春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』

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春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』

春日政治

西大寺金光明最勝王経古点国語学的研究

緒言

第一 金光明最勝王經西大寺

第二 訓點

 一  假名字體

 二  乎己止點

 三  訓字

第三 方の概要

第四 音韻

 一  國語

 二  字音

第五 語彙

第六 語法

 一  名詞

 二  數詞

 三  代名詞

 四  動詞

 五  形容詞

 六  副詞

 七  接續詞

 八  感動詞

 九  助詞

 一〇 助動詞

 一一 敬語法

 一二 語の接續

 一三 語の呼應

 一四 文の倒置

 一五 直接引用文

 一六 接續代名詞

 一七 特殊の單位文

 一八 文の首尾

 一九 片假名交り文

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885620

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885624


 我が国に於て漢文国語読みにすることは、早く上代ら行はれたことのやうであるが、実際の方法については今知り難い。奈良朝に至れば、史籍の言ふ所、学令の示す所等によつて、明かにその存在が知られ、国典の註又は音義類の倭言等によつて、その方法の片影は窺はれるが、真の漢文訓読の実例に至つては、亦零細なものの外遺つてゐない。然るに平安朝に入ると、仏典・儒籍に仮名及ぴ符号【即ち乎己止点】を加へて、その方を示すことが盛になつたのであつて、この種の原物の今日に遺存するものが俄然豊富になつて来る。漢文方を示す為に、この仮名及ぴ乎己止点を加へることが所謂訓点であつて、爾来後世まで永く行はれたことである。訓点の施し方にはもとより精粗があつて、今日から見る時、之を完全に読下し得るものもあれば、亦否ざるものもあるが、その何れを問はず、それらが皆国語の歴史資料として役立つことは言ふまでもない。若しそれ点本にして、その加点に随つて、古人の読んだ形に近く読下し得るものがあるとしたならば、それは一種の国語文献を新たに提供することであつて、他の純国語表記文献と相並んで、高度に国語観察の対象となり得る筈である。

 抑国語研究に供する資料について、第一に考へらるべきは、それが国訓される醇本醇のことである。我が国古来の文献にはその形式が種々あるが、たとひそれが邦人によつて自国の事を記したとしても、国語に読下し難いものがある。即ち純漢文又は準漢文に書かれたものは、国語としての訳読が多くは不定である。たとへば記・紀・風土記のやうなものにしても、その真仮名書きの部分を除いては訳読が不定である。訳読不定の文学はそれを国文学として見ても不醇であるのみならず、又それは厳格な国語研究資料にはなり難いものである。我が古代文献にはそれが多い。然るに点本は多く支那所産の漢文でありながら、之を日本語に訳したものであつて、その完全に近く全部国語様式に読下し得るものは、訳読固定の文献である。随つて国語基調の文学に劣らず国語資料を含んでゐることは、古代に於ける訳読不定なる文学に勝つてゐる点である。第二は年代的に確実なりや否やである。我が古代文学の多くは、その作られた当時のものの遺存せるは殆どなく、皆二次三次と伝写を経たものである。我が古代の文献漢字のみを以て記された国典でも、仮名を以て記された文学でも皆さうである。只漢字のみで記された資料伝写による変化が比較的少いものと考へられるが、,仮名文学物語日記等に至れば、伝写による変化が前者に比して、より多く起り勝ちである。極端な例ではあるが、枕草子流布本を堺本や前田家本などに比較した時、その差異が除りに甚だしくて、何人も適従する所を知るに困しむであらう。かゝる種類のものは、第一次の原拠を最も貴しとする国語資料として価値の低いものである。こめ点に於て我が点本は第一次の原拠である。その或物は施された年月が明かに記されてゐる。よし年代の不明なものでも、年代明記のものに比較して、種々の点から大体の推定がさして困難ではないからである。第三には遺存せる分量についてであるが、点本は現存の量から観て決して他の文献に輸けるものではない。試みに吉沢義則博士の点本書目岩波講座日本文学】を見たならぱ思半ばに過ぎるであらう。無論あの中には、完全に施されたもののみではないが、完全に近く国訓に読貫き得るものが相当多い。試みに比較的古い時代に完全に近く施されてゐるものであつて、管見に触れたものについて見るに、正倉院聖語蔵及ぴ東大寺蔵の成実論天長点十一巻、地蔵十輪経元慶点八巻は零本ながら亦完全に加点され、石山寺大智度論天安点並に元慶点及ぴ瑜伽師地論古点の如きは共に百巻を存し、東大寺大般涅槃経及び石山寺の同経は共に四十巻を存して、而も完全に近く施されてゐる。これらほ現存点本に於ける真の小部分に過ぎないが、これだけでも已に源氏物語の五十余帖や栄華物語の四十帖に対して、分量上決して引けは取らないものであることを知るであらう。分量の多いことが必すしも貴い資料でないとも言はれようが、量的に多いものほど、表れ来る国語に於ても広きに亙つてゐることは自然であり、たとひ同一様のものが反覆されたとしても、資料は表れ来る度数の多いほど、その確実性を高めるわけである。点本の量的に多いといふことは亦尊重すべき点であると思ふ、要するに我が訓点資料国語研究の対象として、或醇粋性と或確実性とを以て、相当に豊富なものを我等に供給してゐると言ひ得る。

 南都西大寺の所蔵にかゝる金光明最勝王経十巻は、奈良朝写経の名蹟として明治三十二年八月国宝に指定されたものであるが、之に施してある白墨の訓点平安朝初期のものと推定され、故大矢透博士がその著「仮名遣及仮名字体沿革史料」【以下略して「仮名沿革資料」ともいふ。】に掲げられたことによつて、周く学界に知られてゐるものである。この点本が十巻を完存してゐるのみならず、その加点が、豊富な仮名と周密な乎己止点とを以て、可なり精細に施されてゐて、すぺて殆ど国語様式に読下し得ることは、最も貴ぷべき所であつて、大矢博士が彼の著に於けるこの点本の概説に、

  白点は、頗る詳密にして、他に多く其比を見す。

と称へられたわけである。博士のこの経巻を初めて調査されたのは、明治四十年のことらしい。当時古仮名資料探求の旅にあつた博士は、高野山よりの帰途、偶奈良帝室博物館に立寄つて、同館に寄託のこの経巻を見出したのであるが、その仮名の頗る古体であり、而もそれが豊富に施されてをり、従つて珍しい古訓の多く見出されることに、小躍りして喜ばれ、飽くことを知らず調査されたことは、当時の事を知悉する同博物館員大宮武麿氏の談る所である。爾来博士がこの経巻に対して特別の関心をもたれたことは、「仮名沿革史料」の成つた後再ぴこの点本を調査して、可なり精しく書取つたものの存するに由つても知ることが出来る。博士は古訓点研究の事業を大成する為、大正八年八月居を東京より奈良に移し、同十二年八月まで四年余り、主として正倉院聖語蔵の古経巻について調査されたのであつたが、当時奈良に居た私が、博士と往来して博士の事業に微力を添へることもあつた際、この経巻の訓点を更に精細に調査すぺきやう私に依嘱されたのであつた。私は試みようことを約したまゝ、博士の奈良在住中に途に著手することが出来なかつたのであつたが、私は先づこの訓点によつて本経全部を読下し、之を仮名交り文に翻訳して見ようとの計画を立て、校務の暇を窃んで奈良帝室博物館に通ひ、之を読訳し始めたのが大正十三年八月二十四日であつた。翌十四年三月二十日を以て一往全部を訳了したのであるが、もとより不明の個処も少からずあり、誤読も亦数多あることが推測されるのであるから、次いで同年三月より八月までと昭和二年八月とに於て、第二調査を行つてその訳文を訂正し、更に同五年三月に第三調査、同八年八月に第四調査を試みて、稿が概ね定まつたのである。この間私は福岡に移住したので、近く原本を見る便宜を欠いたことは勿論、境遇の変化が一時この訳文の考察にも停頓を来したのであつた。尤もその一部分については、断片的に屡、他の論考に引用して発表したこともあつたが、この古点自体についての詳論はまだ完成されなかつた。しかしこの訳文は如何にもして上版したい希望をもつてゐたし、従つてこれについて何物かを書いて見ようと思つてゐた際、偶昭和十一年九州帝国大学法文学部に、同学部創立十周年記念論文編纂の事があつたので、それを機として始めてこの古点についての概要を記して、同論文集に載せたのが、小稿「西大寺金光明最勝王経白点について」であつた。【】然るに同十三年に至り、福岡の斯道文庫に、その紀要の一として本訳文並に之が国語学的考察を上版しては如何といふ議があつたので、私は不遜にも之を諾したのである。依つて翌十四年十一月更に今一たぴ訳文校訂した上、之を原本縮写破璃版の下に並ぺて本文篇とし、別に之を対象として国語学的考察を試みたものを研究篇とし、以て本書を成したわけである。

 元来本研究は当初大矢博士の勧説が動機となつたのであつて、私としては真に偶然な著手であつた。それ故かゝる研究の対象として本経を選んだことも、別に特殊な意義をもつてではなかつた。この点本の加点年代が明知されないことは、かゝる研究の対象として何よりの欠陥であることなども考へなかつたのではなかつたが、只この点本が十巻完全に存してゐること、殊にそれが同一人の手によつて加点され首尾一貫せること、而も比較的周密精細に施されてゐて、殆すぺてが国語文として読下し得ること、従つて音韻語彙語法等に亙つて、考察の資料の豊富に存すること、及ぴそれが手近にあつて調査に最も便利であつたこと等が、私をしてこの方面の仕事の手初として、先づこの古点の考察を試みさせた理由とも言ひ得るであらう。私としてはもとより初めての嘗みであつて、未だ及ばない所、又誤つた所も少くないであらう。切に大方の是正を乞ふ次第である。

 顧みれば、私が本点本の調査に著手して以来已に十有余年、その間西大寺並に奈良帝室博物館が、常に私の調査に便宜を与へられた高情に対して、先づ威謝の誠を捧げなくてはならない。而して今茲に本書の公刊を見、多年の宿望を果すを得ためは、一に財団法人斯道文庫の厚賜によることを銘記するものである。更に本書の刊行に当り、原本の撮影に関しては、奈良帝室博物館大宮武麿・松島順正両氏の尽力に荷ふもの多く、原稿の整理、上版の計画、印刷校正等に関しては、斯道文庫主事大塚英雄・同研究員笹月清美両氏の協助に待つものが多い。是亦深く謝する所である。終に昭和十三年より同十五年に亙り、帝国学士院が私の古訓点研究に対して恵まれた補助の、亦本書作成に与つて力ありしことを附記しで、同じく謝意を表する次第である。

 附記。本書に引用された文例は、本文篇からのものはすぺて本文篇に於ける表記に従つてゐる。只その個処に不必要であり、又は却つて誤解され易い符号若しくは傍記は、殆ど之を省いた。傍線、引用鈎、・符、・符及ぴ欄外記入の文字仮名交り傍註等の如きが是である。但しその個処に於て注意すぺき語・句には、右側に傍線を施して之を示すことにした。すぺて引用文に脚註した数字は、その文の本文篇に於ける頁敷・行敷を示したものである。例へば一三四ノ三とあるのは、一三四頁一二行目、一四一ノ上一八とあるのは一四一頁上欄写真の一八行目の意である。

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。