長音符

国語史・日本語史周辺(日本文学・日本史・言語学などなど)の覚書です。
最善の説を記録しているものではありません。変な説も記録しています。
書誌として不完全です。
項目の形に規準はほとんどありません*
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長音符

四、長音符

  阿の引聲にはア、伊の引聲にはヒ・イ又はヰ、宇の引聲にはフ又はウ、江の引聲にはイ・エ・ヱ又はへ、於の引聲にはフ・ウ又はヲを用ひるのは古くよりであつて、伊にヒ・ヰ、宇にフ、江にエ又はへ、於にフ又はヲを用ひるのは、音各自の變遷消長に関係のあることで、其研究は、現在の方言の力に依るべき點もあらうが、亦文字に殘つてをる上、殊に言ひかけ及地口的の俳諧歌落首等に頼むべき點もありませう。信憑すべき文學、外国人記録などといふ結構な材料の有る分は格別、其力の及ばぬ所では、此言ひかけ俳諧歌などは、實に貴い材料であらうと思ひますが、是等から考へて、一々各音の變遷に関する推論を申して居りましては、餘に長くなりますから省きます。

 斯く是等長音符平仮字文の中に、平仮字でなく傍仮字を以て表はす事は丁度促音符ツと同じ徑路を践んで、元禄以後になって始まって來ました。巣林子?の日本振袖始?に。

 女め、よふほうげたたゝいたなア。

と見えてをります。然し、必すしもさやうにのみ書いたのでは無く、又

 よふ、妹をつれてきて姉の懸の上荷はねさせたなあ。

とも書いてある點も、促音符ツと、全く同一軌に出てをります。右の書は、享保三年出版の丸本でありますが、注意して探したならば、元禄頃の院本にも有るであらうと想ひます。阿音以外の長音符には、エヽの如く、同種の仮名ばかりで表はしてあるものの外には見當りませぬ。加ふるに、此エヽは、長音で無いかも知れませぬ。

 此法は、最初は院本にのみ限られて居つたやうである炉、漸く其範圍を廣めて來まして、安永出版咄本には、

かゝア/\錢百くれ 今歳咄

旅でも、ひもじうないといなア 膾順會咄献立

とも見え、稍後れて、寛政十三年出版滑稽好には、

 龜壹ツやらねエか、

 いたすだらうのウ引、

 草アくらやあがれ、

等阿以外の引聲のも見えてをります。啻に咄本ばかりでなく、又浮世雙子にも用ひられて、明和五年に刊行せられた浮世町人形似に、

 その百雨をちやアふフと出るもくろみか、

とあるのみならす、

洒落本にも採られて、明和出版せられた辰巳の園に、

 アヽこりやア不細工なもんだ、

 サア新さん、めエリやせう、

などと書いてあります。肖前にあげた廓節用などにも、多くの例はありますが、一々擧げる必要もありますまいから、略しておきます。偖。伊の引聲に此法を用ひたのは、見ないやうであります。

 以上述べて来た、長音符は、いづれも音によって変りまして、全音に通じた音符ではありませぬ。で是から少しく、全音に通じた音符を御紹介致さうと思ひます。

 先第一に、引字を書いて是を表はす法がありました。前に引用したる滑稽好の、第二例にも見えてをりますが、尚同書に、

 そんなら、どけヱかう引、

 呑たくは五合とつてかう引

とあります。此法は元禄十六年に難波で版行せられたかる口御前男にも出てあります。

 見物一どうに、ふあ引とわらひける、

が、然し、其位はれてあるものは、他には餘見當りませぬ。斯く引字を書き添へてあるのは、殊に別段長く引く事を示したもので、是は謠ひ物の、節に記した心おぼえから出たものらしく、謠曲の本を見ますと、屡此心おぼえに行きあたりますのみならす、平家物語の節付本を見ると。

 暮る程とは侍れけれど引も

 寶物集といふ物語を、かきけるとぞ聞へ引し

などとあり、又、淨瑠璃の丸本にも、随所に見えてあるのであります。


 第二に、垂直線を以て此音を示したもので、今迄申して來たものは、皆音符名づけるには、如何と思はるゝ點の無いでも無かったが、茲に到って、純然たる音符の名を冠らす可きものであります。是に二種ある、一は垂直線を側附けるので、一は是を下に引くのであります。側線を以て表はす法は、白石先生の東音譜に出て居りまして、

送聲  送聲者送気聲也不可混餘聲本音不轉以送其氣、即送聲也

アイウヱヲ  カキクケコ ワイ ヰイ エイ ヱイ ヨイ

などの類ではありますが、他に此音符を用ひた書物は、無いやうであります*1

 次に下に線を引くのは、古く中山忠親卿の日記山槐記に出てをりまして、同記治承二年正月十八日の條に、

的懸 マートーカケ、如此仰也、マ字卜字間長、ト字カ字又同.カケ字、サカケサガリ音ニ、引ツヽケ仰也 不召的懸名、

とありますが*2、同書中にも此一句のみで他の場所には見えませぬ。降りて徳川時代に入りては、華夷通商考の中に、西洋語を寫す際に限り用ひてをります。其も、

 ラーウ チヤーウ

の二で、其他には有りませぬ*3。して、右二例に見えますとほり、何れも阿の引聲ばかりでありまして、他の引聲には、

 ロウマ アガビイグ

などとあります。而して阿の引聲でも、右二例の外は。

 タルナアタ サラアタ

の如く書いてあります。是に次ぎまして、寛政十年の序のある西域物語にも西洋語を寫すに、此|符が用ひられてあります。本書は本多利明先生の書かれたもので。

天といへば一字にて、彼の國にて、ヘーメルといへば、四字となり、地といへば一字にて、アールドと云へば四字となる、

などと出てをりまして、本書には、どの引聲でも、例外なく|符で表はされてをるやうであります。其他桂川甫周先生譯の魯西亜志小宮山昌秀先生譯の鎖國論文化八年)、及嘉永元年に版になつた西洋雜記?などにも見えてをりますが、何れも西洋語を寫す場合に限られてをります。斯様に、|符は山槐記を除いては、西洋語を寫す時に限り、且旁仮名の中にのみ用ひられ、餘の所に使用せられてあるのは、未だ見ませぬ。



吉澤義則「本邦音符考」*

*1:これを長音判断した根拠不明。

*2http://books.google.com/books?id=eXUJmn_bTJ8C&hl=ja&pg=PT129#v=onepage&q&f=false

*3:これは、長音ではなく、「ワル」注記と見做すべきもの。岡島昭浩「近世唐音の重層性」所引の寛文十年慈悲水懺法所收「国字旁音例」参照。

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。