伊波普猷「混効驗集に就きて」

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伊波普猷「混効驗集に就きて」

伊波普猷

混効驗集


国語学大系



 混効驗集は古代琉球語の唯一の辭書で、明治二十八年の五月、恩師田島利三郎先生が、首里役所長西常央氏の盡力により、野村某氏の藏書を得て筆寫されたものを、乾集は表紙に「威豐五乙卯年二月、御評定所御格護より寫之、御側御物」と記した尚家本によつて校合され、坤集は太田朝敷氏所藏の古寫本によつて校合された、所謂田島本を底本として校訂し、拙著『古琉球』再版の附録として刊行した時、初めて學者の注意を惹いたものである。

 由來諸本の間には、かなりの出入があるのみならず、共通の誤謬さへ見出されるが、二三年前不圖左の如き著しい錯誤のあることに氣が付いた。即ち乾集飮食門の第三項「御時直りおしろものと有,云々」(坤集に「野菜薪の類納をおじるもの|番《おや》すると有、三月三日の貝のりの類納を|干瀬《ひせ》ぐみのおじるものと云」と見えてゐるものとは別物)の次に、「すゑんのおつさへら、出ぢへやうおつさうれ、内裏晩のさくりの時謠ふ詞也。外の人の居らば、出て參れと云事也」とあるのを見て、變だと思ひ、なほ讀み續けると、「あかがいごと、火事のこと也」以下、飮食物でない十一項があつて、しかも最後の「おんたさ、威光有てこは/゛\したる樣也」に、「番の日番中に諸間切より奉る|捧物《さゝげもの》」と云ふわけのわからない説明がつき、さてその次に「どぐわゐ、田芋の事」が續いてゐるので、この十一項はきつと言語門中にあつた一丁の、本を綴ぢる際誤つて其處に竄入したに違ひないと氣が付いて、試みに四五丁ほど後の言語門の所を開くと、あんのじやう第二項に、「おつさうれ、是に來れと云事、ちと敬ふ方にはいまうれと云」と見えてゐるので、例の「すゑんのおつさへら、出ぢへやうおつさうれ、云々」より「おんたさ、威光あつてこは/゛\したる樣也」迄の、其家にあつた事が明白になり、之をもとに戻したら、「番の日番中に諸間切より上る捧物」は、「御時直りお|白物《しろもの》」の説明になつて、能く聞える様になつた。この錯誤を共有する點から見ると、現存する諸本の、皆悉く同一系統のものである事は確だから、例の錯誤の比較的古い時代に起つたことも、推測するに難くない。とにかくこの錯誤が怪我の功名となり、いはゞその殆ど二百年間も氣付かれずにゐたことから、折角起りかけた琉球古典研究の、間もなく下火になつたことをかい間見ることが出來るわけだ。だが昔のことなどはどうでもよいとして、明治の中期に再燃した琉球研究が、大正に至つて一入熾になり、昭和に入つて白熱したに拘らず、琉球研究者わけても新|神歌《おもろ》學派が、例のいみじき錯誤を指摘して、校訂者の疎漏を云々しなかつたのは、この肝腎な文献の餘り利用されなかつた證據である。それはそれとして、校訂者自身が、『古琉球』の三版を出すまで、そこに氣が付かなかつたのも、間の拔けた話だが、それにはしかし恩師から讓り受けたテキストを無絛件で信用したと云ふ心理が、多分に手傳つてゐよう。



 本書編纂の動機と目的とは、その序言中にほの見えて居り、『校訂おもろさうし』の序にも述べて置いたが、つまりは島津氏琉球入後、社會制度の激變によつて、半世紀もたゝないうちに、琉球語に一大變化が起つた爲に、主として亡びつゝあつた「みせゞるの言葉」即ち古代琉球語を集め、其上解釋を施して、後昆に傳へるにあつたと言へる。「みせゞる」は神託の義で、神歌《おもろ》の同義語としても用ゐられてゐるが、所謂「みせゞるの言葉」を採録したこの辭書に、「混効驗集」(混《おほ》いに靈驗ある書葉の集の意)と名づけたわけは、序言を一讀したら、頷けることで、その「みせゞるの言葉」の漢譯であることは言ふまでもなく、之によつて古琉球にも言靈の思想の發達してゐたことが知れよう。これについては今少し詳しく述べる必要がある。

 右に觸れた如く、「みせゞる」には神託の義があり、後世の戲曲などでは「みすずり」と訛つてゐるが、琉球語金石文に、神歌《おもろ》の同義語として用ゐられたものには、「御せゞる」となつた所もあるから、「せゝる」の本體であることは言ふまでもなく、それもイテラティヴ即ち「せる」の頭音の「せ」が今一つ上に冠せられたものであることは、『おもろさうし』で「おもろ」の同義語に「せるむ」(稀に「せるも」)が用ゐられたので知れる。「せるむ」は國語のサヽヤク・ソシル(壹岐島の方言では、さゝやくの義)等と縁を引いた語で、神はさゝやくやうにして宣られる、と古琉球人が考へてゐたところから出來たものに相違なく、之を神人が律語で飜譯したのが取りも直さず「みせぜる」で、結局形式化された神の言葉と云ふことになるわけだ。なほ神歌《おもろ》中、國王の「をなり神」(姉妹の生御魂)で、國家最高の神官なる聞得大君《きこえおほぎみ》の同義語に、「くせせりきよ」(神意を宣る奇しき人、即ち神の御書持《みことも》ちの義)があり、其他の神女の稱號などに、「何々せりきよ」があるのも、參照すべきである。

 それから、限定詞を冠して、熟語を造る時、「よがけせるむ」(國家を支配する神歌の義)と用ゐられたに對して、「よがけおもろ」と云ふ用例の見出されないのも留意すべきで、これは「せるむ」の「おもろ」より古いことを語るものであらう。後には「おもろ」が勢力を得るやうになつたものゝ、古くは專ら「せるむ」の用ゐられたことは、「おもろ」にもと神歌の義のなかつたことを語るものではあるまいか。

『遺老説傳』中の神歌の註に、「俗稱於毛呂三比也志」とあつて、於毛呂三比也志に「おもろ御拍子《みひやし》」即ち神歌を謠ふ事の義(後がけひやし・島討ひやし・航海《ふなやり》ひやし等と比較せよ)の義があるところから考へると、「おもろせるむ」と云ふ熟語もあつたやうな氣がする。といふのは、聞得大君の御新下《おあらお》り(御初地入りとも云ひ、女君が任命されて。初めてその領邑知念間切に下り、齋場嶽《さやは》に詣で丶、常世《にらい》の大神から世持威靈《よもちせぢ》を受けることで、古くは國王の即位式にも比適すべき大典であつた)の時などに、神前で謠ふ「くわいにや」(神歌《おもろ》の姉妹詩)を「おもろくわいにや」と云ひ、神前に行く道中で謠ふ「くわいにや」を「道ぐわいにや」と云ひ、旅立つ人を祝福する時に謠ふ「くわいにや」を「旅ぐわいにや」と云つてゐることからも類推出來る。「おもろくわいにや」が、『女官御双紙』で「おもりくわいにや」になつてゐるのも注目に値すべく、『琉球神道記』には、神歌にオモリと假名が振つてあるから、古く「おもろ」を「おもり」とも言つたことは明かで、近世になつて、「おもり」は、國家的祭禮に謠ふ公認された神歌《おもろ》に對して、地方の祝女が祭禮に時に謠ふ公認されない神唄に云つたが、これがむしろ古形であらう。とにかく「よがけせるむ」や「おもりくわいにや」と云ふ造語法から類推すると、神前即ちお杜《もり》で謠ふ歌に、古く「お杜せるむ」と云つたことは確で、具體的にいへば、修飾語と被修飾語とで出來上つた語の意義が、語形を短くする爲に、修飾語だけで表されたと見て差支へなく、「瀬戸物」の意昧が瀬戸だけに收められた結果、「瀬戸ひき鍋」では地名瀬戸が琺瑯質の意味を持つ迄に轉訛したのと同じ言語現象だと思つたら間違ひなからう。オモロに韓歌が宛てたり、神歌にオモリと假名を振つたりしたのも、決して偶然ではあるまい。

 かうして、本來の「せるむ」は「おもろ」に位地を讓つて、『おもろさうし』以外には殆ど見出せないが、田島先生が探集された『諸間切|祝女《のろ》くもいのおもり』百首中、勝連間切南風原村の雨乞のオモリの後半には、「おもろや神がわいもん、すぢよ、神おもろとるむな、すイるめエすぢがわいもの、神よ、すぢすイるめエとるむな」といつたやうに、「すイるめエ」と云ふ形で遺ってゐる。「すイるめエ」(sirume:)は實語「せるみ」に形式語ヤ(國語のハに當るもの)の融合して訛つた形で、實語の單獨に用ゐられる時、sirumiと發音されることは説明する迄もなく、多分「せるむ」の古形に違ひないが、後世オモリがオモロ(或はウムル)になつた時、その類推でセルモ(或はセルム)に轉じたと見ていゝ。或はセルミといふ名詞形がセルムに轉じた時(水量の多い泉を湧くと云ひ、周廻《まわり》をマワル即ちヤールと云ふが如き)その類推でオモリがオモルに變じ、いつしか「おもろ」と表記されたとも見られる。「せるむ」は多分動詞終止形でもあったらう。さてこの神唄《おもり》の意昧は、おもろは神の御物《おやもの》ぞ、神靈《おぜぢ》よ、神歌《かみおもろ》は止むる勿れ、せるみは|聖靈《おせち》の御物ぞ、神よ、|聖歌《せぢせるみ》は止むる勿れ、と云ふことだから、「せるみ」に神の言葉即ち「みせゞる」の義のあることは明かで、これなしには|人間《すぢや》は生きられないから、と云ふ言語情調が伴ってゐる。

 言靈の思想の最も能く現れてゐるのは、伊平屋島のテルク囗《ぐち》である。それには常世《にらい》の神の言葉の義があるが、主として五音節六七十行位のもので、各部落で謠はれてゐる。その内容も略同樣で、たとへば田名には、舊七月十七日に、村内の男子が四組に別れて、家々を訪れ、先づ家長と其妻との名を唱へて、種蒔きから稻刈りまでの理想的過程を豫祝し、かう祝福したからには、「清《すも》し酒|出《い》ぢやせうれ、|白直酒《しろまみき》出ぢやせうれ」、「てるくみ(常世の神を)祭れ、なるくみ(同上)祭れ」、「てるくみが言《いふ》る事や、なるくみが言る事や、口正《くちまさ》しや(靈驗あらたかの義。坤集言語門に「まさしや、靈の字、占などの能叶をいふ」とある)有《あ》やべん、言正《ことまさ》しや有やべんし、それ故心から歡待したら、來年はもつと豐作して、六つ股倉や八つ股倉の主になり,島の命國の命を受けよう、といふ意昧の神語を傳へる行事がある。これらのテルク口《ぐち》は、久しく採録されずに、神女の間に口々に傳承されたのだが、二百三十年前、琉球國由來記中に採録された同島の「みせゞる」や「宜立詞《のだてごと》」よりも、かへつて古い形式を保存してゐる。因にいふが、「みせゞる」や「のだて詞」は、夙に原義を失つて、|壽詞《よごと》や|祝詞《おたかべ》の義になつてゐる。テルク囗《ぐち》の考察によつて、古琉球に於ける言靈の思想は一入はつきりして來たが、『おもろさうし』中の詩人を歌つたものに、「何某がおもろ、口まさしやあもの」といふ句がかなり見出されるのも注目すべく、神歌の起原の神懸りした神人の傳へる神託《みぜゞる》にあつたことを語るもので、神人に「おさし」(神の使)又は「むづき」(靈憑)と云ふのと照合して考ふべきものであらう。序に、詩人が「おもろ」を奉つて、王の壽をなすことを、「神歌貢《おもろかまへ》」と云つたことも附加へて置く。

 以上は、拙著『古琉球』の初版を出した時、「おもろ」には「思ふ」の義がある、と言つた思付きの幼稚なるを悟り、數年前惜しげもなく棄てゝ、建て直しをしたのを、新しい資料によつて補足したのだが、かうして棄てたものを拾つて、つい近頃之を布衍した人がある。

 本書の編纂者は、序言の終りに列記してある通りの顔振れだが、とりわけ注目すべきは、三司官(國務大臣)の古參にして、和學の研究者であつた、毛起龍識名親方盛命である。『中山王府相卿傳職年譜』によると、彼は尚貞王の時、清の康熈四十一年(我が延寶十五年)十月二十四日、三司官に任ぜちれ、尚益王の時、康熈四十八年(寶永六年)十一月十八日、紫地浮織冠を賜り、同五十年(正徳元年)七月三日致仕して、同五十四年(寛政元年)六十五歳でこの世を辭したが、約十一年間も三司官の要職にゐた人で、政治家であると同時に、文人でもあつた。琉球に於ける敷島の道の鼻租と言はれる人だけに、康熈二十七年(元禄元年)、進貢使として支那に赴いた時には、北燕の風物を三十一文字で歌つてゐる。同二十九年薩州に使した時、帝都の話を聞いて、是非一度漫遊したいといふ氣を起したが、當時は國々の關門堅く閉されて、僧侶の外は容易に通過し難きを知り、剃髪して瑞雲と號し、密に京都に雲遊して、その制度文物を視察し、徐ろに和學の研究をして歸つた、と言はれてゐる。彼の『思出草』は薩州に使した時の紀行文(中に和歌が六十五首もある。京都紀行が別にあつた筈だが、傳はらない)で、琉球人の物した最古の擬古文である。『混効驗集』の語釋中には、比較のために引用された文例に、源氏伊勢徒然草太平記中のものがあり、引合ひに出された辭書に、呉竹集・林愚抄・詞林三知抄・據用雲箋・塵添〓嚢抄節用集のある點から、この集の彼の筆に成つたことは、疑ふ餘地がないが、彼が和學に造詣が深かつたからとて、或琉球研究者が言つた如く、神歌《おもろ》研究の第一人者でもあつた、と速斷するわ

      附    録

けにはいくまい。といふのは、集中の神歌語の略註は、『おもろさうし』安仁屋本(後で言ふ)の傍註そつくりで、用語がまづく(例へば、「みしやご」は善き子と譯すべきを、能《よ》か子と譯した如き)、又時偶方言を交へたりして(例へば、「よらちへ」は一杯積んでと譯すべきを、ずばとと譯した如き)、『思出草』を書いた人の筆とは思へない節があるからだ。本書の編纂委員中、主取津〓・立津・筆者瑞慶田(田は多分村の齪りで、『おもろさうす』には、瑞慶村《ずげんだ》になってゐる)の三人は、『おもろさうし編纂の經驗を有する者で、幾分|神歌《おもろ》を解してゐて、例の簡單な語釋を書いたのを、言語情調を傳へるには、その方がむしろよいと思つたので、識名親方は之をそのまゝ採用して、布衍したと見るのが、眞相に近からう。安仁屋本の傍注を見ると、難語難句には殆ど觸れずに、わかりきつたものにのみ施してあるから、識名親方を神歌の権威に擬するのは、かへつて贔負の引倒しにならう。

 それはさて置き、日本古典を讀むに當つて、常住前掲の辭書類を座右に備へてゐたこの和學者が、父祖の精神的遺産なる『おもろさうし』の、危く失はれやうとした時(寳永六年首里城に火災があつて、王府所藏の『おもろさうし』の燒失したことを言ふ。『校訂おもろさうし』の序參照)、幸にも具志川家からその姉妹本が現れたので、之を底本として二部の校訂本を作り、一部は王府に備へつけ、今一部には特に謠ふときの句切り點と|言葉間書《コトバエーヂヤガキ》(傍註)とを施して、神歌主取安仁屋家に保管させる提議をなし、いよ/\採用されて出來上つたとき、それに飽足らずして「みせゞるの言葉」の辭書編纂に乘り出し、老官女の語彙を基礎として、例の傍註附きの神歌語をも取入れ、なほ古老の口碑などを參照して、自ら註解の筆を執つたことは、十分考へられ得ることで、彼は後世の學徒に神歌研究の鍵を與へた恩人だといへる。(昭和十三年七月二十四日)

 (附配) 混効驗集には前竭諸本の外に二三の異本がある。上田萬年博士の藏書中の王堂本《チエンバレン》は、横山重氏の手に渡つてゐるが、明治二十六年西常央氏の盡力によつて得たもの故、田島本の姉妹本であることは言ふまでもない。東恩納寛惇氏の藏書中にも仲吉朝助氏筆寫の同系統異本があリ、別に明治四十年の一月護得久朝常氏がイロハ順配列し直して同氏に與へたのもあるが、後者作製の時底本の「おんたさ」の項、終りの別行の「番の日番中に諸間切より上る捧物」を「御時直りお|白物《しろもの》と有、形遠(形鹽の誤か)と書と有」の下に持つて行かずに「どぐわゐ、田芋の事」の下に持つて行つたのは、「お時直りお白物《しろもの》云々」と「番の日云々」との間に言語門中の一丁の竄入した事に氣が付かなかつたからだ。其外にも一二本見出されるが、別系統のものではない。

 序に一言したきは田島本の出來た經緯で、卷末の餘白に「明治十九年十二月五日に越來間切大道開墾地なる山内盛熹氏を訪ひて其の説によりて書入し八日鬼餅の晩方にをはる。?と記せしは現今なきことばなり。但坤集の乾坤神祗人倫のところに現今あろ名には」點を付し記なきは現今なきものなり」と書付けてあるのは、この集編纂後に於ける琉球語の變遷を示すのみならす、明治の中期頃迄使用された語彙中、四十年後の今日死語となつた者の夥しきは、取りわけ置縣後に於ける琉球語の激變を語るものでみる。田島先生の研究贅料はかうして大方集められ、神歌《おもろ》研究の準備も略整つた。そして其翌年先生は琉球を引上げて上京されたが、私に琉球研究を慫慂して一切の資料を譲與されたのは、明治三十六年私が東大に入學した時であつた。(昭和十五年三月二十四日)

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