石垣謙二「作用性用言反撥の法則」

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石垣謙二「作用性用言反撥の法則」

石垣謙二(1942)

作用性用言反撥の法則

『國語と國文學』昭和十七年五月

 一 形状性用言作用性用言

 二 形状性名詞句作用性名詞句

 三 形状性複文作用性複文

 四 作用性用言反撥の法則

http://www62.atwiki.jp/kotozora/pages/45.html

一 形状性用言作用性用言

 離屋翁鈴木朖大人は、その著「言語四種論」に於て、用言の類別法に關する全く新奇な試みを提出してゐる。即ち「形状《アリカタ》ノ詞作用《シワザ》ノ詞ノ事」と題して下の如く述べてゐるのがそれである。

用ノ詞、ハタラク詞、活語ナント、古來一ツニ言來レルヲバ、今|形状《アリカタ》作用《シワザ》ト、分チテ二|種《クサ》ノ詞トセルハ、終リニ附キテハタラクテニヲハノ、本語ニテキレ居《ス》ワリタルモジノ、第ニノ[イ]ノ韻ナルト、第三ノ[ウ]ノ韻ナルトノ差別也、第二ノ韻ナルハ、[シ][リ]ノ二ツ也、[シ]ハ、[キラ/\シ][スカ/\シ]ナンドノ[シ]ニテ其意シラル、即俗ニ[何々シイ]ト云[シイ]ノココロニテ、其有樣ヲ形容《カタドリ》イヘル詞ナリ、[ケシ]、【シズケシ、ハルケシ】、[タシ]、【ウレタシ、メデタシ】、[メカシ]、【フルメカシ、オボメカシ】、ナンドノ[シ]モ其類ニテ[高シ][卑シ][善シ][惡シ][悲シ][樂シ]ノタグヒノ[シ]、皆同意也、[リ]ハ[有リ]也、[ア]ハ[アリ/\]、[アザヤカ]、[アラハル][アキラカ]ノ[ア]ニテ、物ニツヾク寸ハ省《ハブ》カレ消ユル也、[居《ヲリ》]ハ、[ヰアリ]也、[聞ケリ][見タリ]ハ、[聞アリ]、[見テアリ]也、[往ケリ]、[還レリ]ハ[ユキアリ]、[カヘリアリ]也、カク[リ]モジヲ終リニツクル時ハ、本|作用《シワザ》ノ詞ナルモ、皆其|形状《アリカタ》ニナル也、サレバコノ[シ][リ]ノ二モジニテトマル詞ハ、スベテ皆物事ノ形状《アリカタ》ナリ、云々 (國語學大系に據る)

 右の類別法が用言動詞形容詞に二大分する普通一般の類別法と結果に於て異る點はラ行變格動詞の取扱ひ方であつて、「有り」「居り」「侍り」「いまそかり」等は動詞から切離され形容詞の中に包攝せられる事となるのである。

 形状・作用の分類は獨立詞たる用言のみならず、附屬辭たる助動詞にも及ぶものである事は上の引用文によつても明かであるが、國語に於ては助動詞をも含めて全活用語が必ず其の終止形イ韻なるかウ韻なるかの二者に限られ、決して終止形がイ・ウ以外の韻に終るものを有しないのであるから、この分類は國語の全活用語を鮮かに兩斷する事となる。而も其の結果として、意味上から、全く同一範疇に屬すべきものと考へられる「有り」と「無し」とが、一方は動詞に他方は形容詞にと、一見極めて奇異なる分屬を餘儀なくされる必要が無くなるのである。又離屋翁がその分類に當つて命名してゐる樣に、分類の結果が、一は事物の形状を表し、他は事物の作用を表す事となる點單に形態上のみの類別でなく、意義的なる觀察とも並行してゐるといはなければならない。かくて右の分類法國語の本性に對して相應に適合したものといふべきであつて、動詞形容詞に二大分する分類法と共に同等の意義を有すると考へられるのであるが、室町時代以後、國語活用語を襲つた大變動の一つとして、ラ行燮格活用が消滅した結果、形態上の必然性が失はれた爲に、「言語四種論」の後、この分類法は言ふに足る發展を途げず、動詞形容詞分類法に比して著しく等閑に附されてゐる如き觀がないでもない。然しながら、少くもラ行變格活用消滅以前の國語に對しては充分の價値を有するものと考へられるので、私は以下、右の離屋翁分類法を基礎としてこの分類法國語の構域上に如何に投影してゐるかを研究してみたいと思ふのである。

 右の離屋翁の分類は次の如く約言する事が出來るであらう。

國語に於ける總ての活用語は、終止形がイの韻に終るものとウの韻に終るものとの、二種に分れる。而してこの二種に限る。前者を形状性用言、後者を作用性用言命名する。

 さて、かく形態的に規定する時、形状性用言は必ず事物の形状を表し、作用性用言は必ず事物の作用を表して決して相犯さないといふ意義的な事實の、必然的に附隨する點が、前述の如く此の分類法の特性である。然しながら言語には常に變遷發展があり、意味の推移、語性の轉換がある事は冤れ難い處であつてその爲に、後天的な意義の變化によつて語性を轉じたと見られるものが少數ながら存するのである。師ち次に順次檢討する數語であつて、すべて元來作用性用言であつたのが形状性用言としても用ゐられるに至つたもののみで、此の逆のものは存在しない。


 一、見ゆ・聞こゆ・思ほゆ(おぼゆ)

之等の語は、事物の作用を表さずして、其の事物を「見」「聞き」「思ふ」處の主體的存在の判斷を表すものであつて、この點意味形状性用言に入るべきものと考へられる。之等の語が元來、「見る」「聞く」「思ふ」に助動詞「ゆ」の添加したもので本元的には一語でない事、既に諸先輩の指摘された處であるが、之等の語が意味上事物の作用を表さず形状を表すのはかかる後天的現象の結果であると云ひ得るのである。


 二、侍ふ・候ふ・おはす之等の語は、もと夫々特有の作用を專ら表してゐたのであるが、語義の變化によつて意味上「あり」「侍り」と全く同一な用法を生じた事は人の知る所である。而してこの意味上の變化は平安時代以後に起つた後天的な現象である事は實證する事が出來る。


 三、といふ・になる

「といふ」とは名稱を表す場合に用ゐ、「になる」とは年齡を表す場合に限られるものである。現代語に於ても「私は何某といひます」「私は某歳になります」とは畢竟「私は何某です」「私は某歳です」と同じ意味を表してゐるのであつて「いふ」「なる」の作用としての意味を伴はぬ事明らかであるが、かかる用法の發生も實證し得る時代に屬するものである。


 四、ず・む

否定助動詞「ず」は終止形がウの韻に終るものであるが、その活用形式形容詞式と認むべきでありへ橋本先生昭和十三年度御講義國文法體系論」)、而もその活用に於て明らかにナ行系とザ行系の異る二種の混合と見られ、之も亦後天的に何等かの變化を途げた活用形式と認められるのである。又、推量の助動詞「む」も終止形がウの韻で終ってゐるが、元來「む」には單なる推量や未來を表すものと決意を表すものとの二つがあり、前者は意味上形状性を有すると考へられる。何となれば文語形に於ては「行か掴」といふ形が、一體で二義を有し、推量と決意とを同時に表し得るのに、口語形では「行かう」は通常標準語に於ては、決意のみを表して推量を表さぬ。單なる推量を表す爲には「行くだらう」となり「だら」を「であら」に還元すれば「あり」の介入してゐる事が知られるのである。更に又之等が丁寧語法に於ては「行きませう」と「行くでせう」との二種になるが、「いづれ詳しい事は本人が申上げませうが取りあへず私から大體をお話します」の如く、「ませう」が推量を表す事も絶無とは言ひ難いけれども、通常、「行きませう」は意志を、「行くでせう」は推量を表す。「ます」と「まゐらす」、「です」と「であります」の關係を考へる時に、此處でも推量を表す方には形状性の存在する事を知るのである。助動詞が時枝先生の所謂觀念語である點から云つても言語主體の決意建表す用法の方がより直接的表現と考へるべきであるから、單なる推量や未來を表す用法は後天的に「む」の用途が擴大された結果生じたものと見るのが妥當であり、隨つて終止形がウ韻なる「む」に形状性の用法が生じたのも亦語性の轉換の結果と云へるのである。推量の「らむ」「けむ」も同樣である。


 形状・作用の分類に於て例外と認むべきものは右の數語のみであるが、上述の如く之等が皆後天的に意義語性の變化乃至擴張を途げた結果、新に生じた現象であつて決して之等の語に於ける本元的な性格でない事を知り得るので泌る。故に、形状・作用の分類は國語活用語が未だ言語變遷といふ風化作用の浸蝕を蒙らなかつた時代に於ては實に一の例外をも許さぬ見事な分類であつた事を想像し得るのであり、この點から云って、右の分類が必ずや國語の本性に根ざす有力な必然性をもつものと考へる事が出來るのである。

 さて、右の數語即ち形態上からは終止形ウ韻の活用語でありながら意義上からは事物の形状を表すものを、準形状性用言として形状性用言中に編入する時は、形状性用言の範圍は次の如くになる。

 一、形容詞

   ク活用シク活用

 二、動 詞

   ラ行變格活用、見ユ・聞コユ・思ホユ、侍フ・候フ・オハス、`トイフ・ニナル

 三、助動詞

   ベシ・タシ・ゴトシ・マジ・マホシ、タリ・リ・ケリ・メリ・ナリ・ベカリ・タカリ・マジカリ.マホシカリ・ザリ・ゴトクナリ、キ・マシ・ラシ・ジ、ズ・ム・ラム・ケム

從つて、右以外のすべての活用語作用性用言である。かかる分類が國語構造上如何なる結果を現すであらうか、之を以下研究したいと思ふ。


二 形状性名詞句作用性名詞句

 助詞「の」は體言(又は之に準ずるもの)と用言とを結合して主格關係を構成すると云はれるが、此の場合獨立の單文を構成する事は寧ろ稀で多くは複文の一部分として名詞句を構咸するものである。然るにかく「の」に依つて構成せられる名詞句には極めて性質を異にした二種類が識別され一概に同一物として取扱ふ事が出來ないといふ事を、嘗て湯澤幸吉郎先生が指摘して居られる(國語學論考、「の」「が」を件う句の一形式)。即ち、

 (1) 友の遠方より訪れたるを喜ぶ。

 (2) 友の遠方より訪れたるをもてなす。

右の(1)働に於て傍線の部分は夫々「喜ぶ」「もてなす」に對して客語の資格に立ち「の」に依って構成せられた名詞句である。而も形の上では(1)働全く同一であつて何等の違を認められないのであるが、意味の上から考察する時は必ずしも同一とは云ひ得ない。何となれば(1)は「友の遠方より訪れたる(事)を喜ぶ」のであるに對して、(2)は「友の遠方より訪れたる(者)をもてなす」のであり、(1)に於ては「友の遠方より訪れたる」全體が一つの陳述として・即ち一文として下へ懸つてゆくのに對して、(2)に於ては「友の遠方より訪れたる」の中、意味上直接下へ懸つてゆくのは體言「友」だけである。(1)は畢竟「友をもてなす」のであつて「遠方より訪れたる」は「友」を述定してゐるといはんよりは裝定してゐるのである。即ち(1)の「の」は既に湯澤先生も雪つて居られる如く英獨佛語等の關係代名詞に類する働きをなしてをり、又所謂同格に類する形式を構咸してゐる事となる。(2)の「の」は主格助詞でなく寧ろ屬格の助詞と云ふべきであらう。

以下略

   形容詞 ラ変動詞 ベし まじ まほし たり なり けり ざり かり 見ゆ 候ふ おはす といふ になる らむ 其の他
宣命 1 1 1
祝詞
竹取
伊勢 2 1 5 1 1
土佐 1 1 2
大和 4 2 4 5 8 1 1
源氏 59 36 6 2 2 109 63 7 36 16 4 2 1 1 2 10 4 1 13
今昔 56 61 5 107 113 129 12 3 9 5 2 1 13 33
宇治 16 18 2 37 35 31 1 5 5 8
著聞 9 3 23 12 35 2 2 1 4
愚管 1 1 1 1 1 7 16 5 3 1 3 2
保元 1 1 6 2 1
平治 2 5 2 1 1
115 122 15 3 3 294 239 234 53 3 16 24 2 8 6 4 1 31 9 1 59

即ち「の」が關係代名詞的に用ゐられる名詞句に於て「の」の下に如何なる用言が置かれるかを檢討してみると前頁の表の如くになる。




   形容詞 ラ変動詞 ベし かたし ごとし たり なり けり ざり 見ゆ 聞ゆ 覚ゆ
竹取 1
伊勢
土佐
大和 2 3
源氏 71 9 63 2 1 1
今昔 22 16 1 2 2 92 1 1 1
宇治 10 1 1 10
著聞 31 4 3 1 71 1 1
愚管 5 1 4 1
保元 1 2
平治 1
141 31 5 1 3 3 247 1 1 1 1 3 2 1

右の如き關係を見得るのである。故に作用性用言反撥の法則國語の概ゆる時代を通じて普遍なる一法則であり、複文構造を規定する根柢である。又、この法則を適用する時には、文解釋上にも便宜を得る處が多い。主な場合を云へば先づ主格「が」助詞と接續「が」助詞との識別の問題が有る。即ち、國語主語なしにも充分文が成立し得る爲、「が」の下の部分に主語が現れてゐないでも必ずしも接續助詞の「が」でないと斷定する事が出來ないが、此の場合、「が」の承ける用言も續く用言も共に作用性用言ならば直ちに其の「が」が接續助詞であつて主格助詞でない事を斷言し得る。次には同樣の事が助詞を伴はない場合に就いても云へるのであつて、國語に於ては特に中古以後何等係結の存しない場合でも自由に文を用言連體形終止せしめる事が出來る上に、用言には終止連體同形のものも比較的多いので、單に獨立の二文が並んでゐるものか兩者間に主述關係が成立して複文を形咸するものであるかの決定の、形態上からは困難な場合が多いが、この場合兩者の用言が共に作用性用言ならば直ちに相互に獨立の二文であつて主格關係の存しない事が斷定出來るのである。又、嚮の(甲)(乙)(丙)の圖式によつて明かな樣に、複文述語作用性用言なる時は、直ちに(乙)の形式であつて隨つて主部は形状性名詞句構成する事を斷定し得るのである。其の他嚮に擧げた三十形式が常にすべて並び行はれるのでなく之等の歴史的考察によつても解釋上種々の便宜を得る事が有るが既に豫定の紙數を超過したので今は記述的方面のみに止める事としたい。

 離屋翁鈴木朖大人の用言分類に於ける方法は、右の如く國語構造上に可成大なる投影を有する事を實證し得るのであつて形状《アリカタ》の詞と作用《シワザ》の詞とは國語用言支配する根本的な二性格であり、動詞形容詞の分類に比して充分の價値を有するものと考へられるのである。

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。