橋本進吉「尊経閣藏古鈔本節用集解説」

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橋本進吉「尊経閣藏古鈔本節用集解説」

橋本進吉

尊経閣古鈔本節用集解説

黒本本節用集

 節用集いろは引通俗辭書であって、室町時代から江戸時代を経て明治に至るまで、社會の各層を通じて、日用の言語文字を知るに便利な辭書として國民に親しまれて來たものである。その著者は未だ明かでないが、室町中葉の著で、早くから世に行はれて、既に室町時代に於て刊刻せられたものもあり、慶長二年にいたって易林(夢梅又幽庵とも號す。本願寺の俗臣)の改訂本が印行せられてからは種々の重刊本や増訂本が續々刊行せられて、異本異版は夥しい数に上るが、その中初期に屬するもの、即ち慶長以前の古本だけでも、現今知られてゐる限りに於て、既に三十五種を超えてをり、その多くは寫本であって、元和寛永以後の諸本が殆ど皆刊本であるのと大に趣を異にする。今解説する所の前田侯爵家尊経閣文庫所蔵の古抄本節用集は、この種の古本節用集の一本である。

 この本は、縦五寸一分五厘、横四寸三分五厘、厚さ四分餘の大和綴の冊子一帖であって、表紙は緑がかった茶色地に一重蔓牡丹唐草の模様ある金欄を用ゐ、見返しは金箔を押した布目紙を用ゐ、白と紫との絹の撚絲を以て上下二箇所をとぢてある(以上の装幀は本來のものではなく、後になって加へたものと思はれる)。料紙は強靭な楮紙で、表裏両面に書し、すべて百十帳ある。第一帳は白紙であるが、その表面左上の隅に左の古筆了佐の極札を題簽のやうに貼ってある。

相図寺横川和尚[琴山]

 第二張第一行に「節用集」と題し、その下方に「衆白堂藏」の長方形の朱印がある。第二行から本文に入り、以下毎張一面七行に墨書し、第百五張表面第一行にいたって本文が終り、後四行ばかりの餘白をおいて「節用集終」とある。同じ張の裏面には十二月の異名二種を書し、次の第百六張の最初から京中小路名と題して、京の横竪小路の名を擧げてあるが、この部分は同張裏面第三行で終り、之に直につゞいて十干十二支十二時六律六呂の名、日本國六十餘州(畿内及び諸道の国名州名及び郡数をしるす)及び點畫少異字があって、第百八張の裏面にいたり、その後に二張の白紙があって巻が終ってゐる。この本文の後の附録の部分は、すべて細字で一面十四行に書いてある。

 この本の本文は全部一筆で、到る處朱で加へた句讀點符號の類も亦同筆と思はれる。然るに附録の部分は、京中小路名だけは明かに本文と同筆であって、その上本文と同じく朱で點や符號が加へてあるが、その他の部分は文字も本文とは異筆のやうに思はれ、行の高さも本文及び京中小路名よりは著しく高く、朱も全く加へてない。想ふに、この本の附録は、もと京中小路名ばかりであったのを、後にその前後の餘白に、その他のものを書き加へたのであらう。(これ等の附録と同筆の書入は本文中にもある。即ちセ部官名門全部がそれであって、これにも朱は加へてない)

 この本の筆者竝に書寫年代については、本書の中に何等の記もないが、第一張に貼附した極札によれば、古筆了佐は相國寺横川和尚の筆と鑑定してゐるのである。横川名は景三、南禪寺の僧であって詩に巧であった。安國寺に小補庵を作って居り、文明三年將軍義政の請によって等持寺に住し、ついで相國寺に遷る。長享元年更に南禪寺に移り、明應二年十一月十七日六十五歳で示寂した。この本を横川の筆とするのはどんな根據があるか未だわからないが、書風字體等から見れば、禪僧の筆らしく、その時代も、應仁文明の頃か遅くも享禄天文を下らざるものとおもはれる。さすれば、この本は現存節用集中では書寫年代の最古いものの一つである。

 この本は金澤の儒者黒本植氏(稼堂と號し、衆白堂と構す。昭和十一年春歿、壽八十歳)の舊藏本であって、昭和二年、同氏から前田侯爵家の尊経閣文庫に寄贈したものである。本書は白木の二重の箱に入れてあるが、内箱は古く、外箱は稍新しい。内箱には蓋の上に

               古筆了佐札有

   相國寺横川和尚筆  節用集

と墨書し、蓋の裏には中央に

   千本閻摩堂の普賢象を

   見に行かれし相國寺横川和

   尚か筆なり

と墨書した白紙を押し、右下の隅に「众白堂記」の文字ある固形の朱印を捺してあり、内箱の底の内面にも同じ「众白堂記」の印がある。外箱には、蓋の上の中央に

   相國寺横川和尚筆

            古筆

     節用集    了佐

 左下に

     衆白堂藏

と墨書し、右下に「昭和二年黒本植寄贈」と書した白紙が貼ってある。

 本書は、黒本氏が福岡で入手したものであるといふことであるが、それ以前の傳來については詳でない。本解説筆者大正三四年の頃、文學博士上田萬年先生指導の下に、古本節用集諸本について研究し、その結果を「古本節用集の研究」と題して東京帝國大學文科大學紀要第二(大正五年三月刊)に發表したが、その時はこの本はまだ世に知られてゐなかった。大正十年五月、和田維四郎氏追悼の爲、辭書類の展覧會が京都府立圖書館に催された時、はじめて此の書の存する事を知ったのであるが、多分これがこの書の學界に知られた最初であったであらう。

 この書は今は前田侯爵家の藏に歸したが、同家には、別に以前から藏せられてるる古本節用集の一本がある。縦九寸一分横七寸一分の大形の袋綴の冊子一冊で、天正末年の書寫本と認められる。この本を前記の「古本節用集の研究」に於て「前田本」と名づけたから、これと区別する爲に、今解説する所の本を、その舊藏者の名によつて黒本本名づける。

 この本は、他の古本節用集諸本と同じく、いろは引辭書であって、まづ「伊」「路」「波」等の部を立て、一々の部の中に更に「天地」「時節」「草木」以下の門を立てて、語を分ち收めてゐる。さうして各部の名は萬葉假名を以て標して之に一行を與へ、門の名は棚上に小字で標出して門がかはる毎に行を改めてゐる。「ゐ」「お」「ゑ」の三部はその名を標出せず、そのあるべき處の横上に、それ/゛\、「井在前伊」「越在前遠」「見前恵」と標して、語は之と同音なる「い」「を」「え」の三部に併せ收めてある。門は部によって多少があるが、諸部にあるものを合せて十四ある。即ち

   天地 時節 草木 光色 人倫 官名 人名 支體 畜類 財寳 食物 衣服 数量 言語

 この中、「光色」はミ部以外にはなく、「食物」は力部に重出してゐる。門名も部によつて多少の差があって、ロ部と二部には畜類を畜生とし、ハツフの三部には官名を官とし、ヨ部には時節を時とし、ケフシヒセの五部には食物を飲食としてゐる。又、ユメの二部には食物衣服の二門を併せて食服門としてゐる。各部に於ける門の順序は、右に擧げた門名の順序に一致するものも多いがしかし之と異なる所のあるものも少くない。

 語は、本來の国語もまた漢語もすべて漢字で書いて、その右傍に片假名よみ方を附してある。語義を註せぬものも多いが、漢文意義や来歴を註し又は異體字などを示したものもある。

 次にこの黒本本を他の古本節用集諸本と比較して、この本がこれ等の諸本中如何なる位置を占めるかを考へて見よう。

 筆者がこれまで見る事を得た古本節用集は、その巻頭なるイ部天地(又は乾坤門)が「印度《いんど》」といふ語ではじまるか、「伊勢《いせ》」ではじまるか又は「乾《いぬゐ》」ではじまるかによつて、印度本、伊勢本、乾本の三種にわける事が出來るのであるが、黒本本は「印度」にはじまるもので、即ち印度本に属する。印度本はまた、弘治二年本類、永禄二年本類、及び枳園本の三類にわかれるが、その内、枳園本は、永禄二年本類に属する一本と、伊勢本中の一本とを併せて出來たもので、純粋の印度本ではない。印度本の特徴は、巻数は一巻で(但し冊数はわかれてゐるものもある。又枳園本は二巻であるが、これは伊勢本に倣ったものである)、「ゐ」「お」「ゑ」の三部なく、門の數は弘治二年本類は十五門、永禄二年本類は十三門又は十四門、枳園本は十四門である。これ等の點に於ても、黒本本印度本の特徴を有するが、門數から見ると、その中で永禄二年本類に近いやうであるが、門名について見ると、永禄二年本類の諸本に通じて存するのは

   天地 時節 草木 人倫 人名 官名 支體 畜類 財寳 食物 樂名 言語 数量

の十三門で、或本には之に異名門が加はつて十四門となってゐるのであって、黒本本と較べると、樂名(或本では異名も)だけ多く、且つ黒本本にある衣服光色の二門が無い。しかるに弘治二年本類は何れも十五門であるが、諸本に共通のものは十四門で、本によつて病名か又は海藻の一門が加はつてゐるのである。さうして、その共通の十四門は、正に黒本本の十四門に一致する。さすれば黒本本弘治二年本類に属するものである。

 弘治二年本類に属するものとしては

   弘治二年本    南葵文庫舊藏、東京帝國大學

   弘治二年本別本  東京帝国大學圖書館蓄蔵(焼失)

   永禄十一年本  水戸彰考館

   圖書寮零本  宮内省圖書寮御蔵

   和漢通用集  黒川眞道氏蓄蔵

諸本がある。この内、弘治二年別本は弘治二年本を謄寫したもので、内容は弘治二年本と全く同一であるが、その他の諸本は、多少の差異があって、それ/゛\特徴をもつてゐる。まつ門名に於て、弘治二年本永緑十一年本及び圖書寮零本には病名があり、和漢通用集には病名がなく、その代りに他に無い海藻がある。黒本本は病名も海藻も無い點で、その何れとも一致しないが、光色門がミ部にしか無い事は和漢通用集一致し、他の諸本とは一致しない。和漢通用集の海藻門はト部にのみあって、草木門の次に位し、「鶏冠《トツサカ》」「毒椋《ドクマク》」の二語を収めてゐるが、黒本本にはこの二語はト部草木門の最後にあって、何れも下に「海藻」と註してある。和漢通用集は、黒本本のやうなト部草木門の最後の二語だけを誤って別の門として之に海藻と標したのではあるまいか。もし果してさうであるならば、和漢通用集も本來は海藻門なく、すべて十四門であって、黒本本一致するのである。

 次に所收の語について見るに、弘治二年本類の中、弘治二年本と永禄十一年本は時に多少の出入はあるが、大概相等しいのに對して、圖書寮零本と和漢通用集は所收の語は概して少い。さうして圖書寮零本と和漢通用集の間にも一二語の出入があるが、通用集の方が少い場合が多い。黒本本は大概圖書寮零本や和漢通用集に同じく、ことに通用集の方に近いやうである。

 次に附録には、和漢通用集以外の諸本は甚多くの事項を攻めてゐるが、和漢通用集の附録はこれ等に比して著しく少く、

   日本異名

   日本六十餘州受領之高下拉片名同郡數事

   歌書数事

   洛中横小路及び竪小路

   名乗

の五種だけであり、中にも日本異名と歌書數事の二つは、他の如何なる本にも見えず、この本に於て加へたとおもはれるものである。黒本本は、今の形では、相當多くの附録があるけれども、前述の如くその多くは後の書入れであって、本來あったと思はれるのは京中小路名だけである。かやうに、附録の著しく少いといふ點に於ても、黒本本和漢通用集に近似してゐるといふ事が出來る。

 かやうに黒本本は、重要な諸點に於て和漢通用集一致し又は類似して、之に近いものである事疑無いが、一々の部について、その門及び所収の語を和漢通用集と比較するに門敷及び門名に於て間々一致しない所もあり、門の順序は通用集は各部皆一様で亂れた所がないに對して、この本は部によって違った所があって、それが却って、圖書寮零本や、時には弘治二年本、永様十一年本などに一致する場合がある。各部各門所収の語も、大體和漢通用集一致し、間々一二の出入があるに過ぎないが、語の順序は一致しない所が少くない。和漢通用集は、すべての點に於て後に整理を加へたものと考へられる故、その根源となった本に於ては、却って黒本本一致し又は近似する所が多かったのではあるまいかとおもはれる。

 筆者の研究によれば、弘治二年本類の原本となった本に於ては、所收の語は大體圖書寮零本又は和漢通用集に近かったのであって、弘治二年本及び永禄十一年本は之に多くの語を補ったもののやうであり、各部に於ける門の有様は、圖書寮零本や弘治二年本などの方が原本に近いものとおもはれるのであって、概していへば、圖書寮零本が原本の面目を残してゐる所が多いやうに考へられる。然るに圖書寮零本は、その前年が缺けてるるのであるが、黒本本は大體に於て和漢通用集に近いけれども、それよりも更に原本に近い點があって、しかも全巻完備してゐるから、圖書寮零本と共に弘治二年本類原本の状態を考へるには缺くべからざるものである。

 以上述べた所によって、弘治二年本類に属する諸本系統上の関係を考へると、略次の如くであらう。《次頁》

 弘治二年本類以外の印度本の中、枳園本は永禄二年本類の一本と伊勢本の一本とを併せたもの、永禄二年本類の原本弘治二年本類の原本に近い一本から出たものと考へられる。又乾本は、弘治二年本類に属する、和漢通用集に近い一本に改訂増補を加へたもののやうに思はれる(委しくは「古本節用集の研究」を参照せられたい)。さすれば和漢通用集に近く、それよりも更に弘治二年本類の原本の面目を多く残してゐると思はれる黒本本は、印度本、乾本などと根源に於て淺からぬ関係があるといふべきであり、節用集の最初の原本の状態を推定するに當って一の有力なる資料となるものである。

            弘治二年本――弘治二年別本

            永禄十一年本

弘治二年本類源本 圖書寮零本

            黒本本

         一本

           和漢通用集

 節用集は、書簡文書に常に用ゐる語を集めたもので、語の意味を教へるよりも、寧、語を如何なる文字(漢字)で書くべきかを教へるのを圭としたものと思はれる。それ故、古本節用集には室町時代に普通に用ゐられた俗語の類を多く收めてあるのであって、鎌倉時代以前の辭書類には見えないやうなものが少くない。事物の名目にのみ偏せず、廣く各種の語に亙ってゐる故、當時の文を讀み又種々の部面の研究を行ふに當って有用である。語義は必ずしも語毎に註してないが、それでも黒本本の如きは比較的語義を註した處が多い方であり、文語をその意味によつて分類して種々の門に収めてある故、大體如何なる種類に属する語であるかが明かであり、その上、語はすべて漢字で書いてあるのであって、中には意味に関係なき宛字を用ゐたものもあるが、大部分は漢字をその意義に随って用ゐたものである故、多くは漢字によって語義を知り、又は語源を明かにする事が出来るのである。又漢字に附した假名は、漢字をひき出す爲のものであらうが、實際に於て漢字の讀み方(その語の發音)を示すものであって、その讀み方は、必ずしも後世のものと一致せず、殊に清濁を異にするものが少くないが、黒本本の如きは、濁點を委しく加へてあるので、當時の績み方を確實に知る事が出來るのである。また、その假名用法の調査によって、當時の假名遣の實際を明かにし、當時幾何の音を聞きわけ書きわけてゐたかを知る事が出来るのであって、國語音韻の研究にも有力な基礎となるのである。

 要するに古本節用集は、近古乃至近世言語文字の研究に缺くべからざる資料であるばかりでなく、當時の社會諸般の研究にも益する所が多いものであるが、この黒本本古本節用集の中に在っては印度本に属する弘治二年本類中の一本であって和漢通用集に最近く、節用集自身の研究に於て大切な位置を占めるのみならず、諸本中、書寫年代の最古いものの一として、轉寫の誤の比較的少い點に於て諸種の研究の資料として價値多いものである。(昭和十二年八月)

                                 (育徳財團刊節用集附冊、昭和十二年十月刊)

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