柳田国男『国語の将来』

国語史・日本語史周辺(日本文学・日本史・言語学などなど)の覚書です。
最善の説を記録しているものではありません。変な説も記録しています。
書誌として不完全です。
項目の形に規準はほとんどありません*
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柳田国男『国語の将来』

著者言葉

  國語の将来(昭和十四年五月、國學院雑誌四十五巻五號)

  國語の成長といふこと(昭和十一年一月、二月、ローマ字世界

  昔の國語教育昭和十二年七月、岩波講座國語教育

  敬語と児童(昭和十三年十月、國語・國文八巻十號)

  方言成立昭和十五年二月、安藤教授還暦祝賀記念論文集

  形容詞近世史(昭和十三年五月、方言八巻二號)

  鴨と哉(昭和十四年一月、言語研究一號)

  語形と語音(昭和十四年二月、國學院雜誌四十五巻二號)

  國語教育への期待(昭和十年五月、十月、方言五巻五號〈原題、「片言方言と」〉


著者言葉

 日本語が今日の姿になるまでの歴史に就いては、私などの知って居ることはまだほんの僅かなものである。しかしたった是ばかりの事實に心付いただけでも、もう色々の興味と疑問、又若干の心配を抱かずには居られなくなった。さうして是を思慮ある同時代人に、説かずに過ぎ去ってはすまぬやうな氣さへするのである。もし斯ういふ知識が更に豊富に蒐集せられ、又整理綜合せられて、愈々萬人の常識となり常用となった場合、國の文化の歩みは之によって、果してどういふ風な影響を受けるであらうか。地方の隅々に人知れず刻苦して、是等の資料を供給した篤志者の努力は、如何なる程度にまで感謝せられるであらうか。「国語の將來」は言はゞその豫測の書、もしくは小さな試驗の一書である。

 大體の見込をいふと、日本語は日ましに成長して居る。語彙は目に見えて増加し、新しい表現法は相次いで起り、流行し又模倣せられて居る。語音の統一はやゝ難事と見えるが、少なくとも耳につく強い訛りだけは、追々と消えようとして居る。國に偉大な文學が生まれ、人が自由に腹の中を語り得る爲には、是は必要なる條件の一つではあるが、無論是だけではまだ足りない。大きくなるものは丈夫に育てなければならぬ。時代環境の次々の變化に應じて、まだ此上にも立派に又すこやかに、成長し得るやうな體質を賦與しなければならない。それには各人に選擇の力と、判別の基準となるべき高い趣味とを、養ってやることが何よりの急務で、口眞似と型に嵌まったきまり文句の公認とは、先づ最初に駆逐しなければならぬ。國民の思想の安らかなる流露を所願する者、無意識なる偽善が習癖となることを悲しむ者は、国語教育に於て最も有效に、其助長と防衛とを爲し遂げることが出來ると思ふ。

 国語の愛護といふことは、、今更之を口にするのもをかしい位に、一人だつて反射する者の無い國一致の政策である。たゞこの日本語をどうすることが、愛護であるかといふ點について、諸君の言ふことが大分まち/\になって居るだけである。或人は他人の言ふ通りを口眞似して、いつもよそ行きの語を使はなければ、愛護で無いとでも思って居るらしく、又或者はむやみに新語を嫌つて、つまりは今のまんまにそっとして置くことが、即ち愛護であるかの如き口気を見せ、中には全く何が愛護であるかを、尋ねても答へてくれさうに無い人も居る。そんな両立しない解釋の下に、愛護を説くことはむだ、むだと言はうよりも寧ろ有害である。私は行く/\この日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはっきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本當の愛護だと思って居る。それには僅かばかり現在の教へ方を、替へて見る必要は無いかどうか。少なくとももう一度、検討して見る必要があると思って居る。

 此本の文章は、大部分が處々の講演の手控へのまゝである。自分に實行の力が無い者に限って、人に説くときは言葉が強過ぎる。其上に叙述がやゝくど/\しく、又そちこちの重複がある。聰明なる讀者の反感を買はずんば幸ひである。斯ういふ表現こそはもっと平易で、且つ切實なる方式があってよかったのである。それが思ふやうに使へなかったといふのは、つまり私一個人にはまだ国語改良の恩澤が及んで居ないのである。是をも學校教育の不完備に、責任を負うて貰ふと氣が楽なのだが、五十年来の自修生としては、残念ながらそれも出来ない。


創元選書

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。