関政方

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関政方

政方 漢學者國語學者

姓名】初め關藤氏、後、關と改む。通稱立介、字は士常。政方は政三千・政御路、萬沙御路.磨沙密などとも書く。

【號】鳧翁・葭汀・嘉平田舎?

【生歿】天明六年十二月生れ、萬延二年(二五二一)正月二十二日歿す。享年七十六。

【墓所】備中國小田郡笠岡町古城山(舊名「海松岡」)

【閲歴】備中小田郡吉濱の人、父は關藤左京政信と云ひ.同地の神官である。政方は若年の頃京都へ出でて村山伊豆守に從つて醫學及び漢學を修めた。後郷里へ歸リ、そこで一生を終つた。又本居宣長・同春庭(各別項)等の書に依つて國學を修めたが.國學は獨學であつたやうである。

天保十三年の秋から東條義門(別項)と交り、頗る親しかつたが、間もなく義門は歿した。

著作傭字例一卷一冊(天保十三年刊。ン・ムの別を研究し、漢語から轉訛したと思はれる國語について論じたもの。蝉《せみ》・文《ふみ》・樂《みみらく》支那・近義《こにしき》・灘《なだ》等十五語について論考し.せみ・ふみは蝉・文の字音から出來た語でないとしてゐる。なほ附録として「漢呉音圖」(別項)に依つて芭蕉《はせを》・杲《かほ》・鍾禮《しぐれ》等十二語について説いてゐる)

傭字例評辨一册(これに二部ある。一は東條義門が「傭字例」を批評したのに答へたもの.一は江戸の某氏の批評に答へたもので.共に「傭字例」の補遺とも見るべきものである。兩書共天保十三年の冬脱稿。なほ本書の奧に或る人の問に答へて因高《いもこ》・淡等《たびと》・宇合《うまかひ》・賀能《かどの》について記してゐる)

聲調篇二卷(別項)(天保十一年成)

男信質疑《なましな 》一卷(「聲調篇」の附録として附いてゐる事もある。「男信」(別頂)について疑はしい所.誤りと思ふ所を記したもの)。

【業績】政方著述は大體以上の如く.漢字の音韻に造詣深く、その方面から國語の研究をなしてゐる。就中、「傭字例」は義門の「男信」(別項)と内容に於て相通ずるものであるが(兩者は別々に研究したものである)、男信の缺を補ふ點もあり、國語學上に貢獻するところ少くないものである。          〔龜田〕

【參考】關鳬翁の傳 井上通泰(藝文一)

義門上人政方大人 岡井愼吾國語國文の研究六)

http://blog.livedoor.jp/bunkengaku/archives/26002982.html

マサカタ 政方(關) 備中の歌人。字は士常。鳧翁、葭汀、嘉平田舎と稱し、萬延二年歿す。年七十六。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kensaku/hagayaiti/haga0922.html

『関鳧翁伝』?(笠岡市教育委員会)


 セキフヲウ 關鳧翁 儒者、本姓は關藤,後略して単に關といふ 名は政方、字は子常、備中国小田郡吉濱の人なり 関藤政信の子にして、鴻儒關藤藤陰の長兄なり 通稱は立介、葭汀と号す 此号は蓋し吉濱の二字を漢譯したるものなるべし 嘉平田含、鶏頭樹屋とも号す 自詠の短册には政三千、政御路など記せるものあり 名の政方より来れるならん 晩年鳧の羽衣を製して之れを着しよりて鳧翁と号せり また一説には鳧翁といへるは 翁かつて衣服を染め模樣を附けなどするは無用の虚飾なりとて白木綿のままにて之れを裁ち縫はせたるが其の色の似たればとて鳧翁と名づけたりといふ 萬延二年正月二十二日歿す 年七十六、辭世の歌に、「わが魂のゆくへはいづく白雲のかからん山の松の下蔭」とあり 遺命により笠岡町古城山下松林中に葬る 政方壮年医を業とし依田利用に學び學和漢を兼ね殊に和歌を能くす.其の著に拝學問、聲調編,及ぴ傭字例一巻等あり〔岡山県人名辞書

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/daijinmei/se/se022.html

三木幸信義門雑考 三 関政方」 『女子大国文』27 1962




関藤藤陰は弟。

書籍からの画像で注記のないものは、著者の著作権が切れ、刊行後五十年以上経っているものである筈です。