逸見又一

国語史・日本語史周辺(日本文学・日本史・言語学などなど)の覚書です。
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逸見又一

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/daijinmei/hoi/hoi088.html




校正

 ヘンミ  マタイチ 逸見又一 勤王家、越中

金澤藩士、季衡の子、文政八年八月一日生る諌は左縄、石

字は有秋、方舟、紡齋と擁す通稽文九郎また又一と稔す

始祖内匠頭重綱、飛騨高原城主たり足利義樹美濃、飛騨

工國の齪を鎮定せんため大兵を率みて攻め来るや重綱抗

闘屈せず軍途に利あらず重園を衝きて越中三本松に逃れ

て澤田孫右衛門と稽す五世久左衛門高岡に来り逸見を以

て氏となす子孫市長となりて邑務を総管し別に藩主前田

氏より倉庫業を許可せらる即ち當時藏宿と稔し農民より

領主に納むる分米の受入及び梯下げをなせり世之れを高

原屋と稻す又一性寛厚、沈毅、細心周.到にして・衆望を負

ふ幼より學を好み朱子學の研鑛に没頭し造詣する虎頗る

深し長崎浩齋、津島北湊、高峯塊所、佐渡裸齋、坪井柊

里、松田逸齋等と共學舎を離して子弟に教授し大槻盤

渓、東條蓼藍、齋藤拙堂、大塵軍人郎等と親交を結ぶ當

時高岡に山本道齋ありて昌拳蟹及び山陽塾に學び長崎

於いて猫人シーボルトに就いて西洋賢徳を修めて帰郷せ

り又一類三樹三郎等と共に尊王の大義を唱へて他日を期

する虎あらんとせり又一、鴨涯の露京後幾度も上京して

各所に遊び篠崎小竹、梁川星巖、藤井竹外、日根封山等

の如き詩人書家と相識り且つ鴨涯と親交ある諸藩名士に

面會せり爾後文人墨客の北陸に来遊するもの漸く多く或

は尊王撰実説を鳴へて藩の忌避に濁れ脱藩し来るものあ

れば能く之を庇護し或は族費を給し添書を輿へて富山、

越後に赴かしめたり散に高岡奉行漸く族人の滞在た注意

せり而して鴨涯の縛に就くまで文通を絶たず上洛の時頼

支峯と集鶴櫻に飲み詩中鴨涯遣慕の情を陳ぶ明治二年

京に乗り小塚原の刑場跡に鴨涯を弔ひ手つから塵埃を掃

ひ香花を供へて低徊流涕表るに忍びざりしと韓ふ又一父

の後を綴ぎて市長となり繁雑なる事務、諸人の鷹接、家

政の虎理に従事せり仙墓の儒者中田瀬水は與方舟書を逸

り山本道齋は案山子歌、紙鳶歌の二長篇を著はして早く

俗務を捨て纏勢に春慰するの不可を設けり又一俗務を絶

たんと思ふこと数々なれども父祖が其の煩に耐へたるを

思ひ其の業を捨つるに忍びず「謹書可以讐俗、作詩可以

遣興」の語を示して其の捨て難きを答へたり而して在職

二十飴牛山ハ千戸盤 の太市を隻肩に櫓ひ藩主への言上、重

役の指令若くは裁決を仰ぐこと多かりしも少しも厭ふζ

となし曾て外囲奉行堀織部正、目付駒井左京等上下百三

十絵入北陸巡視の塞・あり藩命を受けて新潟まで随行せり

家に二越浩海縮岡谷と稽する下圖あη首巻に津島北湊の

序を載す蓋し藩主に奉献せしものならん次で高岡社倉を

設けて備荒貯蓄に備ふ社倉備米仕法草案の一節に「近年

打続米債高貴にて世間一同殊に困窮人…難…儀仕候義は時勢

之憂に可有御座候得共萬一此上にも水旱娘災等難計義に

付兼而豫防に用米備置不車両は不相歳歳に奉存愚慮之趣

左に華車上候とあり其の意の那邊にありしかを知るべし

此の問海内騒然、金澤藩内また勤王、佐幕の両派に分れ

國論の録趨する虎を知らず又一之を憂ひ勤王の大義を唱

へて藩論を動かし文久元年六月終に世子慶寧の上洛とな

れり又一此の行に加はり露途伊勢神宮に参拝し齋藤拙堂.

を津に森縦堂を桑名に訪ひ拙堂より月瀬詑勝一蹄と白書

詑勝摘鋒を遣らる京都に於ても藤井雨香を鴨川に訪ひ時

事を談じまた松本杢堂、家里松嶢とも面會して各藩の動

静を周知すまた親交者より諸藩働輪記を作りて逡付せら

る二年薩長二藩入京小川靖齋帰郷して藩主に見え高岡に

乗り又一及び同志と會議せり三年慶寧上洛す此の時加賀

藩は表面利率を装ひしも實は勤王佐幕の軋礫甚だしく叉

一尊大に之を憂ひ小川靖齋と圖り一藩の方同を定めんと

欲し靖齋は外にありて廟堂の形勢、諸藩の動静物論の趨

向を探知して之を報告し自らは同志と共に勤王の大義を

説きて其の調和に苦心せりかくて漸く其の目的を漣成す

る事を得たるも元治元年四月に至り慶寧の京都に於ける

行動は藩主齊泰の忠諌に濁れ謹慎となり勤王黛閉門蟄居

を命ぜらる小川靖齋(名は忠篤、通稽幸三、道子の来た

り)安政の末年より高岡に来り又一と時事を論じ慷慨已

まず互に意気和投ぜしものにして此の時自刃を命ぜらる

 八月十四日同志より又一の身に危害の加はらんことを報

ぜしかば残務を虎麗し数通の書簡を認め忠僕關谷與平に

家事一切を託し夜に入り逸見儀左衛門に危険書類の焼棄

を命じ深更寝に就く十五日多数の捕吏来りて之を縛し弟

三六と共に金澤河下獄に繋ぐ當時一家は不幸頻りに起り

妻雛子は赤痢病にて残し五入の幼児また枕を並べて病褥

に即吟し悲惨極まりなかりき九月十四日河合儀正は又一

宥免を三社に所願し其の安泰を斬る勝軍慶喜大政を奉還

するや勅使高倉侍従の北下となり同志と共に罪を赦さる

此の時又一を擢用せんとするの意ありてか各種の意見を

徴す又一町制改革案、産業案を提出せり明治元年榊原三

郎兵衛越後府椹判事となるや又一、之に随行して任地に

赴き十月三條局に出仕す長岡僅かに平定し東北戦雲未だ

治まらず兵馬倥偬の際制陵駕革に關興し苦心の存するも

のあり二年正月四條知府事と共に上京し騨遽司附となり

御東行御用掛椹判事に任ぜられ尋で北見國支配地開拓掛

を兼ぬ三年九月史生となり四年二月橿少属に任ず後七尾

縣史生に韓ぜしが病のため僻し八年八月三十一日残す年

五十二、大正十四年八月從五位を贈らる本文逸見丈九郎

の條参照(逸見紡齋傳)

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