、竹越与三郎の洋行の送別会を開きたるとき、来客代はる代はる起ちて演説を試みたりしが、そのさいに、小松緑起ちて、ハイカラーといふについて一場演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味に用ゆれども、決して左にはあらず、ハイカラーは文明的にして、その人物の清き高きを顕はすものなり。現に、平生はハイカラーを攻撃する石川氏のごときも、今夕は非常のハイカラーを着けをるにあらずや云々と滑稽演説を試みて、満場の哄笑を博したり。その記事、各新聞紙上に現はれて以来、ハイカラーといふ語の流行を来すに至れり。

 最初は、この語を、気障生意気などの意に用ひ、髮の分け方刈り込み方の気障なるをもハイカラと冷評し、女の庇髪の出過ぎたるをもハイカラと罵倒したりしが、小松氏の言、讖をなせしにや。つひには、その義を引き伸ばして、洒落者、あるいは最新式などの義にも用ひ、社会上下を通じて、一般の流行語となれり。特にをかしきは、小学の児童まで、何某はミツドを持ちたればハイカラなり、外套着たればハイカラなりといふこと珍しからず。罪のなき奇語の、広く行はれしものかな。

 奇語にて思ひ出せしが、日露開戦の初め、露探事件とて、大疑獄起こりたりしが、これより後、他人を悪罵するに、露探露探といふこと一時行はれたりし。芝居に行き、幕間長きを憤りてさへ「早く幕を明けないか、露探露探」など、罵る者ありしを聴きしことあり。一時の流行語には、一寸せし機会より生ぜし、想像外の奇語あるを知るべし。

 ハイカラの語の始めとして、幸ひに、当の竹越氏の『萍聚絮散記』の陶庵先生の条下の文を引くべし。「余が一昨年(二十三年八月十一日神奈川丸神戸解纜にて渡欧)を以て、海外に遊ばんとするや、親朋故旧、余が為めに送別の宴を張る、中に、少壮なる英仏学士の催しになりし一会あり、席上一友人が、ハイカラを着け、洋服を着くるの利を述ぶるものあり、之より、余が外遊中、高襟党なる文字新聞に現はれて、少年学士を、讒謗毀損するの母と為し、彼等が、殆ど完膚なからんとするや、西園寺侯は、自ら進んで新聞記者に対して、高襟党の首領なりと称し、少年学士に対する攻撃を、一身に引受けんとしたりき、思ふに、善良なる意義に於ける高襟党の首領としては、何人も彼の統治権を犯さんとするものあらざるべし」と。

  ハイカラ男   埴生小屋主

流行に追はれて見栄を飾り襟、首も廻らぬハイカラ男

  和製ハイカラ   池辺 藤園

ハイカラに首を包みて悔むかな、我身黄色になど生れけむ


大正版

「ハイカラの始」p20



メモ

谷沢永一『遊星群 大正篇』(和泉書院 2005)に石川半山『烏飛兎走録』から「ハイカラ語の由来」の引用あり。『同 明治篇』にも関連記事あり。

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