国語史資料の連関 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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1936-06-15

喚體の句(山田孝雄日本文法學概論』第四五章) 喚體の句(山田孝雄『日本文法學概論』第四五章) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 喚體の句(山田孝雄『日本文法學概論』第四五章) - 国語史資料の連関 喚體の句(山田孝雄『日本文法學概論』第四五章) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 喚體の句は常に一の體言を骨子として、それを呼格とし、それを思想の中心點として構成せらるゝものなり。これはその直感的一元性の發表にして、感情的の發表形式をとることに於いて、述體の句の理性的二元性の發表たるものと性質と構造との二面に於いて根本的に違ふものとして對立するものなり。

 この喚體の句形式は單純なりといへども、その形式に於いて一定の思想を完全に發表し得るものなれば、不完全なるものにあらず。然るに世には往々これらを不完備の句と唱ふるものあり、これらの説はこれが一元性の發表形式にして、述體の二元性なるものと根本より性質の違ふといふことを知らざるによるものにして、その不當なる事はいふをまたず。この喚體の句はこれが構成の形式を根本より改めぬ限り、如何に複雜に副成分を加へても述體の形にはならぬものなり。

 この喚體句といふものは從來の學者の認めざりしものなれば、こゝに少しく説明せむ。喚體の句の單純なるものは唯一個の呼格を主成分として立てるものなれど、多くの場合に種々の副成分を件ふ。この副成分につきて觀察すれば次の如き事實を發見するなり。

  あはれうるはしき花かな。

  みかさの山に出でし月かも。

の如き句にありては、その「花」「月」がその喚體の中心骨子たることは明かなれども、若し、それを單に

  花かな。月かも。

とのみ云ひたりとせよ。それにては一定の思想を聽者の心裏に喚起しうるものとは考へられず。即ちこの場合にこの「花かな」「月かも」は不完備句たること明かにして、それが完備せる句たるべき條件はその中心骨子たる體言とその上に「うるはしき」「三笠の山に出でし」といふ如き連體格の語の存在することにありといふべく、この種の句の形式上の完備不完備の分るゝ點こゝに存すと考えらる。

 今この種の句の特質を考ふるに、この種の句はこれを述體の句に變更するときはその根本形式は上例の句につきていへば

  この花はうるはし。

  この月は三笠の山に出でき。

といふが如き形となるべきなり。而して喚體の句に於いてはそれらをば感動を直觀的にあらはす方式として、述體に於いていふ場合の主格たるぺきものをその喚體の中心骨子とし、述體としていふ場合の賓格述格たるべきものをその中心骨子たる對象の意義を明かに示す爲に連體格として冠せしめたるものなりとす。されども、或は上の例をば

  あはれ(こは)うるはしき花(なる)かな。

  (こは)三笠の山に出でし月(なる)かも。

省略體にして括弧内に示すが如き略語あるなりといふ人あらむ。然するときは、これは述體句主格形式用言とを省略せる形式なりといふことゝなるべきが、述體句成立條件は主格賓格との二の對立ありて、それを述格にて統一する點に存するものにして、その述格の本質的模型はこの形式用言にあるものなるが故に、主格形式用言とを除いては述體の句の骨子を全然失ひたるものにして、もはや述體の句とはいふを得ざるものなり。然れどもなほこれをさる省略に基づくものと見て、吾人の喚體句を否認せむとする論者あらむか。こゝに吾人は次の事實を提出してその論に對せむ。

 こゝに從來多くの文法家に顧みられざりし一種の造句法あり。次にその例をあげむ。

  秋萩をしがらみふせてなくしかの目には見えずて音のさやけさ。   (古今集、秋上)

  雁のくる峯のあきぎりはれずのみ思ひつきせぬ樹の中,のうさ。 (同、雜下)

  夕さればねにゆくをしのひとりしてつまごひすなるこゑのかなしさ。 (後撰集、哀傷)

  うつゝにはさもこそあらめ、夢にさへ人目をもるとみるがわびしさ。 (古今集、戀三)

  風をだにまちてぞ花のちりなまし、心づからにうつろふがうさ。 (後撰集、春下)

  なほき木にまがれる枝も有るものをけをふききずをいふがわりなさ。 (後撰集、雜二)

  神ならぬ身のかなしさよ。                     (保元)

  最後の姿を今一目みざりしことのくやしさよ。          (保元)

これらの例はみな、「の」「が」といふ助詞の上は體言若くは準體言にして、下はいづれも形容詞語幹接辭「さ」を加へてつくれる體言なり。而してその「の」「が」にて連ねられたる上下の語の關係は體言に對して連體格の語を加へたる形になれるが、それを述體的に考ふれば、上にある連體格の語が主格的のものにして、下にある體言は述格的のものなり。然れども、それらは決して主格述格の關係をあらはしてあるものにあらず。これはそれの成立の源より考ふれば、述體の句より轉成したるものなりといひうべきが如くなれど、その形として現に見らるゝものは喚體の句なり。從來この種の句法に對しては明確なる説明の行はれたるものを見ず。この種の語遣をあげたるものには、あゆひ抄[富士谷成章]、詞の玉緒[本居宣長]、玉の緒延約[幻裡庵日善]、てにをは係辭辨[萩原廣道]、廣日本文典[大槻文彦]等あり。そのうち、あゆひ抄は句法には及ばぬものにして、玉の緒は係結專門の書なれど、いづれもこれの性質には論及せず。玉の緒延約

  「音のさやけさ」は「音のさやけざまなり」

  「世の中のうさ」は「世の中のうざまなり」

  「事のわびしさ」は「事のわびしざまなり」

といふ如き説にして徹底せるものにあらず。これは廣日本文典別記[大槻文彦]に

  スベテ「さ」ト結ビタルハ「なり」ト斷言スル慧ハアラズシテ咏嘆ノ慧アルヤウナリ。

と云ひたる如く、これを斷定の形としたる事に於いて確かにあやまれり。又てにをは係辭辨にはこれを下略の言なりとして

  聲のさやけさ、マコトニアハレナリ

  世の中のうさ、マコトニクルシクセムスベナシ

説明してあり・これにつきて廣日本文典別記

 サレパ此結法モ後ノ略語略句ノ中二入ルベキモノカトモ思ヘド、下略ノ語ノ解説甚ダ迂遠ナルノミナラズ、係辭辨ノ説ニ據ルトキハ此ノ用法ノ「の」ハ所謂「かかり」ノ「の」トハナラズシテ、上下ノ名詞ヲ繋グ「の」トナル。

批評せり。係辭辨?が下に略語のある如くいひたるは文法上の論にあらずして意義を説きたるものなることいふまでもなし。然れどもこれが組織をば連體格體言との結合とし、その意に於いて感動を寓したるものとしたるは虞實に近づきたりと評すべきなり。しかも未だその正しき見解を得たりといふことを得ざるなり。廣日本文典にはそれをば呼掛の結法といふ名目にて設けり。曰はく

 呼掛ノ結法 呼掛クル語意ニテ文ヲ結ブコトアリ。但シ上ニ必ズ「の」又ハ「が」アリテ下ヲ形容詞ニテ結ブ場合ニ限ル。

といひて吾人のあげし例の如きものをあげ示し、さてその説明に曰はく

 此ノ「の」「が」(第二八二節ノモノ)ハ主語ヨリ説明語ノ形容詞ニ係ルモノニテ(上下名詞ナルヲ繋グ第二八三節ノ「の」「が」ニアラズ)形容詞即チ結法ヲ成スナリ、猶「音のさやけきかな」「うつろふがうきかな」と言ハムガ如シ。他ハ推シテ知ルベシ。

といひ、なほ別記に、再びこの意を委しく説ぎて、終りに

 形容詞乃チ文ヲ結ブナリ、名詞ニテ結ビタルニアラズ。

といへるが、その形容詞語幹に「さ」を添へたるものは誰人の見ても體言なるに、それを以てたゞの形容詞とすといふことは、明かに矛盾なり。それ故にこれを如何樣に解釋の詞を丁寧にしたりとも、それの文法上の本質を認めぬ以上は吾人の心服を得ぺき筈なきなり。

 さて、かの形容詞語幹接辭「さ」を加へたるものは、誰もこれを體言と認めて一人も例外無きものなるが故に、如何に強ひてもこれのまゝにて述格に立てりとは考へられぬものなり。さりとてこれが省略體にあらぬことも大槻博士の論ずる所にて明かなり。而してこの句の組織に大關係ある「の」「が」は主格を示すこともあれど、又連體格を示すこともあるものなり。この「の」「が」が主格を示すものならば、下なる語は用言ならざるべからざるものだり。然るに下なる語は明白に體言なり。下が體言ならば上の「の」「が」は明かに連體格を示すものならざるべからず。而してこれをすなほに熟視したる時に誰人もこれは連體格體言との結合なりといふことを認むるに相違なからんが、これを完備したる句と認むる時に、主格述格の對立といふ如きものにてこれを説明し得ざる事は明白なると同時に、余が主張する所の喚體の句なりと認めざるを得ざるなり。

 從來この種の句を學者の認め得ざりしは多く國語の實地の法則を輕蔑して、西洋文典の模倣をのみつとめたるに基づくものなるが、西洋文典にはその分類にも設明にもこれに似たるもの無くして、その四種の區別も吾人のいふ述體の句の内部の小區分に止まるものなり。それ故に、これらの句は多くはすて玉顧みざりしものなるが、その間に於いて大槻博士の之をとりたてふ一の完備句と認めたるは大なる功績と認むべきものなり。然れども、述體の句の構成法を以て之を説明せむとしたるが爲に、その論の不徹底に終りたるは遣憾といふべきなり。しかもかく不徹底に終ることは勢の然らしむる所當然の事といふぺし。實にこの種の句は述體の句の外に特立して存するものにして、これを解釋するにだに述體の句を以てしては不可なるものなり。元來喚體の句は直觀的のものにして、他がこれを受くるにも亦直觀を以て感受すべきものにして、決して理解せしむるを目的としたる發表にあらずして直感せしめむとするを目的としたるなり。感動は一元性にして非分解的のものなり。今若し、これを解釋せむとする時にはこ,玉に直ちに二元性の了解作用の乘ずる所となりて、分離思考によらざるべからざることゝならむ。この故に一旦解釋を施せばこれ既に述體の文を以て之に替ふることになるものにして、その味は間接的のものとならむ。喚體の句はいづこまでもその意を味ふべきものにして説明解釋にわたれば第二義に墮するものなり。

 かくの如くなるが故に、この種の文が一の完備體なると同時に「の」「が」は連體格を示すもの「さ」はその用言を結體せしむるものたることは偶然のことにあらずして必然的のものたることを知るを得む。さてこの喚體句の組織を見むが爲に、上の諸例を集めて見れば次の如し。

  一、(あはれ)うるはしき(連體格)花かな。

  二、みかさの山に出でし(連體格)月かも。

  三、音の(連體格)さやけさ。

  四、こゑの(連體格)かなしさ。

  五、みるが(連體格)わびしさ。

  六、うつろふが(連體格)うさ。

  七、神ならぬ身の(連體格)かなしさ(よ)。

 これらを見るに、「一」には上に「あはれ」といふ感動副詞あり、「一」「二」「七」には下に「かな」「かも」「よ」といふ助詞あるが、その他にはさるものは無し。こゝにこれらを通じて見れば、一面に於いてそれら副詞助詞はこの種の句の組織には絶待の必要條件にあらずといふことの認めらるゝが、一面に於いて、この種の句は

  連體格――中心骨子たる體言

といふ形式を以て構成せられたるものなることは明かなり。

 上來、説ける所にて喚體の句形式の著しく闡明せられたるを見るべし。今上に闡明せる形式を以て上にあげたる

  あはれうるはしき花かな。

  みかさの山に出でし月かも。

の構成に照し見るに、

      連體 格 中心骨子

  (あはれ)うるはしき花 かな。

    連  體  格   中心骨子

  みかさの山に出でし 月 かも。

の如く、感動の副詞及び助詞は副次的のものと見られ、その中心は全然同じ組織をとり同じ性質の句たるを見るべきなり。これを以てこれらは感動を寓したる一完體の句なるは疑ふべからずして、上にあげたる如き

  あはれ(これは)うるはしき月(なる)かな。

の如きものゝ省略體なりといふことの強言なりといふことを知るべし。こゝに余は、なほこの喚體句の他の例を少しくあぐぺし。

  面白のけしきや。

  情なの人や。

の如きも喚體句なり。又

  白雲のこなたかなたにたち別れ、心をぬさとくだくたびかな。 (古今集、雜別)

  なつくさの上はしげれるぬま水のゆくかたのなきわが心かな。 (古今集物名)

  とyむべきものとはなしにはかなくもちる花ごとにたぐふ心か。(古今集、春下)

  淺みどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か。     (古今集、春上)

の如きも然り。これらは從來多く構造不完全なるものとせられたり。然れどもこれは喚體句として立てるものにして述體句の智識のみを有する人々には全然之が説明を下すことを得ざるものなりとす。

 今この喚體の句成立を考ふるに之を材料的に見れば、種々あるべしといへども、その形式をいへば、上にいへる如く常に體言を中心としてこれに對して連體格の語を伴へることあるのみ。而してその形式主格述格の關係をとるものにあらずして、一個の體言を對象として之を呼び掛くるに止まれり。喚體の句形式はかくの如く單純なりといへども、しかも單なる呼格にあらねぽ丶句としての必要條件をば有す。そは他にあらず。上にいへる如く連體格の語を俘ふを主として時としては之に關して必要なる助詞を件ふことあるものなりとす。かゝる際に於ける連體格又は助詞はこの類の句の成立の上には必要にして缺くべからざるものにして、それらの有無は實にそが句として完きか完からざるかの區別をあらはすに重大なる關係を有する必要の威分たるなり。而してこれらの構成によれる句は別にこの外に省略せられたりとすべき要素もなく、そのまゝにて一定の意義を有するものなれば、之を完備句とするは不當にあらざるなり。從來はかくの如きは副次的成分にして必要のものならずといはれたれど當らず。吾人も亦これらを副次的成分といはむ。されど、必ずしも必要ならずとはいふべからず。副次的といふことは第二義的なりといふことに止まり、必ずしも不必要といふ意義にあらざるは明かなり。

 さてかくの如く論定したる上に更に注意を加ふれば、喚體の句には二の區別をなすべきことを見る。今これをその思想より見れば、希望をあらはすものと感動をあらはすものとの區別なり。これをその形式より見れば、體言助詞とにて句たる資格の成立するものと、助詞はとにあれ、體言連體格との存在とにて句たる資格の成立するものとの區別なり。この二樣の見解よりなれる區別はこの者を二重の見地より見て分ちたるに止まるものにして、希望をあらはすものは體言助詞との存在を以て句たる資格を得、感動をあらはすものは、體言連體格との存立を以て句たる資格をうるなり。之によりて喚體の句をば、二種に分つことを得べし。一は希望の喚體にして一は感動の喚體なり。希望をあらはす喚體句とはたとへば次の如し。

  あはれしりたる人もがな。

 この句は形は單純にして主格述格の分裂無く、一元性の發表たるものにして意義より見れば、上に述べたる單純に感情をあらはしたるものとは稍異にして希望をあらはしたるものなり。而して、その組織はこの例にては「人」といふ體言が上に「しりたる」といふ連體格の語を件ひ下に「もがな」といふ助詞の件ひてあらはれたるものにして感清をあらはすものと同じ樣に見ゆれど、よく考ふれば必ずしも同一にあらざるを見る。それはこの場合にその連體格たる語を除きて單に

  人もがな。

と云ひたるのみにても希望の對象明かに示され、しかも希望の意明かなり。さればその連髓格たる「しりたる」といふ語の有無はこれが句たることの條件としては大なる價値あるものにあらざるを見る。それ故に、かの感情を主とする句とは稍趣の異なるものたり。この種の句には上の如く連體格の語を伴ふこと少からず。たとへば

  老いず死なずの藥もが。

  君が八千代にあふよしもがな。

の如きこれなり。されども、それらの連體格はたゞその體言に樹しての修飾の用に供せらるゝのみのものにして希望の本意には關係なきこと明かなり。況してこの希望の喚體の句の成立の必要條件には決してあらざるなり。さればその本體は結局「人もがな」といふ如き形式の上に存すといふ事は疑なきことなるが、その「人もがな」といふものを更に分解すれば「人」と「もがな」との二になるぺく、「もがな」といふ助詞を除きて單に「人」とのみ言ひたるのみにては聽者に一定の意味を起さしめ得ぺからざるにより完備したる句とは認められず。それ故にこゝにその助詞が必要なるものなりといふこと明かなり。さて助詞のうち希望の意をあらはす本體は「が」にして、その他は「が」を助くるものなり。即ちこの種の句にては中心骨子たる體言と「が」といふ助詞とが、その必要條件にして、連體格の有無はこれに深き關係無しと考へらる。これは希望といふものは、その對象を示し、それに對して希望の意をあらはさば十分なる筈にして、その希望の意は助詞「が」にて十分にあらはさるるものなるにより、それとその對象たる體言とが存在すれば、その句の完備すぺき條件は充されたりといひて可なる道理なり。次に感動をあらはす喚體の句とは上に多くあげたる次の如きものなり。

  あはれ、うるはしき月かな。

これらは「あはれ」といふ感動の修飾格を有し、又「月」といふ體言はそれに對する連體格の語と「かな」といふ助詞とを件へり。今この「あはれ」を除きて

  うるはしき月かな。

としてもその意は明かに認められ、句としての資格に於いて缺くることを認めず。されば「あはれ」といふ如き修飾格の存否はこの句の資格上の必要條件にあらざるを見るなり。かくてこの例の如きは「かな」といふ助詞を除けば、句としては不備のものとなる感を與ふれども、

  もれいつる月のかげのさやけさ。

の如く、主たる體言の下に助詞を件はでも句たる資格に影響を及ぼさぬもあればこの種の句には、かの希望の喚體のよりもその助詞の必要の度の低きものなることを見るべし。之に反してその連體格たるものを除き去ることは句たる價値の存否に至大の影響を與ふ。即ち

  あはれ月かな。

の如きは感動の修飾格助詞も伴へども、完備せる句たる資格を十分に認め難し。而してこれが不備なる點は連體格の缺けたる點にあり。この故にこの種の句にはその體言を限定する連體格の存在を以てその成立條件の一とするなり。何故に、この二者が必要の條件となれるかと考ふるに先ずその感動の對象の必要なるはいふまでもなく、次にその感動を寓せる點が如何なる所に存するかを示す爲にそれの状態を指示するものを要すべくして、それが連體格としてあらはるゝものと考へらる。然らば、その状態を指示する語が何故に連體格としてあらはるゝかといふに、これ實にその對象が、體言たる故に、而してその體言はその中心骨子として動かすべからざるものなるが故にそれに對しては必ず連體格として添加せらるべき筈にしてこの外の方法は存せざるを以てなり。

 以上述べたる所によりて喚體の句は、その構成上より見ても、意義上より見ても二樣に分つべきは明かなり。即ち一は希望の喚體にして、一は感動の喚體なり。その關係は次の表の如し。

       意義  構成上の必要條件

  希望喚體 希望  中心たる體言と希望絡助詞

  感動喚體 感動  中心たる體言連體格

 以上を約言すれば希望喚體は對象たる體言と「が」「がな」といふ終助詞との二因子によりてなり、感動喚體は對象たる體言連體格との二因子によりて成るといふを得べし。

 希望喚體は略して希望體といふことあるべし。然れども、從來の希望體といへるものは必ずしも之に該當せず。たとへば、

  (一) 君が代は幾久しかれ。

  (二) 明日は故郷に歸らばや。

  (三) 鳥も暗かなむ。

の如きものをば從來希望體といへり。-これらは希望をあらはせるは勿論ながらそはたゞ意義上の事にして、句の性質形體の上より見れば、決して吾人の希望喚體と同一のものにあらず。(一)の如きは從來の學者の命令體なること明かなり。今若しこれを希望體といはゝ命令形を述格にもてるものゝ大多數は希望體たりといふべし。(二)(三)の如きは敍述體たること明かにして、たゞ述格の語が希望の意をあらはせりといふに止まる。而してこれらはすぺて性質上形體上いつれも述體にして普通の説明體と異なるは、その述格の上に些少の變形を施したるによれり。この故にごゝにいふ希望の喚體とは性質と構成とを異にせるものなれば、明かに區別を認めおくべきものとす。

 希望をあらはす喚體は上にいへる如くその對象をあらはす體言と希望の終助詞「が」「がな」との存在を成立の必要條件とするものにして

  花もがな。

  人もがな。

の如き形を以て最も簡單なる形なりとす。しかもその「が」は又古くは「がも」といへるあるが、「が」といへるを本體とす。即ち

  老いず死なずの藥もが。

の例にして知るべし。

 すべて希墓の喚體は必ず説者自身の思想を直覺的に投射的にあらはしたるものなれば、その希望をなすものは誰なるかを示す必要はなく、又その希望の對象はそのあらはされたる體言なればその他に之を示す必要もなく、その希望の意をあらはすことは終助詞にて示されたれば、これにて十分に句たる價値をあらはせるなり。之を述體にていひかふる事はなしうべしといへども、かくの如くすれば、その意義は相通ずることありとすとも、思想の上には大に變更せられたるものといふぺきなり。

 希望の喚體の對象たる體言には連體格を件ふことあり。次の如きこれなり。

  老いず死なずの藥もが。

  君が八千代にあふよしもがな。

これらの連體格はたゝその體言に樹しての修飾の用に供せらるゝにすぎずして、希望の意には關係なく況して希望體の句の成立の必要條件には決してあらざるなり。しかもその連體格は複雜なるもの少からざるは上にあげたる例にて知らるぺし。

 感動をあらはす喚體の句は之を略して感動體といふことをうべし。然れども從來の學者が感動體といへるものとは實質異なり。從來の學者の感動體といへるものは、

  われはあた玉かきこよひの夢に入らむかな。

  みるわれさへに心やはらぐよ。

の如きものをさせるなり。然れども、これらは既にいへる如くその句の樣式はなほ敍述體といふべきものなり。若しかくの如きものを以て感動體なりといは父すべての敍述體は僅に感動の助詞を終りにとるによりて感動體となりうべきことなり。されど、句の性質上の區別はかくの如き淺薄なる表面的のものにあらず。今あげたるものゝ如きはたゞ感動を寓せられたる敍述體にすぎずといふべし。眞の感動の喚體といふべきものは、

  一、あつばれの武者ぶりかな。

  二、きたなきみ方の振舞かな。

  三、あな情なの御事や。

  四、あゝげにも樂しき心よ。

  五、あゝ山中の青葉のうつくしさよ。

の如きをさす。これらは多く上に感動副詞を戴き、下に感動の助詞「よ」「かな」等を伴へり。然るに、一、二の如きは上に感動副詞なく、三四以下も感動副詞を除きても句として明かに意は認めらる。この故にその感動副詞の存在はこの種の句の必要條件にあらざること明かなり。又「かな」「や」「よ」等の助詞は上の例にては必要なる部分となせど、又既に屡いへる如く、

  月の影のさやけさ。

の如きもあれば、それらの助詞も亦かの希望のものよりは遙かに必要の度低きものといふべし。之に反してその連體格の語を除く時は句としての價値を失ふに至る。この故にこの種の句には連體格の語の存在を必要條件とはするなり。

 感動喚體の句はその成立より見て二の種類を見る。一は體言を骨子として、それに状態をあらはす用言又は情態の副詞をば連體格として加へたるものにして次の如きものなり。

  ありがたの情や。

  あな情なの御事や。

  あはれの物語や。

  流れて早き月日かな。

  きたなきみ方の振舞かな。

これらは感動の喚體に普通なる根本の形式と考へらる瓦ものにして述體の句にていは父、主格たるべきものを骨子とし、その述格たるべきものを連體格としたるものなりとす。次には述體の句にていはゝ主格にあたるぺきものを連體格として、述格にあたるぺきものを骨子たる體言とせる形式のものにして、この場合の骨子たる體言形容詞語幹又は情態の副詞に接尾辭「さ」を加へて結體せしめたるものたるなり。その例

  もれいつる月の影のさやけさ。

  あゝ山中の青葉のうつくしさよ。

  最後の姿を今一目みざりし事のくやしさよ。

  いとかく夜をだに明したまはぬ苦しげさよ。

の如きなり。既にいへる如く從來はこれらを一種の格としたるはよけれど、その述格と認めたるものが、體言たるにまよひて殆なにらの説明をもなしえざりしものなり。これらは既に論ぜる如く感動喚體の特徴にして、かく形容詞語幹を以てしてもなほ之を體言化せずぼやまざりしを見るに足るべし。

 感動喚體の句の成立は大要上に述べしが如くなるが、なほ仔細にその成立を説くべし。

 先づ、その喚體の骨子たる體言が本來の體言たる場合と、形容詞語幹情態副詞に接尾辭「さ」を加へて體言化したるものなる時との區別によりてその句の構成方に多少の差異あるを見るが故にこの二樣の場合を別にして説くべし。

 本來の體言が、骨子たる場合にそれに封しての連體格たるものには形容詞なるあり、動詞なるあり、存在詞なるあり、副詞なるあり。先づ形容詞を以てかゝる場合の連體格とするものは二樣の方法あり。.一はその語幹を以てそれの連體格をなすものなり。この時は格助詞「の」を介とす。次の例の如し。

  面白の春雨や。

  心幼なのわざや。

  やさしの花や。

  口をしの花のちぎりや。

  あなかひなのわざや。

  あな恐ろしの物語や。

二はその連體形を以て直ちにそれの連體格となすものなり。次の例の如し。

  きたなきみ方の振舞かな。

  たえてつれなき君が心か。

動詞を以てするものは普通の連體格として、その連體形よりその鵠言に直ちに接するものにして次の侮の如し。

  心をぬさとくだく旅かな。

  ちる花ごとにたくふ心か。

  三かさの山にいでし月かも。

 しかるに又、動詞連用形を體言の資格に立たしめたるものを「の」助詞にて導きてこの連體格に立たしめたるあり。その例

  あなしほたれの波のうきねや。

存在詞の類にては又その連體形を以て直ちにこの連體格に立たしむるなり。その例

  かこちがほなる我涙かな。

  妙なる笛の音かな。

  淺みどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か。

副詞を以てとの連體格に立たしむるものあり。この時は「の」助詞にて導かる。

  あはれの物語や。

  あつばれの武者振かな。

 次に形容詞語幹又は情態副詞に接尾辭「さ」を加へて體言化したるものを骨子としたるものに封しての連體格たるものは普通、體言を以てその連體格とす。この時は

  もれいつる月の影のさやけさ。

  目にはみえずて言のさやけさ。

  あゝ山中の青葉のうつくしさよ。

の如く「の」助詞にて導かるゝを常とす。次には動詞連體形を以て準體言としそれより格助詞「が」を介して連體格に立たしめたるものあり。その例

  心づからにうつろふがうさ。

  毛を吹き疵をいふがわりなさ。

  長きよのやみにさへまどはむがやくなさ。

  里近くありとき玉つゝ見ぬがすべなさ。

次には動詞又は動作存在詞連體形を以てそれが、連體格として立たしむるものあり。その例

  さゝがにの絲をたのめる心細さよ。

  よのみじかくてあくるわびしさ。

これは形は普通の連體格の如くに見ゆれど、實はさにあらずして、準體言としてのものが連體格に立てるものと思はる。而してこれを若し述體句とせば「絲をたのめる」「あくる」は準體言として主格に立てりとすべきものなり。然れどもこれは明かに連體格體言との組織によれるものにして述體の句にはあらざるなり。

 感動喚體の骨子たる體言は多くは終助詞「が」「がな」若くは間投助詞「よ」「や」を件ひてあらはるゝものなり。

  ことわりしらぬ我が涙かな。

  流れて早き月日かな。

  うつろひ易きわが心かも。

  しら露を玉にもぬける春の柳か。

  おもしろのけしきよ。

  ありがたの詞や。

  思ひ得たる事のうれしさよ。

然れども、またかゝる助詞を件はぬものあり。たとへば、

  わがせこが衣のそでをふきかへしうらめづらしき秋のはつ風。

  天の原富士の煙の春の色の霞になびく曙の空。

の如し。而して形容詞語幹に「さ」をそへてつくれるものなるときにはことにかかるもの多しとす。たとへば次の例の如し。

  秋はぎをしがらみふせてなく鹿の目には見えずて音の劃や剽。

  夜のみじかくてあくるわびしさ。

  長きよのやみにさへまどはんがやくなさ。

 すべて喚體の句はその句の修飾格として感動の意ある修飾格を件ふことあり。希望の喚體にては

  あはれしりたる人もがな。

感動の喚體にては

  あはれ妙なる笛の音かな。

  あゝげにも樂しき心よ。

  あらおもしろの歌や。

  あつぽれけなげの振舞や。

の如きこれなり。

 以上の喚體の句は主として文語に用ゐらる瓦ものなるが、口語にては如何にと見るに、希望の喚體口語には存せずと考へらる。感動の喚體口語には稀なるものなり。されど、全く用ゐられざるにあらず。今人の口語體文章中に

  幹の中程に一流れながれた海の美しさ。

  一樣な節の間々に「何とかやあい」と一齊に囃す面白さ。

  眺められる月に一點の曇もなく、眺める我が心に一塵の汚もないうるはしさ。

などいへる文をあらはせるは、これ口語にもこの種の句の行はるゝことを證するものといふべし。

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