石垣謙二「助詞史研究の可能性」

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石垣謙二「助詞史研究の可能性」

石垣謙二

國語と國文學昭和二十二年六月號

 私は國語に於ける助詞の歴史を出來るだけ實證的に研究しようとしてゐる者であるが、此處では自己のなしつつある事が果して如何なる性質をもつか、又如何にして可能であるかといふやうな比較的本質的な問題を反省してみたいと思ふ。

 先づ最初に斷つて置きたい事は、國語の歴史とか助詞の歴史とかいふ場合の歴史といふ意味に就いてで、これは國語なり助詞なりが時と共に邏り變つてゆく動的なdynamicな有樣をいふのであつて、ソシュール(Saussure)の所謂通時態(diachronie)を指すのである。隨つて如何に古い時代でも、それが或る一時期の静止したstaticな状態として研究される以上は歴史とは認めない。それはあくまで記述的なものであり共時態(synchronie)であつて、私の今いふ歴史とは全く本質を異にするものである。即ち、例へば山田孝雄博士が「奈良朝文法史」或は「平安朝文法史」といはれるやうな場合の「史」といふ意味とは根本的に別なものなのである。されば、奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代といふやうに、各時代の記述的な研究を順次に積み重ねれば直ちに國語の歴史がわかると考へるのは當然誤である。何故なら、それは畢竟、線は點の集まりであるといふ原始的な幾何學の考へ方や、放たれた矢は、永久に的に到逹しないと論ずる有名なツェーノン(Zenon)の逆理などと同じく、靜止と運動とが全く次元を異にするものである點を忘れてゐるといはなければならないからである。つまり歴史の研究であり得る爲には、靜的な資料を動かすといふ要素の加はることが絶對の必要條件である。あたかもフィルムは映寫機にかけない限り、決して映書とはなり得ないのと同樣である。そして、この場合に映寫機の役割を果すものは、すべての史的研究がさうであるやうに、因果關係の論理的證明であり、如何にして甲の状態から乙の状態へ遯つたか、又は遷り得たかを證明することによつて、兩者間の間隙は埋められ、甲の状態が乙の状態へ到逹した動きを示すことが出來るのである。かやうに考へて來ると各時代の記述的研究なるものは、たかだか動かす爲の資料として利用價値をもつに過ぎないこととなるわけであるが、就中事一たび助詞の歴史に關する場合に於ては、單なる資料としての利用價値さへも甚だおぼつかなくなるのである。以下その理由を述べてみたいと思ふ。

 普通、言語とは音と概念との結合したものと考へられてゐるが、國語助詞は果してそれ自身概念をもつてゐるといへるであらうか。助詞も一の語であつて音の形は立派に具へてゐるけれども、決して單獨に用ゐられることがなく、必ず獨立詞に附屬して所謂文節の形に於てのみ用ゐられる。隨つて助詞を考察の對象とする場合には、それだけを切離して行ふことが出來ず、常に文節の構域要素として更に文中の構威要素として、相對的考察の對象とよりなり得ない。「馬」とか「走る」とか「美しい」とかいふ獨立詞が、それだけの概念を切離して考へるに何の不自然も何の困難もないのとは根本的に趣を異にしてゐる。即ち、助詞はそれ自身決して概念をもつて居らず、もつて居るものは專ら文法機能のみであるといふべきである。されば助詞の歴史とさへいへば直ちにそれが助詞文法機能の歴史であることは一々斷るまでもない處であらう。

 さて、かやうに助詞の荷ふものが全く文法機能のみである以上は、それは他の諸ミの文法機能と密接な相互關係を保ちながら、國語の全文法機構の中にのみ、その座を占めてゐることとなる。丁度無數の天體が相互の引力によつて密接に關係しつつ宇宙にその座を占めてゐるのにも例へられよう。助詞の地位がこのやうなものであるならば、もしそれが變遷するといふ場合には、當然その屬する全文法機構によつて變遷が規定される筈であると考へられる。あたかも全宇宙の機構によつて天體の運行が規定されるのと同樣である。

 尤もこの考へ方には次のやうな反駁が豫想される。即ち、およそ言語の變遷は、すべてその抑ヒの初めは或る個人に發するものであり、ソシュールパロール(parole)と呼ぶ處のものに關する問題であるが、それが單なる個人的なものから一つの變遷に昇格し得る爲には社會的に採り上げられるといふ試錬が必要である。處が言語社會の人々は個人的にも社會的にも自己の言語の全文法機構をはつきり認識してゐるわけではないから、全文法機構が變遷を規定するといふ考へは疑はしい、といふかやうな反駁である。咸程、正確な理論的認識は、その道の學者のみのものであらうが、もつと漠然とした機構だけなら誰しも無意識の裡に把握してゐる筈である。すべての人が自己の言語を自由に驅使し得てゐるのは、そのよい證據である。隨つて今或る個人が或る助詞の新しい用ゐ方をする場合には、當然その無意識に把握してゐる文法機構による聯想なり類推なりの結果であるのが普通である。もし又非常に特殊な場合として全くその樣な聯想や類推の範圍外に出る場合があるとしても、それは恐らく言語社會の人々に支持される素質がなく、採り上げられる機會に會はないと考へられる。即ち闇から闇へ葬られて了ふから一の變遷として日の目を見ることがない。すべての人々が共鳴するといふことは畢寛それが萬人共通に聯想し易く類推し易い傾向をもつてゐることに外ならず、萬人が同じ文法機構を把握してゐる結果は、それが無意識的であればある程、却つて自然な共通な聯想や類推を起す可能性が彊まる筈である。勿論この場合聯想や類推は個人的にも社會的にも、すべて無意識に行はれるのであるから、變はるのであつて決して變へるのでないことは明らかであるが、その變はり方は國語文法機構に支配され、國語自體に内在する必然性に支配されると考へることが出來るのである。

 今一つの實例を擧げてみるならば、國語の禁止の語法としては、「行くな」といふやうな形式と共に、古くは「な行きそ」といふやうな所謂「なぞ」の形式といふものがある。そしてこの「なぞ」は富士谷成章が「脚結抄」の中で、

上世には「なよびとよみそ」など句のかしらにもよみたれど中むかしよりは多くは〔な〕文字句の中にあるやうによめり。

と指摘してゐるやうに、萬葉集など上代の例には、

  な嘆き出でそね  な戀ひそ吾妹  な思ひと

などのやうに「な」が一句の先頭にあるものが相當に見られるのであるが、平安時代以後はかやうな例が一つも見出されない。かやうな例が見出されないばかりではなく、かかる上代の古歌を平安時代以後の歌集に再び載せる場合があると、必ず「な戀ひそ吾妹」は「戀ふな吾妹子」と變形し、「な思ひと」は「思ふなと」と變形して、「な」が句の先頭に來ない樣な注意の拂はれてゐるのが見られる。更に拾遺集玉葉集榮華物語などには、今度は逆に「な」が一句の最後にある例、例へば、

  まがき近うな  花植ゑそ

  秋だに我な   捨てはてそ

  明日もありとな 頼みそと

などのやうなものが現れてくる。この變遷は何を意味するかといへば、平安時代以後には「なぞ」の「な」は、その下で切れる事はあつても、その上では絶對に切れずに、常に直前の語に附屬してのみ用ゐるべきものと考へられるに至つた事を示してゐるのである。「なぞ」の「な」に…關しては大槻博士などのやうに副詞とする説や三矢博士などのやうに助動詞とする説もあるが、今日では山田博士などのやうに助詞とする説が一般に行はれてゐる。「なぞ」の「な」が助詞である以上は、國語文法機構に於ては助詞は必ず獨立詞の下に附屬して文節を作るものであるから、上代の「な」が逆に獨立詞の上に位してゐる事實は當然「な」の句刧に右の如き變遷をひき起すべき必然性を認めさせるし、又一方にもう一つ、「思ふな」「戀ふな」の如き禁止形式があり、形さへ全く同じ「な」といふ助詞を用ゐるといふ國語文法機構も、やはり、「なぞ」の「な」を之に類推せしめて、その句切に右の如き變遷をひき起すべき必然性を認めさせる。即ち、國語文法機構が、「な」の變遷を規定したことが明らかである。

 以上によつて國語に於ける助詞の變遷は、その言語として本質的に内在する必然性によつて行はれるといへようと思ふのであるが、この點は獨立詞特に名詞意味の變遷などとは根本的に異る處であつて、例へば「奥」といふ詞は何故「身分ある人の妻」といふ意味をもつに至つたかといふ必然性は決して言語自體に内在するものではない。「奥座敷」といふ意味と「身分ある人の妻」といふ意味とは、言語自體のみの問題としてみればどう考へても縁のないものである。變遷の必然性は全く、身分ある者の妻はみだりに表に姿を現はさず常に奥座敷にのみ居るといふ事實にあり、この事實は言語とは何の關はりもないものである。

 さて、かやうに助詞の變遷は、その必然性が全文法機構にあり、言語それ自體に内在することが明らかになると、ここに第二の特質が當然考へられる事となるのである。變遷の必然性が言語以外にある場合には、それが言語の外部から説明を與へてくれるから言語自體は變つても聽手は或程度これを納得することができる。今まで「奥座敷」の意味であつた「奥」といふ語が急に「妻」の意味に用ゐられても、「奥座敷」と「身分ある者の妻」との間の密接な關係を心得てゐる聽手には、たとひ或る程度の抵抗は感じても、とにかく新しい意味理解しうる可能性がある。例へば客間で主客が對談してゐる時に主人が、「今日は奥が留守だから」と言つたとすれば、恐らく客は始めての經驗でも、それが主人の「妻」を意味してゐることを理解しうるであらう。然るに變遷の必然性が言語自體の内部にある場合には、かやうな助けがないわけであるから、言語が變れば直ちに聽手は理解できなくなつてしまふ。先刻、助詞の新しい用法國語文法機構による類推や聯想によつて生ずると述べたのであるが、その時既に斷つたやうに、その類推や聯想はすべて無意識の裡にのみ行はれる。つまり話し手も聽手も、自分が類推したり聯想したりしてゐるといふ自覺は全くもつてゐないのであり、言ひかへれば新しい用法であることに少しも氣がつかずに、全然從來通りの同じ用法とばかり思つてゐるのである。隨つて類推とか聯想とかいふ言ひ方は、國語の全文法機構を理論的に認識してゐる研究者が客觀的に觀察した時に、始めて言ひうる處であつて、國語文法機構を無意識に漠然としか把握してゐない一般言語社會の人々においては、結局違ひを自覺しないとか、全く同じものと誤解するとかいふ言ひ方の方が遖當となるわけである。必然性が言語自體の内部のみにあつて言語の外部から之を説明する功けのない變遷が、支障なく理解されうる理由は、全くそれが變遷と自覺されずに通用するからに外ならない。ここに至つて助詞の變邁は、言語社會の人々の主觀に於ては全くの連續であるといひうることとなり、また研究者の客觀的觀察に對しては極めて小刻みな連續に近い状態を呈して顯著な變遷の間には、きつと過渡的段階が存在することとなるのである。

 先の「なぞ」の變遷についてみても「な」の上にあつた句切が「な」の下に移る中間には、既に「脚結抄」にも、

古今に「あやなゝさきそ」とよめるばかり、上代のさまににたれど猶句中によめり、此の歌ももとより上世と中むかしのあはひの人のとみゆる歌也。

と述べてゐるが、蓋し「あやな」といふ語は「我かはあやな 花す玉き」とか「よそへてあやな 恨みもぞする」のやうに、普通には句の最後にのみ置かれるのを常とするのである。又、拾遺集に、

  手なな觸れそも

と「な」を二つ重ねた例の見られるのも、二つの「な」の中間に句切を假定することによつて、同時に「な」の上にも下にも句切があると考へられる點や、この例が丁度「な」の句切に變遷の起らんとする時期に現れてゐる點などを思ひ合はせれば、本居宣長が「詞玉緒」の中で非難してゐるやうに、

なを二つ重ねたる、一つはあまりて聞ゆ、いかが

などと簡單に葬り去るべきものではないと思はれるのである。

 かやうに助詞の變遷が連續的であり、且その各ミの段階が一々國語自體の上に登録され得るとなれば、その有樣はいはばスペクトルに於ける色の配合に近い樣相を呈し、各辷の色の間には何處にも明瞭な境界線は見出されないといふ事になる。然らば助詞の歴史の研究に於ては、各時代の記述的な研究を順次に積み重ねても何等得る處のない事が明らかとなるであらう。結局各時代の記述的研究とは、小止みなく動きつつある國語の流れの中で、比較的動きの緩漫な時期を區切つて、その状態を靜的な な一つの體系に組織するものであるから、助詞に對する場合には、つまりスペクトルについて、この範圍は赤であるとか、この範圍は青であるとか定めるやうなものである。紫の部分や海老茶の部分は當然四捨五入されて了つてゐる。

 例へば「私が行く」といふやうな主語を表す「が」助詞機能が變遷して、「雨は降るが私は行く」といふやうな接續を表す「が」助詞機能になつたといふ事實は、今日もはや明らかであると思ふが、かやうな顯著な變遷の間には當然幾多の中間段階があつた筈である。然るに記述的研究に於て設けられた品詞分類や文法範疇としては格助詞の「が」と接續助詞の「が」との二つを認めるのみである。さればこそ源氏物語開卷第一の有名な例、

いとやんごとなき際にはあらぬが勝れて時めき給ふありけり

の「が」助詞主格助詞であるか接續助詞であるかといふ事が屡ヒ問題にされるのである。畢竟この源氏物語の「が」助詞主格助詞から接續助詞への變遷に於ける過渡的段階に外ならないのである。

 この點が又、名詞意味の變遷などと本質的に相違する處であり、再び先の「奥」の例についてみれば、「奥座敷」といふ意味と「身分ある入の妻」といふ意味との相の子などといふものは絶對に考へられない。即ちこの變遷は不連續なのであつて、かかる場合に於ては、「奥」といふ語には、室町時代には「身分ある人の妻」といふ意味があるが、それ以前にはないといふやうな大まかな記述的研究が充分にそのまま利用し得るのである。何故なら、それ以上は如何に廣く細く用例を求めた處で、二つの意味を結んでその間の變遷の必然性を納得させてくれるやうな意味をもつ例は、國語の中からは絶對に見出されない道理だからである。

 これに反して助詞變遷の必然性を納得させてくれる例は國語そのものの内部にこそあるのであり、しかも、それは記述的研究に於ては、すべて四捨五入されて了ふ部分なのである。さすれば吾々は、もはや各時代の出來合ひの記述的研究に頼ることは絶對に出來ない。院政鎌倉時代には接續助詞の「が」があるが、それ以前にはないといふ樣な事實を知つても殆んど意味をなさないのである。ここに於て助詞史研究は何よりもまつ、各時代の記述的研究を悉皆御破算にして新規蒔直しに出直す必要が存するのである。

 然し、新規蒔直しに出直しさへすれば、助詞の歴史は變遷の必然性が國語自體に本質的に内在するのであるから、國語の内部のみで研究を完成させることが出來、國語の科學として、あくまで純粹性を保有する事が可能となるのである。この點、名詞意味の歴史などが、變遷の必然性を國語以外に求めなければならない結果、政治史.經濟史.思想史・風俗史等最も廣い意味文化史の全領域に跨り、國語以外の・尨大な夾雜物を包含せざるを得なくなつて、殆んど國語學たるよりも歴史學の一部門たるに適しいやうな樣相を呈するのとは全く異るのである。

 以上を以て、國語に於ける助詞の變遷は國語の全文法機構に支配せられるといふ事黄が明らかになつたと思ふ。それでは、次に全文法機構以外に助詞の變遷を左右するものはないであらうか。これに就いて考へ得る要素は大體四ρある。即ち、第一が音韻變化であり、第土が他國語の影響であり、第三が方言差の問題であり、第四が階級性別等の差の問題である。

 音韻變化文法機能に至大の關係をもつ事は、印歐語の場合などにあつては極めて著しく、文法的變遷巴見られるものも、つきつめると殆んど音韻變化の問題に歸するといふくらゐである。しかし之は印歐語が所謂屈折語であつて、文法機能語尾變化に荷はれて居り、專ら語形の變化によつて表されてゐる事實によるものと考へられる。

我が國語に於ても用言活用の如きは相當に音韻變化の影響によつて、その文法機能が左右されるのである。然るに助詞は獨立詞へ附け加へて用ゐられるものであつて、獨立詞自身の語尾變化でも活用でもない。されば助詞音韻變化の結果、音の形が變る事があつても、それはあくまで助詞の形のみの變遷であり、その文法機能には何等關する處がないのである。しかも先に斷つた如く、助詞の變遷といふ意味は專ら助詞文法機能の變遷と考ふべきものであるのだから音韻變化の問題は決して本質的に助詞の變遷を左右するものではないと云ひ得べきである。例へば「ハ」といふ助詞が「ワ」と發音せられるに至つてもその機能は毫も犯される事がなく、「スラ」といふ助詞が或る時期に「ソラ」といふ形で現れてもその機能は依然として變らないのである。

 次に他國語の影響に於ては、最も顯著なものとして、先には漢語漢文の影響があり、後にはヨーロッパ語の影響がある。然し例へば漢文の影響によつて「須らく……すべし」といふ言ひ方が生じたとしても、それが直ちに國語文法を犯したとは考へる事が出來ない。何故ならば「す」といふサ變動詞終止形「べし」といふ助動詞の接續すること、「べし」が「べかり」といふ所謂補助活用形をもつこと、「べかり」の未然形にク語尾の附き得ること等は、すべて漢文の影響を俟つまでもなく國語に本來存する文法機能に過ぎないから、即ち「すべからく」といふ形の成立は全く國語文法機構のみで解決される問題である。そしてその「すべからく」といふ形が副詞的に用ゐられるといふことも亦、所謂ク語法の本來有する一性質に過ぎない。さすれば「すべからく……すべし」といふ言方は文法上何等國語の機構に附け加へもしなければ之を變へもしてはゐないのである。この言方が新しいものであるといふのは文法的事實として新しいのではなくて全く表現形式として新しいのである。即ち漢文の影響は文法上の問題たるよりも寧ろ修辭上の問題なのである。歐文直譯調と稱せられる、「……すべく餘りにも……である」といふやうな場合にも全く同樣である。又、語彙借用に至つては尚一層文法とは縁が薄くなる。何となれば如何なる品詞の語も一たび國語借用される時には一律に名詞相當の資格としてのみ探り入れられるからである。漢語として動詞的に用ゐられる語を借用してもそれが國語動詞として用ゐられる爲には「進行する」とか「動搖する」とか必ずサ變動詞と熟合しなければならないし、英語形容詞借用してもそれが國語として形容詞的に用ゐら-れる爲には「ロマンチックな」とか「センチメンタルな」とか必ず形容動詞語尾を附加へなければならない。即ち他國語の影響に對しては文法機能こそ正に不落の城塞のやうなものであり、勿論助詞の變遷が左右されない事が明言出來るのである。

 第三は方言差の問題である。千數百年の國語史を通じて、常に同一地方の言語のみを取り扱ふことが出來れば、この問題は論ずる必要がない。然し、現在資料として用ゐ得る文獻は、大體に於て各時代に政治的或は文化的中心をなした地方の言語を傳へるものであり、その地方は必ずしも常に同一とは限らない。又苟しくも一國の國語史といふ以上は、その國の中心的なもしくは標準的な言語の歴史といふ意味に解するのが常識である。さすれば甲地方から乙地方に國語の中心が移る場合には、當然その間に方言差の問題が介入し來らざるを得ないのである。例へば「見よ」「せよ」などの如く「よ」を添へて命令を表してゐたものが或時代以後、「見ろ」「しろ」などのやうに「ろ」を添へるに至つた變遷の必然性は何かといふ問題は、純粹に文法機構の問題であるに拘らず國語文法機構の内部のみで如何に考へても解決することが出來ない。その筈である。この變遷の必然性は文法機構に内在する問題ではなくて、方言差の問題だからである。即ち、關西方言では、「よ」を用ゐ、關東方言では「ろ」を用ゐるといふ對立は遠く萬葉東歌の古からのものであるが、この場合徳川期に至つて、國語の中心が京都から江戸に移つた爲に、かやうな變遷が現れたのである。即ち國語史が二方言に跨つた結果に外ならないのである。さて、上代は大和中心の時代であり、特に國語の有史時代以後は主として奈良に帝都があり、隨つて國語の中心もそこにあつた。平安奠都以後室町末期まで八百年の永きに亙つては京都が帝都であり國語の中心であつた。尤も鎌倉時代以後は武士の勃興によって關東方言の進出が見られなくはないが、國語の中心を奪ふ程の勢力は無かつたと考へられる。然らば大和も京都も同じく近畿方言圈に屬する地方であり、且古の都遯りの形式は殆んど無人の野を開拓して舊都の佳民が悉く新都へ移住するのであるから、都の移動が方言差の影響をもたらす原因とは殆んどならなかつたものと考へてよいであらう。即ち、上代より室町末期までに時代を限定すれば方言差の問題は大體これを捨象し得ると思はれるのである。

 最後に、階級性別等の差の問題であるが、之も前項の如く上代から室町末期までに範圍を限定すれば大體上流階級の國語のみを對象とすることが出來る。尤も萬葉集などは上は天皇より下は田夫野人に至るまで、あらゆる階級の人々を作者として含んでゐるが、歌語としての制約もあり、かたがた階級制度にいまだ相當の柔軟性が認められる。階級差の漸く牢固たるものとなるのは平安時代と考へられるが、この時代文獻が宮廷中心であることは言ふまでもなく、院政鎌倉時代も貴族か、さもなくば之に準ずる社會的地位にあつた僭侶の手になる文獻が大多數である。室町時代抄物キリシタンの所謂天草本などが口語資料として擧げられるが、抄物は勿論上流知識人のものであり、天草本もロドリゲス()等が云つてゐるやうに京都の標準的言語を寫したものと見られ、それが上流知識人のものであることは想像に難くない。されば大體上流の言語を以て一貫する事が出來ると考へられるのであるが、勿論部分的には二三注意を要するものもあつて、特に奈良時代平安時代との境と、鎌倉時代室町時代との境は充分に愼重な吟味をしなければならないものがある。例へば一般に主格を示すと認められてゐるイといふ助詞は「けなのわく子イ笛吹上る」とか「紀の關守イ止めなむかも」とか奈良時代には相當用ゐられてゐるのに平安時代に至ると俄かに一の用例も見られなくなる。處が平安時代にあつても物語和歌に見られないだけなのであつて、所謂訓點物には盛に用ゐられ、ヲコト點にも多くイの點が定められてゐるのである。之は或は奈良時代國語平安時代國語とが性質を異にすることを示すのかも知れず、先づ考へられる事は性別の問題である。平安時代假名文學が女流作家の手になるものの多い事は周知の事實であり、奈良時代國語男性中心の言語であるに對して平安時代國語がむしろ女性中心の言語ではないかといふやうな疑も可能である。いづれにせよ奈良時代平安時代との境を考察する時は出來る限り訓點物などを參考にすべきであらう。更に鎌倉と室町との間にも同樣なことが見出される。、例へばヨリといふ助詞とヵラといふ助詞とは略ヒ同樣の機能をもつてゐるが、上代から鎌倉時代までは常にカラはヨリに比して極めて劣勢で頻度に於ても殆んど問題にならない程少いのに、室町時代に至ると一躍ヨリと同じ位か時には之を凌駕する勢を示すのである。しかもその室町時代のカラの中最も多く用ゐられる種類は、それ以前には主に催馬樂などの全くの俗謠にしか現れず、和歌雅文の中には絶えて見出されない種類のものばかりである點、平安以來の俗語もしくは鄙語が室町時代には標準語的地位を占める事を示すものの如くであり、下剋上の風潮、庶民の擡頭が既に國語の上にも現れはじめて近世の胎動を感じさせるのである。されば又この場合にも右の事情を充分念頭に置く必要があると思はれる。

 然しながら、かやうに部分的に注意すべき事はあつても、上代から室町末期までに範圍を限定すれば、方言的にも階級性別的にも大體國語史を單一な一つの系列に保つことが出來、助詞の變遷を文法機構以外の支配から守ることが可能となるのである。處が一度江戸時代以後を考慮に入れると問題は一變する。方言的には關西關東の二系列に跨り、階級的には上流と庶民の二系列に跨つて了ふのである。即ち助詞の變遷も當然これらの影響を受け、その變遷の必然性を文法機構の内部だけで解決する事が不可能となるのである。さすれば助詞史研究は之を二期に分つべきであり第一期が上代から室町、第二期が江戸から現代であつて、この二期は各ミ獨立したものであり、その間の關係は又別途に老究せられるべきものである。

 以上申し述べた處を要約すれば、助詞の變遷は、その必然性が國語文法機構に内在するが故に、國語の科學として純粹性を保つことが可能であり、又、その變遷が連續的で且その經路が一々國語の上に登録されるが故に、出來合ひの各時代の記述的研究を御破算にする必要はあるが、新に出直しさへすれば國語資料の中から必要にして充分なだけの用例を求める事が可能であり、更に上代から室町末期までに範圍を限定することによつて、文法機構以外に助詞の變遷を支配すべき他の諸ミの影響力を捨象することが相當の程度まで可能となるのであつて、ここに助詞史研究の可能性が明らかになるかと思ふのである。未熟な考察には定めて獨斷も多い事と思ふが、御叱正を期待しつつこの小稿を終ることとする。

書籍からの画像で注記のないものは、著者の著作権が切れ、刊行後五十年以上経っているものである筈です。