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1994-10-28

[]共通語標準語外史*1──「方言差を謡曲で克服した話」続貂── 共通語・標準語外史*1──「[[方言差を謡曲で克服した話]]」続貂── - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 共通語・標準語外史*1──「[[方言差を謡曲で克服した話]]」続貂── - 国語史資料の連関 共通語・標準語外史*1──「[[方言差を謡曲で克服した話]]」続貂── - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

                         岡島昭浩

(『日本方言研究会第59回研究発表会発表原稿集』平成6


 方言を異にする二人が出会い、訛がひどくてお互いに話が通じない時に、謡曲(の言葉調子)で話したら通じたという話について「“言語生活史”の中にきちんと位置づけてしかるべき話題」とした徳川宗賢氏「方言差を謡曲で克服した話」は新しい視点からの紹介であった。

 この話を言語生活史上に位置付けるには、実際にはどういう場面で有ったことなのか、また本当に有ったことなのかそれとも単なる伝説なのか、ということを考えねばならないが、その前に、こういう話が多くの文献記録され、今に至るまで伝えられていることの意味を考えて見たい。

 まず、これまでどのような文献にこの話が記録されてきたのかを、類似の話をも含めて報告したい。そして、どのような文脈でこのことが言われたのかを考え、この話の記録されて来た意味、その背景を考えて行くこととしたい。

【この話を載せている文献

明治18年6月30日「自由燈」社説、朝寝坊氏「東京語の通用」(山本正秀氏編『近代文体形成史料集成 発生編昭和53年 桜楓社 224頁による)(岡島A)

昔し諸大名が參勤交代世界に、西國の大名と東國の大名と縁組の相談ある節には、互の言葉が分らぬので、必ず謠本の候言葉を使ふて用を辨じたといふ話も聞きしことあれども、

◎鈴木光次郎『明治豪傑譚』巻之二 明治24年10月 34-35頁

  黒田了介謡調を以て応答す

戊辰の役、黒田了介参謀を以て羽州軍中に在り。秋田藩士添田清右衛門監軍たり。屡々陣中に相見る。清右衛門弁論朴訥加ふるに土音を以てす。了介も亦た純然たる薩語なり。奥羽辨と薩摩辨と談論日を終るも互に意味を通解せず。二人之を患ひ、終に謡曲の調子を以て相応答し、纔に其意を通ず。

(田口和夫氏発見、徳川氏Aによる。武井氏も引く)

◎観世清廉談「発音の話」『能楽』第18号、明治36年12月1日)p.30

九州人と奥州人との談話に互ひの詞が通ぜず。謡の詞で以て始めて其の意を通ずることが出来たと言ふことは、昔から名高い話でありますが。其れと是れとは事変りますれど、私が諸国の御方への謡の御稽古をして見て、地方の訛りの謡に関係を及ぼすことを知りました。

(池内信嘉編「謡の栞」『能楽』第5巻7号、明治40年7月10日にも引く)p.32

(正田梅香『謡と能の手ほどき』昭和10年12月8日 玄洋社 にも引く)p.94

◎下田歌子「都会の婦人と地方の婦人の接近」『婦人世界』8-13(大正2年11月)

昔の話に、鹿児島の人が仙台藩邸へ使者に行ったところが、言葉が通じないので、双方とも非常に困って、謡曲の言葉を使って話をして来たといふことがあります。

(加藤貞子氏発見、徳川氏Bによる)

◎『国語百談』日下部重太郎 大正4年9月5日発行 丁未出版社 215頁~219頁

九四 薩摩と仙台

 徳川時代には、正月三日の謡初式を始として、謡曲は幕府及び諸藩の重い式楽となり、武家の嗜むべき一藝となってゐた。曽て、薩摩様と仙台様と縁組があった時に、両藩士の応対に互に言葉が通じ難かったので、謡曲の詞で対話をしたことが有ると聞く。

 (中略)

 発音の一斑と語法の大略との違ひを見ても、斯の如くである。況や単語の違ひも沢山あるのだから、薩摩と仙台との言葉が通じ難いはずである。之を通じるためには、必ず標準語が要る。前の話の場合においては、謡曲の詞を以て臨時の標準語としたのである。

(此書の増補版『国語の趣味と常識』日下部重太郎 大正11年9月25日発行 丁未出版社 215頁~219頁 全く同じ)

☆『現代国語思潮』日下部重太郎 昭和8年6月15日 中文館書店 35頁

幕府時代には畿内語自身も大いに変遷し言文二途の有様で国語が発達したと述べたが、特に、江戸幕府の時代において三百諸侯が全国に分封されて、言文二途の距離は益々隔たってきた。「言葉はくにの手形」と云はれ、大小名の各領地の方言が却て保持し特色づけられる有様だった。西南の一大名と東北の一大名との縁組の祝賀が有ったとき、双方の言葉が通じないのに困った揚げ句に、謡曲の言葉で互に話し合ったといふ珍談さへある。

◎高田早苗述 薄田定敬編『半峰昔ばなし』昭和2.10.3 早稲田大学出版部刊(岡島A)

 一〇五「議会の名士 花形 方言演説」(233頁より)の末尾。

今一言附け加へたいのは、第一議会は方言的演説の競争場たる感があった事である。昔から聞いて居る話に薩摩の人と弘前の人は謡曲の言葉で問答しないとお互いに理会しないという事があるが、然ういふ方言で以て大演説を試みた人も少くなかった。

◎東条操「標準語と方言」『国文学解釈と鑑賞』4-7(38)昭和14.7.1 p.100

奥州の武士と薩州の武士が謡で用談を辨じたといふやうな事が現代に起ってはそれこそ大変である。

◎花園兼定『洋学百花』昭和14.10.5 ヘラルド雑誌社 p.177「方言の差別」

徳川時代の「国替」や参勤交替が国語発達に貢献したことはいふまでもない。江戸参勤交替の時、九州の武士と奥羽の武士が言葉が通じないので、謡で話をしたなどいふ話があるが、諸大名の江戸詰の制度も、標準語の確立を助けた。

◎柳田国男「標準語と方言」『国語文化講座』1国語問題篇 昭和16年7月20日発行 朝日新聞社 p.246

口の言葉も改まったものだけは統一して居る。維新の非常時に九州の武士が、奥州に行って会話が通ぜず、謡の言葉で物を言ったら通じたといふ話が残って居る。目には一字を知らぬ昔の爺婆が、義太夫の浄瑠璃を聴いてわかって泣いて居たのを、私も屡々見て居る。

☆柳田国男「言語生活」『明治文化史』13風俗編14章 その6節、標準語と方言

一、方言の撲滅 昭和29年9月30日 洋々社 p.522

それが維新の際九州の武士が、奥州へ行って話が通ぜず、謡の言葉で物をいったら通じたという、民間に流布している話のように、お互に違った言葉になってしまったというのは、

☆柳田国男「わたしの方言研究」『方言学講座』第1巻 昭和36年1月31日

 維新の際に、東北なんかに九州の人が行って、ことばが通じないんで、謡曲で話をしたなんてことをよく言うんですね。小説文体を出したとか、いろんなことを言うんですが、

◎野上豊一郎「謡曲と狂言」『国語文化講座』4国語藝術篇 昭和16年8月25日発行 朝日新聞社 p.78

これは単なる話に過ぎないかも知れないが、奥州の侍と薩州の侍と互ひの方言が通じないので、謡の口調で掛け合ったら話が通じたといふのも、当時謡曲がいかに全国的に流布してゐたかを物語るものである。

◎小林存「方言交流論」『方言研究4』 昭和16.10.10 p.72

 明治維新当時薩長の官軍と東北六藩の佐幕軍との間の開城談判は、相互の国言葉が通ぜぬため、謡曲の文句に節をつけて行ったものだとこゝらの老人達は語ってゐる。之は事実かどうか必ずしも保證の限りでないけれども、仮令国言葉が不通だと言っても同じ日本人ならかういふものを借りて兎も角も意志を通ずる方法は有ったのである。

 同じ日本人間に謡曲の文句や節を借りなければ意志の疎通の出来なかったといふ例は論外だが、(P84)

◎石黒修『日本の国語』増進堂 少国民選書 昭和18年6月20日 p.120

 昔、仙台の人と鹿児島の人とが出会って話をする時に、どうしても通じないために、謡をうたって、それで話をしたといふ話もあります。

◎藤原與一『私たちの国語』筑摩書房 中学生全集17 昭和25年11月25日 p.123

 むかしの話ですが、こんなことがあったそうです。九州の方の人と、東北の方の人とが、江戸(今の東京)で出あうと、さっぱり話が通じません。そこで、両方が、うたい(謡曲)のことばをつかって話しあったというのです。中だちのことばを用いなくては、会話をすることができなかったのですね

◎三宅武郎「方言と標準語」p.57 安藤正次編『国語の概説』昭和27年4月5日発行

大正八年、東北方言調査のため、安藤(正次)先生が文部省から山形の上の山へ出張されたことがある。そのとき、土地の故老が面白い話を先生に聞かせてくれた。それは、むかし新庄藩で土地の言語改良を思い立ち、江戸から先生を招いたことがあるが、その先生というのはうたい(謡曲)の先生であったというのである。ことばの改良にうたいの先生ないしうたいそのものを利用したということは、むかし東北の人と九州の人と話が通じないので、例の「さん候」式の文句(この「さん候」というのは「さに候」すなわち今日の「そうです」にあたることば)を使って話を通じたというのと好一対の面白い話で、それは方言と標準語ということを考える上にも、ひじょうに示唆に富んだ有益な話である。というのは、方言の相異をこえて全国民の共通理解をもたらすことばを共通語とよぶとすれば、その共通語は文学語であるということを、面白い例話として、わたしたちにおしえてくれるものだからである。

☆安藤正次「奥羽の言葉について」『安藤正次著作集3国語学論考Ⅲ』p.267(もと『国語教育』4-5 大正8.5)

 東北地方の人士が、その言葉について自覚する所があり、その矯正について苦心するのは、今日にはじまった事では無い。伝ふる所によれば、旧藩時代に於ても、新庄藩や、岩崎藩では、わざ/\江戸より言葉の師匠を聘したことのあるくらゐであるといふ。その結果を聞くに、新庄での成績はよかったが岩崎では、その師匠が、全く土地のものに化せられて木乃伊取りが木乃伊になる結果に終ったことである。

◎保科孝一『ある国語学者の回想』昭和27年10月 朝日新聞社 180頁

 郷里から一歩もふみ出たことのない伯父は、伊藤(博文)兵庫県令のことばがよくわからなくて困っていると、伊藤県令は気をきかされ、「宮島誠一郎 問う年いかに。」というように、文語で問われて、ようやく答えることができた。薩摩藩士が秋田藩の人と問答するとき、謡曲の文句でうたいながら、その意思がようやく疏通したというのと同工異曲の話である。

(金田一春彦氏発見、徳川氏Aによる。また武井氏もこの記事を典拠とする)

◎国語シリーズ36『教科書から見た明治初期の言語・文字の教育』文部省 昭和32.9.20(古田東朔)p.40

維新当時官軍の人々が、ことばが通じないために「うたい」のことばで互に話し合ったといわれますが、

◎徳川宗賢「集団とことば」『講座現代語1現代語の概説』明治書院 昭和38.12.15

 江戸末期の方言の分化は想像以上で農村の人たちなどは、異郷に出れば、たがいに話の通じないことがよくあったらしい。薩長の軍勢が奥州を転戦し、土地の人との間で、ことばが通じないため、謡曲で会話したという話なども伝わっているが、一方、高級武士たちのことばは、土佐藩だろうと仙台藩だろうと、かなりの程度に、全国的な統一をみせていたらしいふしがある。異なった地域出身の人たちも、江戸在府などという共通の場での生活を一方に持つため、その間に平均化が起こり、標準語が普及したものと考えられる。

☆徳川宗賢「日本語の地域差とその消長」『ことばの比較文明学』福武書店 平成2.7.17 p.397

戊辰戦争に際して東北に転戦した西日本出身の武士がふだんの言葉を使っては通じないために謡曲の言葉を使ってはじめて意思を疎通したなどという伝説さえあるのですから、

◎司馬遼太郎「王城の護衛者」初出『別冊文芸春秋』昭和40.9刊 今講談社文庫同名書 昭和46.10.15による。70頁

三条家に駈け込んだのは公用人の野村左兵衛であった。かれは容保の立場をるるとのべた。

「申すこと、よくわからぬ」

と、実美は当惑したような表情をつくった。左兵衛の会津なまりがひどすぎて理解にくるしむ、というのである。左兵衛はやむなく、謡曲の文語を藉りて朗々と声を張りあげた。

 実美は、ゆっくりとかぶりをふった。左兵衛は万策尽き、筆談をした。

◎中森晶三『能のすすめ』玉川選書 昭和51.6.14 p.13 (著者は觀世流の能楽師)

Ⅰ能と日本語

 日本標準語の原点──謡曲  今日、一億一千万の日本人が共通語を持っている。これは別に文部省の功績でも、NHKのおかげでもありません。実は徳川時代、支配者であり、エリートであり、文化人であった武士たちはレッキとした共通語を持っていました。それは何かといえば、自分たちの必須の教養であった能のウタ、つまり謡曲の発声・発音・ヴォキャブラリーだったのです。

 これを裏付ける史料には、たとえば明治維新の時、会津に攻め込んだ薩長の百姓兵が、土地の者と話が通ぜず、思い余った中の知恵者が謡の調子でしゃべってみたら、むこうも謡の調子で答えてくれて用が足りたという話などたくさんにあります。

(中略)

 謡曲の伝承  その謡曲を教える各藩の手役者(代表的立場の能役者)は、江戸の家元へ上って二十年内外の修業を義務づけられていました。江戸前の謡・家元の謡になって初めて国元で一人前に遇される。したがって、言葉の教師である能役者そのものが方言に汚染されることがなかったのです。江戸前の謡を持って帰って教えることで、武士たちはハッキリした標準語を身につけることができました。

☆中森晶三『「能」が今、教えてくれること』毎日新聞社 平成2.4.25 p.21

第一章 まず、「能」のお話を── 能の話 能が果した役割

今、日本人が共通の言葉を持っていることはたいへん幸せな状態なんですが、この細長い国土に農耕民族として土着して何千年も暮らしてきた日本人が、北と南、西と東とで同じ言葉で話せるわけがありません。(中略)それが明治以後簡単に統一できたのは、もともと日本人は日常語のほかに共通語を持っていたからなんです。

 それは何か。共通語の資格があるのは、武士たちの共通の娯楽「能」のウタ、謡曲を措いてほかに考えられません。この発声・発音・語彙こそが共通語の母体をなしていたのです。明治維新の時、会津若松に攻め込んだ薩長の農民兵が、土地の人と取引しようとしても言葉が通じない。中の知恵者が謡の調子で話しかけてみたら、相手もそれで応えてくれて用が足りたという口碑伝説など、証拠には事欠きません。

 したがって能は、娯楽というよりむしろ豊かな声量・明瞭な発音・快い声音・共通の語彙という、支配者必須の徳目を身につけさせる教材だったのです。

☆中森晶三「能のすすめ」(小原哲郎編『日本語の魅力』玉川大学出版部 平成3.3.5)

 もともと日本人は、自分たちの日常語のほかに出るところに出た時に使う共通語を持っていたのです。それは何かというと、能のウタ、謡曲、謠。この発声、発音、ボキャブラリー、これこそが日本語の共通語の母体だったのです。昔、津軽の殿様と薩摩の殿様が、江戸城中で顔を合わせて話をする。地の言葉でやったのでは当然話が通じない。しかし能の言葉でやれば、ちゃんと通じたのです。

 明治維新の時に、会津若松で維新最大の城攻めがありました。一月にもわたる戦いですから、当然食料を補給しなければなりません。薩長の兵隊が土地の農民と交渉します。当然言葉は通じません。困った中の知恵者が、試しに謠の調子でしゃべったら、向こうも謠の調子でしゃべってくれて用が足りた。つまり、いざという時は、謡曲の発声、発音、ボキャブラリーを使えばいいと、みんな知っていたのです。

(昭和63年5月30日・6月17日、玉川学園女子短大特別講話)

(『全人教育』昭和63年9月号・10月号)

◎小松左京『日本文化の死角』講談社現代新書 昭和52.5.20発行  p.107

徳川初期には、江戸へ参勤交代で集ってきた地方武士がお互いあまりに訛りや方言のちがいがはげしくていっこうに話が通ぜず、その前代、室町期において、武士一般の教養となった「謡曲」のことばでしゃべったらやっと通じた、という話などから推して、江戸期の参勤交代、江戸詰めが「標準語」の母体をつくった可能性はつよい。

◎谷沢永一『読書人の園遊』 桜楓社 昭和53.10.20初版発行 171頁「文学全集の今昔」(サンケイ新聞、昭和53.8.30初出)

 明治初年の義務教育制は、国民文化を標準化の方向で引きあげる方策であったが、現代文学全集の大量出版は、それを一応の仕上げに持ってゆく役割を果す結果となった。江戸時代、東北と西南の武士が会ったとき、方言では話が通じないので、謡曲の詞章を共通語に用いたという。明治以後の文士たちは、用語と文脈の国民的共通性を小説のかたちで作りあげ、その成果を文学全集が、見事に広く普及させたのである。

◎網野善彦・上野千鶴子・宮田登『日本王権論』(昭和63年1月、春秋社刊)188頁

網野 ……明治になって、薩摩の武士が東京に来た時に言葉が通じないのでどうしようもなくて、能、謡曲の言葉で話したら、相手に通じたという有名な話があるんですけれども。それはほかの局面でもある話だから、謡曲の詞章は少なくとも武士の間の共通語にはなりえているんですね。(徳川氏A)

◎対談「ゆっくりした重さと軽い素早さのあいだに」堀田善衞/鶴見俊輔『ちくま』242号 平成3.5

堀田 明治以前の文化というもので、一番バインディングといいますか、というものは、僕もやらされて閉口しちゃったけど、謡曲だと思いますよ。つまり昔むかしは、青森の侍と薩摩の侍じゃ、全然話が通じなかったわけだからね。それで彼らは、どのことばで話したかといえば、謡曲のことばで話したわけでしょう。謡曲のことばが共通語だったわけですよ。西洋ならラテン語になるのでしょうけど。だから、謡曲というものは、日本人のバインディング・パワーとしては相当なもんだったんだろうと思います。そしてかなり高級なものでもあり、そして、幽鬼の世界というものとこの世を、形而上と形而下をつなぐ、そういうかなりな

パワーを持っていましたね。霊的な力もあったし。

◎尚学図書編『方言の読本』小学館 平成3.8.1. 155頁

「謡曲で方言差を克服した話」

 今日、日本人同士で方言の違いのために互にことばが通じないケースは、ほぼなくなってしまった。敬老の日のテレビに百歳以上の長寿の方々が登場し、方言でしか会話しない方がたしかにおられた。しかしこれは、例外中の例外である。

 明治維新のころはそうではなかった。奥羽地方を転戦する薩長の兵士が、地元の兵士と自由に会話しようとしても、全く通じなかったために、教養として身に付けていた謡曲語でやっと交流したという話がある。つまり、謡曲が共通語というわけである。

 戊辰戦争がらみの話が多く、中には薩摩の黒田清隆と秋田藩の添田清左衛門との間の逸話とする具体説もあるが、調べてみると、どうもこれは江戸期に遡る〈伝説〉らしい。

◎陳舜臣「時代劇の約束ごと」(『走れ蝸牛』二玄社 平成3.11.30発行 p276 もと全日空機内誌『翼の王国』昭和64.1-平成2.12連載のうち)

 幕末、鹿児島の人間が会津へ行ったり、会津の武士が京都へ行ったり、いわば「国際化」が活発になったが、やはり言葉では苦労したようである。ときには全く通じないので一計を案じ、謡で応酬する場面もあったという。謡は武士のたしなみであり、おもな能狂言の筋書はみな知っているはずだから、うまく採り出せばけっこう通じたそうだ。

◎水原明人『江戸語・東京語・標準語』講談社現代新書 平成6.8.20発行 p.56

   なぜ、漢語が流行ったのか?

 まず、当時の武士、知識人の教養の基礎が漢学だったことである。しかも、前にも述べたように、全国の各藩はそれぞれに割拠していて、お互いの交流が乏しかったため、一般の話しことばは地方独特の訛がはげしくて、同じ日本語でありながらことばがほとんど通じなかった。そのため、真偽のほどは疑わしいが、九州と東北の武士が話し合うのに、これまた武家共通の教養であった謡曲の文句を使って会話をかわしたという挿話さえ残っている。考えてみると、謡曲の詞章も漢語を交えた文語体である。つまり、漢語というのは当時の武士、知識人にとって全国どこでも通じる共通語だったのである。

【類似の話】

《謡曲に地方差なし》

◎『音声学協会会報』42号(昭和11年)「コトタマ往来」第664項(吉町義雄氏)

(吉町義雄『九州のコトハ』双文社出版 昭和51年12月10日 p.217 余白録)

例の奥九方言と謡曲との話は『音曲玉淵集』(享保十二年初刊)巻之三に「西国のはしの人と奥州の果の人と行あひ諷合てもそろひ」とあるのが最古の記述であろうか。

(岡島B)

☆吉町義雄「日本語の諸相?九州方言」『国文学解釈と鑑賞』4-7(38)昭和14.7.1 p.115

時中翁庚妥が享保十二年初版『音曲玉淵集』巻之三「西国のはしの人と奥州の果の人と行あひて諷合てもそろひ」は事新しくないが、

☆『九州方言の基礎的研究』 昭和44年 風間書房p608(二階堂整氏の御教示による)

 なお、四つ仮名以外の九州地方における発音やアクセントについて記述した文献が近世に入るとかなり多くなる。……、時中翁庚妥の『音曲玉淵集』には西国人と奥羽人との謡曲応待、……が述べられている。


☆三浦庚妥『音曲玉淵集』巻三拍子 「拍子の論根元の弁」

一もろ/\の音曲おほしといへども、祝儀といへば、上は天子より下万民に至る迄、能囃子謡を主とする事、所以有。尤、拍子といふ事、雨だれ拍子といふに付て、人の脉より作り出したるといひ、或は漏剋より作りしなどいへども、拍子は天生の理にて、万物に拍子なきといふ事なし。人間平生の言語ウットいふより皆拍子なり。然るに謡には此拍子に、慥成定規を定め、ふしの伸縮みに、規矩準縄を備へたり。是則、大小の鼓の間なり。此定規を定めてそれにしたがひ、伸縮み明らかに顕はれ聞ゆるやうに謡のふしはかせを作り付し事も人作とも覚えず。たとへば西国のはしの人と奥州の果の人と行あひ諷合てもそろひ、又上かゝり下掛

りと流儀わかれても、或は本地の所を片地に行たぐひか、扨は、少宛ふしの持合あとさきに成か、迄にて、拍子の定規はづるゝ事は是なし。

《演劇》

◎堀江秀雄『言文一致文範』博文館 明治40.12.23 p.14

徳川時代に、遠方の大名と大名との間に婚儀でも結ばれる時は、相互に使用する言語が通じないところから、芝居に用ゐる、文句で挨拶したとか聞いたことがある。また噴飯の材料であるけれども、国語の不統一より生じたる不便を知る好話柄である。

◎上田萬年「演劇上の言語」『国語学叢話』明治41年1月29日発行 博文館 p.53-

ビューネンスプラーハと云ふやうな事は、独逸では非常に囂しい問題で、厳格なる発音の規則と云ふものが此上に規定されてある。独逸の俳優の間には一定の規約があって、演劇の上に於て使ふ言葉は、正当の発音法、正当の語格に依ると云ふ事を以て理想としてある、無論方言を使ふ必要のあるときは、それ/\の方言を使はなければならぬけれども、全体劇の上に於て、其劇の言語と云ふものは特別の目的のない以上は矢張一定の規則に束縛された言葉を使はなければならぬと云ふ事である。又仏蘭西の礼を申しましても、私は仏蘭西の事は委しく知りませぬが、西園寺侯爵等の御話に依ると此国には立派な学校があって、其学校に於て種々演劇上の必要なる点を教ふると同時に、仏蘭西語の発音の標準を練り、又仏蘭西文学の研究をして居る。此学校で十分の発音を練り、正しい仏蘭西語を話分けることの出来る俳優でなければ、舞台へは出さぬと云ふ制裁が付て居る。云ひ換へて見ると独逸にしろ、仏蘭西にしろ其等の国々では、純粋なる自国語の標準となる所の言葉遣の方法は、演劇の言葉の上で現はさうと云ふ事を希望して居るのである、即ち仏蘭西で発音に疑義のある時には、テアトールフランセーへ行って俳優の発音を聞けば、其発音で分るち云ふやうな次第であります。

〈幸若〉

◎ロドリゲス『日本大文典』185(土井忠生氏邦訳p.664)「外典の文体に就いて」

○`舞'(Mais)の文体は,日本で通用してゐた甚だ丁寧で上品な談話のと同じである。話し言葉と書き言葉を混合したものであって,誰にでも理解される。この文体は,一種の音調や歌の調子で朗誦されるやうに非常な技巧が加へてあって,その話が色々な感情を喚び起して,人に快感を与へることを目的とするのが普通である。文中の語とその調子は一種の韻律の形式によって組立てられて居る。

〈狂言〉

◎大蔵虎明「わらんべ草」慶安四年(思想大系p.673)

昔人云。狂言は、大和詞、世話に言ひ付たること草、国郷談も有べし。猶以て言葉を改め吟味して、あからさまにも耳にさはらず卑しからざる様に嗜むべき事肝要也。

◎新屋敷幸繁「日本語の歴史と発展の原理」大東亜文化協会編『日本語の根本問題』 増進社 昭和18.2.10 p.227

狂言の言葉は、単なるざれ言葉ではなく、当時の模範的言葉・標準的民間語ともいふべき室町言葉であったので、これが今日明治大正昭和と標準語の源流にもなってゐるのである。

◎司馬遼太郎「重庵の転々」初出『オール読物』1970-5刊 今新潮文庫『馬上少年過ぐ』p.202

☆司馬遼太郎「武士と言葉」初出『オール読物』1970-9刊 今文春文庫『余話として』pp.122-130

〈浄瑠璃〉

◎司馬遼太郎『菜の花の沖』第二巻(文春文庫 昭和62.3.10 p.307)

☆司馬遼太郎『菜の花の沖』第六巻あとがき 昭和57.9(文春文庫 昭和62.5.10 p.395)

〔商人は浄瑠璃の言葉、武士は狂言の言葉とする〕(堀畑正臣氏の御教示による)

《謡曲で「どもり」を克服した話》

◎「どもり」(北原保雄・小林賢次『狂言六義全注』 勉誠社 平成3.7.5による)

それがしは、どもりの事なれば、申事の、わけが、きこへまらせぬほどに、うたひぶしにて、あれがもってまいった物を申てきけまらせうと云

◎『初音草噺大鑑』元禄11年刊(噺本大系第六巻)

「どもりの音曲」

謡の師をする人、三平といふ下人をつかひしが、大きなるどもりなり。されども謡を聞とりてうたふに、少もどもることなし。あるとき、さるかたへつくゑを一きゃくかりにつかはしけるに、門口から、つ、つ、つとばかりいふて出かねければ、いよ/\せきて、ゑ、ゑ、/\をと、もがきてわけしれず。亭主、かしこき人なればやがて心得、「是なる三平ハ何事にてわたり候ぞ」といひかけければ、三平「さん候。机を一脚御かし候へ」と、らちがあいた。

◎近松門左衛門『けいせい反魂香』宝永5年(日本古典文学大系『近松浄瑠璃集下』p.140)

敵に向って問答せんこといかゞあらんとの給へば。女房聞きもあへず。常々大頭の舞を好き。わらは諸共つれわきにて舞はれしが。節の有ることは少しも吃り申されずと言ふ。

◎「雑俳・すがたなぞ」元禄16年(『日本国語大辞典』による)

「さっぱりと吃の小歌の取て置」

◎「譬喩尽」天明~寛政(宗政五十緒『たとへづくし-譬喩尽-』同朋社 昭和54 p.96)

「吃(ども)に小哥(こうた)」

◎禿頭老人「謡曲と吃音」『能楽』第7巻6号 明治42年6月10日 p.38

伊沢君が何処かで謡曲を謡ふと吃になると演説したと云ふが本当かね。なに、米沢に開かれた教育大会でかね。(中略)吃りに小唄といふ諺もあれば、吃といふ狂言では、謡で申訳さえするではないかハッハッハ………………。

☆『新聞集成明治編年史』12(p.28) 明治36.3.7 時事

伊沢修二氏は……楽石社と称する一社を設け、……東北九州其他の地方の訛言を矯正し、或は吃者を治し唖者に発言せしむる等のことをも伝授し得るに至れりといふ、

【背景】

《謡曲の発音重視》

◎『金春安照秘伝書』慶長十一年(『能楽資料集成9金春安照伝書集』わんや書店 昭和53.12.20)p.42

右四十五字の大事といっぱ、あいうゑをの五字に極る也。五字の上にてあつかふ也。是をバ、はやく相伝させつる者也。秘べし。しったんを究たるといふ者も、是をたやすくハしらず。師のゆるしといふは是成べし。此外、五字の習、有べからず。定次第、此分也。是を常に覚えて人の前にて物をいふならば、字、なまる事有べからず。

◎氏家剛太夫『荘内方音攷』天保五年までに成立(三矢重松『荘内語及語釈』昭和5.7.10刀江書院)

p.69され共謡にてもうたふ時は必ずハワと唱ふべしと教ふることなり。

p.69謡等うたふ人は必ず正音に呼ぶべき事なり。

p.74此中濁は、荘内にては謡などうたふ人は殊の外に吟味するなり。吾藩の重田鳥嶽は荘内生れにて猿樂を好みたる人なり。謡うたふ人には必ず五十音を数辺云はせて此中濁の穿鑿甚だ強かりしなり。余が岳父堀少公は平家をよく語りたる人なりしが、常の言語も中濁は努めて言ふまじき事なりと、著述の書中にも論じ置きたり。謹しむべき事なり。

p.75これ江戸の人も謡などよくうたふ人には決して無し。藩の五十嵐又平は江戸生れにて謡を善くする人なり。……江戸にても心ある人は、本音に唱ふと見えたり。

《謡曲の流布》

◎国語シリーズ17『近世の国語教育』文部省 昭和28.11.20(真下三郎)

◎野々村戒三「能の地方的分布とその情勢」『能楽全書 第二巻 能の歴史』昭和28.1.30 創元社

《「謡曲の言葉」と「候文」》

◎坂元雪鳥「謡曲文の組織(一)」『謡曲講座1』大正15.6.15 p.5

足利期から徳川期にかけて普通文となり或は書翰文となった各種の和漢混淆文は、謡曲文が大なる社会教育資料となったところに負ふところが多いといふべきである。

◎新屋敷幸繁「日本語の歴史と発展の原理」大東亜文化協会編『日本語の根本問題』 増進社 昭和18.2.10 p.216

謡曲の如き「候文学」に於て「候ことば」は立派な舞台言葉にまで磨き上げられたのである。そして後に於てもこの舞台化された武士文化語を使い得る人及びこれを使ふ世界は、えらばれた世界の人として、江戸時代を貫いたのではなかったらうか。近世武士道の道義の世界も「候ことばの世界」であったと思はれる。(中略)謡曲は近代語の祖父母ともなって、それを愛育したのであった。

《方言差の甚だしさ-共通語・標準語の必要性》

◎新井白石『西洋紀聞』(正徳5年)上巻 『日本思想大系35新井白石』p.11

凡そ五方の語言同じからねば、たとへば今長崎の人をして、陸奥の方言聞しめむには、心得ぬ事多かるべけれど、さすがに我国の内のことばなれば、「かくいふ事は、此事にや」と、をしはからむには、あたらずといふとも遠からじ。

◎「奥九旅人/井中水」(文化5年)(近世文芸叢刊『上方滑稽本』影印)

奥九二州旅客洛南東寺御影供へさんけいせし道の記

cf.吉町義雄「「奥九旅人井中水」の方言価値」『九州のコトハ』(もと東北大学『言語』二号 昭和13)

◎西潟訥「説諭」 明治7.1『文部省雑誌』第二号(前掲古田東朔氏・岩淵悦太郎『現代日本語』・井上ひさし「国語元年」『日本語の世界10』の引くところによる)

現今奥羽の人と薩隅の民に於ける、其言語全く相通ぜざるが如し。其不便勝て言可からず。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2938356/16


〔その他、方言の甚だしさ、不通を論じる資料、現代に至るまで多し。中でも九州方言と東北方言をその代表とす。また、「北は青森から南は鹿児島まで」というような言い方で「日本中」を表す習慣も関与するか。〕

【まとめ】

 この話は、方言の甚だしさが語られ、標準語の必要性が語られる際に、折りに触れて言及され、また謡曲の有用性を説く際、謡曲発音を指導する際にも言われた。

 また、この話は《謡曲発音重視》のもと、《謡曲で「どもり」を克服した話》と《謡曲に地方差なし》《謡曲の流布》とを合わせて、《方言の甚だしさ-共通語標準語の必要性》を加えれば出来上がるのではないか。しかし、実際にこれを行なった人、行なおうとした人も居たかもしれないし、またそれは一個人の機転という逸話に留まるものではあるまい。

参考文献

徳川宗賢A「方言差を謡曲で克服した話」 (月刊言語 昭和63-7)

徳川宗賢B「謡曲共通語をめぐって」(月刊言語 昭和63-12 言語空間)

(以上2点、徳川宗賢日本語研究教育の道』明治書院 平成6年に収める)

武井睦雄「謡曲は方言差を克服しうるか」月刊言語 昭和63-12)

岡島昭浩A「謡曲共通語について」(月刊言語 昭和63-9 言語空間)

岡島昭浩B「謡曲に地方差はないという話」(月刊言語 昭和64-1 言語空間)


 引用文仮名遣は原文のままだが、適宜、濁点を打ち、促音拗音を表す仮名小書きにした。また振り仮名はおおむね省いた。

 なお、この「共通語標準語外史」という題目の、「共通語」は「場面共通語」という意味、「標準語」は「規範言葉」とでもいうような意味であるが、本発表で集めた資料群は、所謂「共通語標準語」の意識史を(また方言意識史をも)探るのにも有用な記録であると考える。

*1:この「外史」は「日本外史」の「外史」ではなく、枠外の歴史というような意味である。

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