青木正児「漢文直読論」

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青木正児「漢文直読論」

青木正児

 二百餘年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した、―漢學の教授法は先づ支那語から取かゝらねばならぬ。教ふるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、譯するに日本俗語を以てし、決して和訓廻環の讀方をしてはならぬ。先づ零細な二字三字の短句から始めて、後には纒まつた書物を讀ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同樣になつてから、而る後段々と經子史集四部の書を讀ませると云ふ風にすれば勢破竹の如しだ、是が最良の策だ。筌

  (著者後記) 徂徠の著譯示蒙にも同説が述べられてをる。

 それは今日から見れば珍とするに足らぬ當然の論だ、併しかの時代に在つては實に天馬空を行くものであつた。さうだ、今では平凡な説だ。併し爾來二百年、未だ其の實現を見ないのは何と云ふ奇怪だらう。人は支那を保守的の國だと評價する、そして我國は如何だ。いや決して我國全部とは云はぬ、所謂漢學に育てられた人々の頭は如何だ。波に殘された磯邊の章魚坊主のやうな慘めさは、笑止と云はうより寧ろ滑稽ではあるまいか。僕は曩に文學革命を敍し、長廣舌を振つて支那國民の保守的で無い一面を紹介した。そして振顧みて我が章魚坊主を見る時に、其處に腹の底を探られるやうなアイロニー成立つ。馬鹿な! 汐時は沖の鴎に問へと云ふのか。

 前述の徂徠の説は愧し乍ら現代に在つても尚ほ我國支那學研究法革新の第一歩たるを失はぬ。徂徠は右の理想説を一歩讓つて第二等の案を出してゐる。それは―併し支那語は世に未だたいして流布してゐないから、寒村の不便な人々の爲にと割引したものであるがーー和訓素讀を十分にやらせてくだ/\しい解釋に依らず、讀書百遍意自ら通ずる的の方法を以てす可きを説いてある。それは兔も角、吾が漢文讀書界の現状が未だ徂徠の居謂「寒村」の状態に在るのは如何にも残念だ。

吾々は今やさびれた「寒村」から交化燦然たる「都會」へと進まねばならぬ。長い/\一千年の眠りから醒めねばならぬ。

うつら/\とまどろんでは居られない。そして其れは平凡な方法だ、上瞼と下瞼とをちよつと離せばそれで好いのだ。吾々が眠りに入る前に目を見張つてゐた、あの状態に戻れば好いのだ。漢學渡來、應神の其の上に歸れぽ好いのだ。盍んぞ其の本に歸らざるだ。復古だ。根本的の復古は一面新しい意味を持つてゐる。吾々は疲れたから眠つてゐた、睡眠は疲勞を回復する、吾々の眠は最う足つた。吾々は眠に入る前よりも一層快活であらねばならぬ。

  (附言) 漢籍支那音直讀説は徂徠の後を受けて門人太宰春臺が合槌を打ち、其後、徂徠學派の人々の持論として圭張されたが彼等と別に單獨に其の説を唱へたのは徂徠と同時の雨森芳洲であつた。彼は支那語朝鮮語を能くした。其の隨筆たる「橘窓茶話」中所々に其の説が見えてゐる。

 漢文訓讀法は、應神の朝(西紀二八五)に王仁が百濟から渡來して經を講じ初めた頃から既に存したらうとの説を立てゝゐる學者がある。松下見林()本居宣長()日尾荊山等がそれだ。荊山徂徠學派の讀法革進論、主として太宰春臺の「和讀要領」に反獨し、「訓點復古」を著して頻りに國粹説を唱道した。其説は牽強附會な寔に噴飯に堪えぬものが多い。根本に於て漢文が外國文たることを度外視した、頑冥極る不徹底な立論である。彼が王仁訓讀説の如きも其の論點は『彼此域を同うせざれば語も亦自ら異なり、語異なれば必ず譯を俟て而後意義始て通ず。………もし譯言もなく空しく或は漢音、或は呉音、又は百濟の音にのみ傳へたならば、今の僧徒の陀羅尼を誦し、蘭學者の蘭書を聞くにひとしく、何の益有る可からず。』()彼の見當は的を外れてゐる。彼は外國文の研究に「音讀」と「譯」と「解釋」との三段の順序あるを知らなかつたらしい。勿論王仁の時と雖も「譯」は有つたに違ひ無い、併し吾々の問題は「譯」に先立つて先づ「音讀」が行はれたことを認めるか否かに在る、荊山の所謂『蘭學者の蘭書を讀む』が如き方法の存在してゐたことを推定するに在る。太宰春臺の考は『王仁始て吾國の人に書を授けし時は、倭語の數も少く、王仁異國の人にて、此方の言語に通ずることも難かるベければ、只異國の音にて、異國の讀を教るに過ベからず』()と云つてゐる。湯淺常山の「常山樓筆餘」()や伊地知季安の「漢學紀源」()なども同説だ。要するに漢文渡來當初の講習法が直下音讀を先にし、後に之を譯解すること今日吾人が歐文講習の法と同樣であつたらうと云ふ想像は、多分誤りの無い見當であらう。

 では音讀に依らずしてうちつけに訓讀の法を以てし始めたのは何時頃だらうか。其れは容易に推定出來ない難問だ。或は吉備眞備に始まると云ふ説を立てゝゐる者もある。雨森芳洲()太宰春臺()など此説に據つてゐるが、それは眞備が片假名を作つたと云ふ傳設から案出した附會の説だ。又聖徳太子に始まるとする説や、菅家に起るとする説がある。()

菅家に起るの説は考へ得らる可き可能性があるが、聖徳太子や眞備程の支那學者訓讀法に依つて漢文を讀むことを教へたとは考へられぬ、必ず彼等は音讀の後之を和譯するの法に依つたに違ひない。此の樣な問題は單に一片の不確實な記録や、一局部の觀察から思ひ付いた臆測によつて論定される筈が無い。確かな現物が見出さるれば格別だが、さうで無い限づ大局から見て大勢を推定するより外に道はあるまい。僕は之を漢文學隆替の歴史的波状線と結び付けて觀察して見たい。僕の推定では、音讀法は應神以後、平安朝の初期まで(唐との交通が盛に行はれて大陸文明がどしz輸入された時代までは)廢れなかつた事と思ふ。多少具體的な例を出して見れば、「令集解」學令の『先讀2經文1』の條下引く所の『古記云、學生先讚2()經文1、謂2読経音也。次諌。り鍵鬆聲然後講義』云々の註、及び「考課令」の邏士』の條の註に『或云・帖所讃者轢耳、』とあるを考ふるに、此説がもし根據の有る正しいものとするならば、令の出來た大寶もしくは養老頃の大學では音讀が行はれてゐた事になる。且音博士まで置いて讀音を正したほどだから大抵音讀してゐたらう位の想像はしても差支無からう。又桓武天皇の朝に、明經の徒に詔して五經の讀音を漢音に一定せしめられた()と云ふことも、訓讀を主とするものならば敕令で定められる程音を重大視しなくともよかつたでは無いかと思はれる。

 訓読が專ら行はれるに至つた時期は、所謂「袁古登點」の發生と關係があるやうに思ふ。所が袁古登點の發現期が極めて不明瞭だ。袁古登點には菅家・江家・其他諸の寺院に傳はつたものが現存するが、之には菅江二家が學柄を執つた事と密接な關係が有りはすまいか。果して然らば其の發生は平安朝の中期以後と推定される。袁古登點の發生は訓讀が勢を得ると共に自然の要求から促されたものたることに異論はあるまい。そして其れはやがて音読の衰亡を語るものだ。之を大局から見るに、宇多の朝に(西紀八九四)菅原道眞の議に因つて遣唐使が發せられてから、我國固有の文學は發達に向つたが、大陸文明は次第に影がうすれ始めて漢學は大打撃を食つた。すべての文明が餘程日本的となつて來た。此の時代訓読とそれに必要な袁古登點が行れ始めたとの想像は大して不自然であるまい。漢文訓讀法も年と共に段々音を減じてを増し、「朗詠」に當時の名殘を止めてゐるやうな、漢文的の感じの極めて少い読み方となつて了つたものであらう。

 茲に一顧して置く必要のあるのは、推古朝の遺文として有名な「藥師佛造像記?」()等の和習の漲つた漢文の存在することである。佐藤誠實は之を證左として當時既に音訓を雜へて漢文を逆讀してゐたと論斷してゐるが、()僕はさう見ない。あれは本來日本語で書きたい所だが、悲しいかな適切に表す可き國字が無いので、止むを得ず漢字を借りた迄だ、勿論當時音讀の外に其文字に獨する譯語は存してゐた筈だから、其の譯を逆用して彼の文を製作したものだと思ふ。若し佐藤氏の説の如く音訓を雜へて逆讀してゐたものと假定するならば、文字文法的位次は當に今日吾人が漢文を作るに際して爲すが如く(多少轉倒の誤は有つても)大體に於て漢文法に從ふ可きである。併しかの文にはわざと和語文法に從ひ、力めて日本語を其まゝ寫さうとした形跡がある。例へば『大御身勞賜時』『我大御病大平欲坐』『大命受賜而歳次丁卯年仕奉』の如きだ。此の文は訓讀と云ふよりも寧ろ和讀するやうに作つたもので、之を以て當時漢籍を讀むに、音讀によらずして打ちつけに訓讀してゐたことを推理する證據とするのは早計であるまいか。「古事記」などに關しても僕は右の場合と同樣に考へる。漢籍の講究とは問題が別だ、漢文の應用たるに過ぎぬと思ふ。

 平安朝に鳴らした菅江二家の後裔も、鎌倉室町期に入つては粟田口儒者として凋落の名殘を留めつゝ、迂遠な朗詠句調で漢文訓讀してゐた事であらう。併し一方五山文學の興隆と共に、元明の僧も來てゐるし、此方から留學の僧も少からず、當時の支那音たる所謂唐音を論入してゐる。恐らく彼等の間には、漢籍唐音を以て直讀するの法が復活して來たと思はれる。併し一般には平安朝風な極端な訓讀が行はれてゐたらしく、それは徳川の初期に林羅山が出て所謂「道春點」なるものを附した折まで其の形跡を留めてゐる。袁古登點に代るに現今の如き訓點符?を以てしたのは鎌倉期かららしい。平安末期の記録たる「中古記」などに天子の御書始の事を記してあるを見るに、猶ほ袁古登點を用ゐてゐる。所で鎌倉期寫本嘉元二年』の奥書ある丹鶴叢書本「日本書紀」の訓點法を見るに、徳川以後の法に比して未だ完備せざる幼稚な法で、且袁古登點らしいものが混用されてゐるのは、確かに其發達の徑路が其過渡時代に在るものと見俶される。()江村北海などは「遊仙窟」の後序に嵯蛾天皇の時學士伊時が遊仙窟訓點を木島明神で神仙から授かつたとあるを信じて、それが現存の「遊仙窟」の訓點だと斷じてゐるが()取るに足らぬ妄説だ。

 さて「道春點」は山崎闇齋の「嘉點」となつて稍Z假名付けが少くなり、其の後段々と音を増してを減ずる傾向となつて來たが、途に徂徠に至つて音を主とし、は之を補ふ程度の読音法が行はれ、始めて唐音直讀の進歩した考へさへ唱へらるゝに至つた。其後の傾向は徂徠系統を辿るもので、以て今日に至つたのである。之を以てかの古式の(音訓二重の)訓點法例へば「遊仙窟」や淺見絅齋の「楚辭」の解釋本の訓點法などに比すれば實に隔世の感がある。

 上來述べ來つた訓點略史から僕はかう云ふ歸結を得た―漢學の盛んな時には音讀に傾き、衰へて來ると訓讀に碎けて來る。で漢學をして最も隆盛ならしむるには全然音讀に依る事が必要だ。

  〔附言〕近世學者中にも支那音をよくして直讀してゐた人がをりzある。水戸の今井小四郎?(事は雨森芳洲の「橘窓茶話」に見ゆ)歸化僧獨立?に師事した高玄岱?(先哲叢談)等は明に支那音直讀をしてゐた徴がある。雨森芳洲も其一人であつたらしい、其門人に教ふるにさへ唐音直讀を以てしたと「橘窓茶話」に自記してゐる。

 訓讀讀書に害あることは今更云ふ迄も無いが、併し世には未だ頑冥な日尾荊山輩と同樣な迷夢を抱いてゐる人が往々あるかも知れぬから、茲に二三の要點を指摘して置きたい。

 (一) 訓讀讀書に手間取つて、支那人同樣に早く讀むことが出來ない。是に關して音讀は幾ら早く讀めても小僧が經を讀むやうで意義が解らないでは無益の沙汰だと云つてゐる人もあるが、それは音讀の罪で無く、罪は讀者にある。吾人は今日歐文を學んだ經驗や支那俗文學を讀んだ實驗から、此くの如き議論の最早問題にならぬ事を知つてゐる。

 (二) 訓讀支那固有の文法を了解するに害がある。何となれば訓讀の結果日本文法に囚はれ、是を以て彼を束縛せんと欲する弊に陥ることが往々ある。失禮乍ら一二先輩を槍玉に揚げさせて貰ひたい。廣池千九郎氏の「支郡文典」に「有」の字を動詞とし「無」の字を形容詞として説いてある。「有」「無」は相対照する語で、文字其物の文法的性質は当に同樣である可き筈だ、何處に區別を設ける必要があるか。共に本來は動詞であるが、轉じて主として助動詞に用ゐられてゐる語だ。廣池氏が此のつまらぬ誤をした源を察するに、日本文法から來てゐる。日本文語では「有」は「ら、り、る、れ」の語尾の變化を取つて、動詞的に働いてゐるし、「無」は「く、し、き、けれ」の語尾の變化を取つて、形容詞的に働いてゐる。それは語尾の變化を本とした形式的區分だ。併し語尾に變化無き漢字にそれを適用するの非なることは議論の餘地が無い。次に兒島獻吉郎氏の「漢文典」に「將」「未」「宜」「當」「不」「可」「豈」「|焉≪ナンゾ≫」「|何≪ナンゾ≫」「敢」等當然副詞と見る可きものを助動詞として説いてある。其の誤謬は大槻氏の「廣日本文典助動詞の説から迷はされたものと推定される。日本文法としては大槻氏の説は正しい、只是れを漢文法に拜借した兒島氏は思はざるの甚だしきものである。成程和訓では「將に―せんとす」「宜しくーすべし」「未だーせず」とじて「す」「べし」「ず」の如きは動詞を助くるの用を爲してゐるが、漢文法

としては「將に」「宜しく」「未だ」の意義に中心を置く可きで、只是は動詞に副うて動詞意義を|限定≪クオリフアイ≫してゐるに過ぎぬ。「既」と「將」との間に品詞上の區別は見出されぬ、當然是等は副詞と見る可きである。右二家の談は訓讀が累を爲した最も哀れむ可き犠牲だ。此の外是に類するもつと噴飯に堪へぬ誤謬は吾人が折々學生などの口から實見する所である。

 (三) 訓讀意義の了解を不正確にする。訓讀が隔靴掻痒の感があるのは云ふ迄も無いが、甚しきに至つては實際了解出來てゐない事を自分には解つたやうな幻覺を起す場合がある。何故ならば所謂なるものは多く古語で、中には現代一般には通用し難いものも少なからざるに關らず、それが日本語である爲に解つてゐるやうな氣がする。例へば副詞「轉」は「うたゝ」とじ「坐」は「そゞろ」とじてすましてゐる。そして其の意義を問へば答へ得ない學生が少くない。「苟」は「いやしくも」とじ「かりそめ」と譯して、接續詞として「若」に近き用法なる場合と、副詞として「苟安」「苟全」の如く「聊且」「粗略」の意義の場合とに頓着なく讀過して了ふ。此の如きは半ばは教ふる者の罪であるが、半ばは訓讀の罪で、日本語になつてゐる爲に了解出來たやうな氣がして、強て疑問を起さないのだらう。是は歐文直譯の場合にも同樣な現象はあるが、漢文に於てはことに此の幻覺を引起すことが多い。又「嵐」を「あらし」とじ「霞」を「かすみ」とずる如き古人の誤は別として、古人は正しくじてゐて、古代に在つてはよく了解出來たも現代に於ては我が古文學研究者でなければ解り憎くいが少く無い。例へば「嘯」を「うそぶく」とず、王朝の物語などにも「口笛を吹く」の意に「うそをふく」など見えてゐて、本來此は「嘯」の字義に適切だ。併し之を中學卒業程度の學生に就て實見して見るに僕は今日まで一度も正解を得た事が無い。そして皆解つてゐるが判然しないと云つたやうな氣分でゐるらしい、それが古訓に囚はれた幻覺だ。此樣な例は今一々枚擧の遑が無い程ざらにある。そんな解りにくい古言で一度譯して、更に現代語に重譯するやうな面倒な手數を掛けてゐる隙に、音讀から直ちに現代語に譯するが賢い方法では無いか。

 賢明な讀者諸君は右の如き解り切つた事柄の列擧を長々とされることを迷惑に思はれるであらう、僕も厭やだ、更に一歩進まう。さて直下音讀の法を採用するとして、漢學界の現状を念頭に入れて如何に立案したら好いだらう。勿論第一案としては篇頭に掲げた徂徠説の支那音によるの法を採る可きだ。只厄介なのは標準音を何れの地方に取るかの問題である。先づ北京音に據る可しと云ふことが常識的に考へられるが、併し北京音は入聲が無くなつてゐるから古書を讀むのには音韻上遺憾無き能はず。寧ろ南方の音で古音に近い地方の音を採用するか、最も理想的としては古音の研究をどし/\進めて古音を復活することだ。併しそれは云ふ可くして容易に行はれまい。兔に角、支那でも目下讀音の統一と云ふ事が識者間の問題となつてゐて、頻りに研究されつゝあるから、將來何等かの適當な標準音を見出すことが出來やう。

 過渡時代に於ける第二案としては從來の漢音呉音何れかに據るの外はあるまい。比較を歐洲に於けるラティン語の讀音に取つて見るに、現今に於けるラティン語は死語であるから讀音に嚴格な標準は無い、凡そ大陸風の讀方と英國風の讀方とあるが微細な點は人々の自由だ、皆其の國語發音法を本として讀んでゐると云ふことだ。果して然らば吾々が支那古文を讀む場合もラティン語と同樣に考へる事が出來る。ラティン語のイタリヤ語に於けるは猶ほ支那古文支那現代語に於けるが如く、ラティン語のイギリス語に於けるは猶ほ支那古文日本語に於けると同樣に考へ得られる。もつと近くの例を取つて見やう。日本と同一語族に屬し、相近き文法を有する朝鮮では如何に漢籍を讀んでゐるか。雨森芳洲に從へば()彼の地では朝鮮訛り漢音直讀してゐる、それ故訓讀による日本人より遙かに漢籍を読むに便利を得てゐると云つてゐる。して見れば吾々は古來傳へ來つた漢音若くは呉音によつて支那古文を讀むとも差支は無い筈だ。只支那音に比して遜色あるは、四聲の別が明らかに發音出來ない點だ。入聲の韻「k」「t」のみが明瞭なばかりで、同じ入聲でも「f」の音は假名遣ひに名殘を留むるに過ぎぬ。陽(平)養(上)漾(去)葉(入)の間に何等發音上の區別は見出されぬ。かくては詩に最も必要な音律的妙味は如何しても會得することが出來ない。思想方面の研究には差支無しとしても、言語の音樂的美感をも併せ見る必要のある純文學の場合には遺憾至極と云はねぽならぬ。(それにしても詩の句調や脚韻の美感だけは享樂出來るから訓讀に勝ること數等だ。)此缺點を除いては在來の漢音呉音による音讀法も、かつ/゛\支那音讀に近き効果を收めることが出來るかも知れぬ。

且つ國語との連絡を取る爲には漢音を主として呉音を併用すれば却て利益があらう。併し僕の理想を云へば國文からは一切漢字を驅除して適當な假名文記載法を定め、(ローマ字でもかまはぬが、假名一音に対してローマ字は大抵二字を要する不便がある)漢文は全然支那音讀に依り、漢音呉音は之を古音として皇國古典研究者たる特殊の人々の手に委ねて了ひたい。

何れにしても直下音讀は目下の急務だ。現今支那學專門家の大多數が、無意識の間に直下默讀を行ひつゝあるは吾々の經驗から推測出來る。併しともすれば、視線が轉倒したがる。更に一歩を進めて之を音讀に及ぼし、目もロも頭も轉倒しないやうに習慣を付けたら、讀書力が大いに増進するに違ひ無い。(大正九年十月)

  (補正) 上文の讀方の沿革を略敍したうちに、訓讀平安朝から始つたやうに推定して置いたが、實は奈良朝以前既に訓讀した形跡のあることを其後内藤湖南先生から承つたから補正して置く。先生の談に『高山寺に「玄奘三藏表掲」と云ふ古寫本がある。裏に天平何年かの年號があつて、表の寫字はそれより確かに古いものと思はれるが、それに訓點がついてゐる。又た大矢透氏の話では正倉院の古經中にも訓點を附けたものがあつて確かに寫經と同時代のものと思はれると云ふことだ。して見れば奈良朝以前から訓讀は有つたに違ひ無い。無論、遣唐使の盛んに渡航した頃は音讀してゐたことは確だが、其以前既に訓讀の一法も開けてゐたと見ねばならぬ』。愚考では其の訓點が果して當時のものか或は後世附したものでは無いかとの疑問もあるが、それは専門的の研究を要する事項で、門外漢の余として輕卒には手が出しかねるから、姑らく先生の説を記して余の説を補正して置く。(昭和二年三月二日校了──著者)

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。