稲葉通邦

国語史・日本語史周辺(日本文学・日本史・言語学などなど)の覚書です。
最善の説を記録しているものではありません。変な説も記録しています。
書誌として不完全です。
項目の形に規準はほとんどありません*
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稲葉通邦

 イナバ ミチクニ 稲葉通邦有職故實家、また明法學者、通稔喜三郎、後喜藏と改む尾張藩に仕へ禄二百石を食む 諸學に通じ博聞達識を以て知らる 稲葉氏はもと河野氏と稱せしが河野通信十二世の孫通富の時伊豫より美濃に移り土豪土岐氏に属して姓を稲葉と改む其の子一轍齋、織田信長に仕へて功あり 其の孫貞通また關ケ原の戦に功あり因って徴されて尾張徳川家に仕ふ 通邦は實に貞通の弟方通八世の孫なり 延享元年に生れ享和元年四月三十五日を以て残す年五十八、寶暦十年正月國君徳川宗勝に新規御目見を許され翌十一年八月家督を相綾す 幼にして武藝、書遺を學びしも成らず故實並に古典の學に專ら力を致せり 十六歳にして山崎派の儒者森川省太に就きて儒學並に垂加流神道を學び二十一歳神村正隣に就きて國學並に白川流神道を學ぶ 二十三歳河村秀頴?の主催せる令義解會に加はり律令の研究に心血を注ぎ兼ねて六国史、軍器考、唐六典等の研究に腐心せり 此の令義解會は明和三年十月二十六日に始まり安永四年七月十五日に終れり 續々群書類従、法制部に牧められたる講令備考は即ち此の令義解會の産物にして其の編纂には通邦最も力を致せり 講令備考は令文の解釋に参考となるべき材料を各條の條下に蒐録して之に私案を加へたるものにして令の研究には必要缼くべからざる良参考書なり 通邦また令義解會に倣ひ左傳會、文選會、国語會、戰國會、中庸集略會、易會、後漢書會、尚書會、史記會、禮記會、職原抄會等の研究會を起して経史子集故實の學に通じ兼ねて悉曇天文、針術、本草の學を修せり 然れども其の最も力を致せるは故實の學にして彼は多忙なる研究會の仕事の中にありても尚ほ日本紀、六典、日本後紀延喜式校正に努め明和八年には終に古流故實傳の免許を得るに至れり 是に於て通邦は寛政二年君命によりて藩祖義直の著はせる神祇寶典、類聚日本紀校合を行ひ次でまた尾張藩の圖書吟味役となり同四年張州府志、尾陽志略、木曾志略等の補訂掛となり同九年には有名なる大須真福寺古事記校合を命ぜられ又同五年異國船漂着の時には其の見分役を命ぜらるる等學者としての聲望日に重きを加ふるに至れり 其の著書に古流故實傳、山路雫、奉上愚草、参考長湫記等あり 何れも有識故實の學に関するものなり また通邦二十記、別記等の自傳日記ありまた大須本將門記和名類聚抄等を出版して世の學者に分ちたる事尠なからず 通邦性綿密にして勤勉、参考長湫記を編するに當りては二十七度の吟味をなしたる事其の書翰に見えまた藩主より其の御用出精を賞せらるる事二回に及べり 其の墓は名古屋城南前町浄土宗徳林寺に現存す

(通邦二十記、比古波衣、花見朔見氏「稲葉通邦事歴」武田醇霞氏「稲葉通邦翁の墳墓に就て」)

瀧川政次郎氏稿)

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/daijinmei/hoi/hoi012.html
書籍からの画像で注記のないものは、著者の著作権が切れ、刊行後五十年以上経っているものである筈です。