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2017-09-30

長谷川伸「身辺語録」(『石瓦混淆』) 長谷川伸「身辺語録」(『石瓦混淆』) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 長谷川伸「身辺語録」(『石瓦混淆』) - 国語史資料の連関 長谷川伸「身辺語録」(『石瓦混淆』) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 小説もだが、小説よりもテがコンでいる戯曲の作法を、私はだれからも教わらなかった。教えてくれるような人が近いところに見当らなかったからでもあるが、その日その日の食いかせぎにいそがしくて、先生という人の門をたたく時間などなかったからである。随って今日までの、小説戯曲そのほか私の作品の全部が、"独り勉強"の結果である。これからの作品もまたそうだろう。

 独り勉強のはじめのころやった、ムダ勉強で、今も記憶にあるものの一つに舞台飾りのことがある。後々の舞台飾りの記述とちがい、くろうと用語で書いているので、私などにわかる訳がない。例えば歌舞伎座でやる『|鼠小紋春着雛形《ねずみこもんハルギノひながた》』の大詰、星影梅山、実は泥棒の稲葉幸蔵宅の場の道具飾りが、こう書いてある。

 「本舞台三間の間、常足の二重、向う更紗の暖簾口、上手地袋戸棚明け立て、この上本箱の書割り、下手茶壁、上の方一間の障子家体、二重に唐机、算木ぜい竹易書積み、更紗の蒲団いつものところ、門口下の方、雪の積りし建仁寺垣」

 常足《つねあし》の二重とは何ぞや、向うとは何ぞや、上手《かみて》とは何ぞや、下手《しもて》とは何ぞや、これらを知るためには、芝居小屋で働いているものと知りあいになり、聞いておぽえるのが早い、それでなければその芝居のその場を見て、常足の二重とはあれか、向うとは正面ということか、などと知ることである。私は性癖のいたすところで、知らぬ他人にモノを知るため、下タ手に出るのがひどくきらいであったので、その芝居が出るのを待ちあわせてから知るという方法をとった。時間と手間がかかり、モノによっては月日がかなりたったのにまだわからないことも度々であった。その代り手軽くおぼえたものと違い、手重くおぽえたことは、容易なことでは忘れない。

 もっとも今は芝居に関する辞典類が幾つかあるから、例に引いた道具飾りのどれも、手軽くわかるので、若いころの私のように、ムダ骨を折らないでいいのみか、例に引いた道具飾りの書き方を、今どき書く戯曲作家はいない。その代り「平舞台、廻し部屋の伽、上下塗り骨の障子家体、真中に小屏風立廻し、傍に丸行燈よろしく、流行唄にて道具留まる」などと書いたら、内容がよくても、道具飾りの書き方が災いして、懸賞物なら落選、雑誌投稿なら没になること間違いなしである。

 道具飾りの如きは、昔物語でしかないが、戯曲に出てくる人物の動き、行ない、口から出るセリフ、口から出さないセリフ、等々は、昔物語どころか、今の物語であり、明日以後にずうっと続くものなので、私のおぽえた"独り勉強"の結果を、私どもの勉強の集りで、思い出すに随って、年下の友人たちに写そうとしているのが、勉強の座における私の仕事の一部である。ただしみんなのいう事を聞いていると、拾って収めるべき言葉や話を、ときどき落して置いてくれるので、そういう物は拾わなければ、つぶれて失われるから、私はいただく。もっともこれは勉強の集りのときばかりではない。来訪者の世間話にもそういうことがあり、他人が他人と話している中にもある、それもいただく。

 戦後三年、馬場先門から小川町までの間の電車で、五十近い職人が、江戸の名残りの明治下町言葉で話している、声の抑揚言葉の切りめ、マのとり方、これが素晴らしいので口真似をひそかにして憶え、その晩が更けてから独りでやってみたがくずれがきていてダメであった。しかし、耳の底には残っているのだから、いつか何かでこれを生かして使うつもりである。

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2017-09-29

永井荷風「濹東綺譚」 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 永井荷風「濹東綺譚」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方も「おら」を「わたくし」の代りに使う。説話は少し余事にわたるが、現代人と交際する時、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗る困難を感じる。殊に女の手紙に返書を裁する時「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」となし、又何事につけても、「必然性」だの「重大性」だのと、性の字をつけて見るのも、冗談半分口先で真似をしている時とはちがって、之を筆にする段になると、実に堪難い嫌悪の情を感じなければならない。恋しきは何事につけても還らぬむかしで、あたかもその日、わたくしは虫干をしていた物の中に、柳橋の妓にして、向嶋小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。手紙には必ず候文を用いなければならなかった時代なので、その頃の女は、硯を引寄せ筆を秉れば、文字を知らなくとも、おのずから候可く候の調子を思出したものらしい。わたくしは人の嗤笑を顧ず、これをここに録したい。

一筆申上まいらせ候。その後は御ぶさた致し候て、何とも申わけ無之御免下されたく候。私事これまでの住居誠に手ぜまに付この中右のところへしき移り候まま御知らせ申上候。まことにまことに申上かね候え共、少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何卒御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待申上候。一日も早く御越しのほど、先ずは御めもじの上にてあらあらかしく。

◯◯より

竹屋の渡しの下にみやこ湯と申す湯屋あり。八百屋でお聞下さい。天気がよろしく候故御都合にて唖々さんもお誘い合され堀切へ参りたくと存候間御しる前からいかがに候や。御たずね申上候。尤もこの御返事御無用にて候。

 文中「ひき移り」を「しき移り」となし、「ひる前」を「しる前」に書き誤っているのは東京下町言葉訛りである。

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2017-09-28

和語語頭の濁音 和語の語頭の濁音 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 和語の語頭の濁音 - 国語史資料の連関 和語の語頭の濁音 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

和語發端ニ濁音無シ。況ヤ歌ヲヤ。

仙台間語「朝板」)

「ことならば」に関連して。

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2017-05-10

[]「大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて」(矢田插雲「大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて」(矢田插雲) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて」(矢田插雲) - 国語史資料の連関 「大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて」(矢田插雲) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて、歯ぎれのいいかわりに──むしろその必要からであろうが──荒っぽいごとも、気早なこともまた、この上なしである。昨今の東京弁は、芸妓が代表しているか、女学生が代表しているか、ないしポット出の看護婦が、代表しているかわからないが、

「アラ、とても随分だわよ」

というような言葉が、横行しているものと思えば、間違いはない。旧幕時代の武士階級は、それぞれお国のなまりはあっても、大体において、「ござる」言葉で統一されていた。

 純粋の江戸ッ子にいたっては、木場の旦那でも、蔵前の旦那でも、やはり武蔵野に吹く、空ッ風のような、荒い言葉を用いた点では、大工か仕事師と、大差はなかった。虫も殺さぬような顔をした芸妓なども、「あいつ」とか、「こいつ」とか、平気でいっていたそうである。

 その荒っぽい江戸弁も、武士の前では、特別にていねいにするならいであった。武士に「無礼者ッ」と認められることは、オオゴトであったからである。.

 平生ていねいな言葉を使いつけない職人などが、旗本の座敷へ通されて、急によそいきの言葉を、しぼり出す時のおかしみを、今でも落語家が話して聞かせる。しかしこれは、客の錯覚を利用した筋であって、実際上では、どんなにそそっかしい職人でも、武士の前へ出て、

「そうでございます」

「こうでございます」

くらいの程度に、言葉をつつしむたしなみはあった。

 ただここに誰の前へ出ても、決して言葉を改めない──或いは改め得ない階級が、一つあった。

それは深川の、漁師言葉というものであった。日本全国どこへ行っても、漁師の言葉が、放胆蕪雑《ほうたんぶざつ》なのは一律である。なぜに漁師言葉が百姓言葉よりも荒々しいかというに、漁師は板子一枚に命を托し、荒い浪風の中で物をいいつけるせいでもあろうか、充分わからないが、江戸の漁師町たる深川の住民も、普通の江戸ッ子が、腰を抜かすほど、荒っぽい言葉を用いる特権をもっていた。

 永代橋界隈、黒江町界隈の漁師町が、-いつしか海と縁が遠くなり、昔の漁師の子孫が、多くは剥身屋《むきみや》にかわって後も、漁師言葉だけは、少しも変らずにつづいてきた。番町辺へ出入りする八百屋、魚屋、小間物屋などが、言葉丁寧に、腰も低くしたのに反し、ひとり深川の剥身売りだけは、大家の門番だろうが、用人だろうが、

「剥身買わねいか」

「負かるものか、腐った剥身だって、そんな値には買えねいぞ」

というようなぞんざいなー時には、ぞんざい以上なタンカをきって、人も怪しまず、自分も恐れぬ特権をもっていた。

 旧幕臣であった老人などは、今でも、

「あればかりは治外法権でした。聞いている方でも、別段腹が立たず、かえって小気味のよいタンカに聞き惚れて、しまいには、ふき出してしまうこともありました」

と思い出話をするほどだから、よほど乱暴な、物言いをしたものらしい。昔からいろいろの株があるうちで、これなどは利欲にかかわらない、面白い株である。

矢田插雲江戸から東京へ』七 中公文庫p.285-288

「平生ていねいな〜たしなみがあった」 田中章夫『東京ことば』p.50所引

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2017-01-01

[]「言葉が汚くなりました」(田辺茂一「言葉が汚くなりました」(田辺茂一) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「言葉が汚くなりました」(田辺茂一) - 国語史資料の連関 「言葉が汚くなりました」(田辺茂一) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

町立の学校には、一年しか在籍しなかった。二年からは、大久保にあった私立高千穂小学校に転入した。

「茂《しげ》は、この頃、言葉が汚くなりましたからネ……」と母親が父に相談したのである。街の子供たちとの交流で、自然とその感化をうけるということが、ハッキリしたからである。

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