帆足長秋

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帆足長秋

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 帆足長秋は肥後國鹿本榔三玉村久原の人で寶暦七年十二月八日に生まれた。遠祖は豊後の帆足氏であるといふ。祖父の代から久原の天目一箇神社及び靈仙の二宮神社の神職となつた。長秋は少時字を式部と言ひ後豊後守と改め、天明二年避くる所あって更に下總守と改めた。名は初め政秀後に惟馨と言つたが、阿蘇家と同名なので長秋と改めたのである。字は徳甫、號に抱月・徇精・錦溪主人等がある。なほ屋號を考槃洞または抱月館と稱した。

 明和九年(十六歳)の秋から近郷の某氏に從つて學び、安永九年天明元年(二十四・五歳)の頃から下益城郡廻江の守山河内守廣豊について橘家の神道を學んだ。彼は天明元年の頃に『鈴録』、天萌二年に『南留別志』及び『絶句解』、天明三年に『文章一貫』を冩してをり、また天明五年冬に廣豐の宅で『風水草管窺』を寫してゐる。これは當時彼が漢學において徂徠の學問を學び思想的には垂加神道の中にゐたことを示すもので、以つてその精紳生活を窺ふに足りよう。さてこのやうにして育つた肥後の一神職なる彼がいかにして本居宣長の畢問に觸れるに到つたかは詳らかでない。その頃宣長は既に古事記上巻の傳を了へてをり、『直毘靈』・『詞の玉の緒』等の著をなし更に『くずばな』を著して市川匡麿の論難に應へるなど、古學者として活溌な活動を展開してゐた。長秋ぱ天明六年(三十歳)四月廿七日第三囘目の伊勢參宮の途中松坂に寄り、宣長を訪うてその門に入つた。九州人としては最初の鈴屋入門であつた。

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