仮名垣魯文「安愚楽鍋」

国語史・日本語史周辺(日本文学・日本史・言語学などなど)の覚書です。
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仮名垣魯文「安愚楽鍋」

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仮名垣魯文


国立国語研究所資料集 9安愚楽鍋用語索引昭和50年3月1日 発行) に影印

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882303

天地《てんち》は萬物《ばんもつ》の父母《ふぼ》。人《ひと》は萬物《ぱんもつ》の霊《れい》。故《かるが》ゆゑに五穀草木鳥獣魚肉《ごこくさうもくてうじうぎよにく》。是《これ》が食《しよく》となるは自然《しぜん》の理にして。これを食《く》ふこと人《ひと》の性《せい》なり。昔々《むかし/\》の里諺《ことわざ》に。盲文爺《ももんぢゝい》のたぬき汁《じる》。因果應報《いんぐわおうはう》穢を淨むる。かち/\山の切火打。あら玉うさぎも吸物で。味をしめこの食初に。そろ/\開化《ひらけ》し西洋料理《せいやうれうり》。その功能《こうのう》も深見草《ふかみぐさ》。牡丹紅葉《ぼたんもみぢ》の季《とき》をきらはず。猪《しゝ》よりさきへだら/\歩行《あるき》。よし遅《おそ》くとも怠《おこた》らず。往來《ゆきき》絶《たえ》ざる浅草通行《あさくさどほり》。御藏前《おんくらまへ》に定鋪《ぢゃうみせ》の。名《な》も高籏《たかはた》の牛肉鍋《ぎうにくなぺ》。十人《じふにん》よれば十種《といろ》の注文《ちうもん》。昨晩《ゆうぺ》もてたる味噌《みそ》を挙《あげ》。たれをきかせる朝歸《あさがへ》り。生《なま》のかはりの粋《いき》がり連中《れんぢう》。西洋書生《せいやうしよせい》漢学者流《かんがくしやりう》。劉《りうくん》に似《に》た儒者《じゆしや》あれば、肖柏《せうはく》めかす僧《そう》もあり。士農工商《しのうこうしゃう》老若男女《らうにやくなんによ》。賢愚貧福《けんぐひんぶく》おしなべて。牛鍋《うしなべ》食《く》はねば開化不進奴《ひらけぬやつ》と鳥《とり》なき郷《さと》の蝙蝠傘《かうもりがさ》。鳶合羽《とんびがっぱ》の翅《つぱさ》をひろげて遠《とほ》からん者《もの》は人力車《じんりきしや》。近《ちか》くは銭湯帰《ゆがへり》。藥喰《くすりぐひ》。牛乳《みるく》。乾酪《かんらく》【洋名チーズ】、乳油【洋名バタ】牛陽はことに勇潔。彼肉陣の兵粮と。土産に買ふも最多《おほ》き。人《ひと》の出入《でいり》の賑《にぎ》はしく込合《こみあひ》の節《せつ》前後《ぜんご》御用捨《ごようしや》。御懐中物《ごくわいちうもの》御用心《ごようじん》。銚子《てうし》のおかはり。お會計《くわいけい》。お歸《かへ》ンなさい入ラツしやい。実《げ》に流行《りうかう》は昼夜《ちうや》を捨《すて》ず繁昌《はんじやう》斯《かく》の如《ごと》くになん。されば牛《うし》はうしづれの同氣《どうき》もとむる肉食《にくしよく》群集《くんじゆ》席《せき》を區別《わかち》しありさまを。一個々々《ひとり/\》に穿《うがち》て云《い》はゞ【まづざつとしたところがこんなものでもあらうか】

西洋好《せいようすき》の聴取《きゝとり》

▲年ごろは三十四五の男、いろあさぐろけれどシヤボンをあさゆふつかふと見えて、あくぬけていろつやよく、あたまはなでつけかそうはつにでもなるところが、百日このかたはやしたるを右のかたへなでつけ、もつともヲーテコロリといへる香水をつかふとみえて、かみのけのつやよく、わげはかくぺつおほきからず、きぬごろのみちゆきぶりに、たう糸ニタ子のわたいれまがひ、さらさの下タ着、うらははりかへしのがくうらなるべし。カナキンではりたるかうもりがさをかたはらヘおき、くるしいさんだんにてもとめたる袖時計のやすものをえりからはづして、とき/゛\ときを見るはそつちのけ、じつはほかのものへ見せかけなり。たゞし、くさりはきんのてんぶらと見えたり。

○となりにうしをくひてゐるきやくにはなしをしかける。

「モシ、あなたヱ 牛《ぎう》は至極《しごく》高味《かうみ》でごすネ。此肉《このにく》がひらけちやア、ぽたんや紅葉《もみぢ》はくへやせん。こんな清潔《せいけつ》なものを、なぜいままで喰はなかつたのでごウせう。西洋《せいやう》では、千六百二三十年前《まへ》から專《もつぱ》ら喰《く》ふやうになりやしたが、そのまへは、牛や羊《ひつじ》はその國《くに》の王《わう》か、全権《ぜんけん》と云《い》ツて、家老《からう》のやうな人でなけりやア、平人の口へは這《は》入やせんのサ。追々《おひ/\》我《わが》國も文明開化《ぶんめいかいくわ》と号《い》ツてひらけてきやしたから、我々《われ/\》までが喰《く》ふやうになつたのは実《じつ》にありがたいわけでごス。それを未だに野蛮《やばん》の弊習《へいしう》と云ツてネ、ひらけねへ奴等《やつら》が肉食《にくしよく》をすりやア、神佛《しんぶつ》へ手が合《あは》されねへの、ヤレ微《けが》れるのと、わからねへ野暮《やぽ》をいふのは、究理学《きうりがく》を弁《わきま》へねへからのことでげス。そんな夷《ゑびす》に、福澤《ふくざは》の著《かい》た肉食《にくしよく》の説《せつ》でも讀《よま》せてヘネ。モシ西洋《せいやう》にやアそんなことはごウせん【この人ござりませんをごウせん、ござりますをげスなどいふくせあり】。彼土《あつち》はすべて理《り》でおして行国《ゆくくに》がらだから、蒸氣《じやうき》の舩《ふね》や車《くるま》のしかけなんざアおそれいつたもんだネ。

既《すで》にごらうじろ、傳信機《てれがらふ》の針《はり》の先《さき》で、新聞紙《しんぶんし》の銅板《どうぱん》を彫《ほつ》たり、風舩《ふうせん》で室《そら》から風《かぜ》をもつてくる工風《くふう》は妙《めう》じやアごうせんか。あれはネ、モシ、斯《かう》いふ譯《わけ》でごぜヘス。地球《ちきう》の図《づ》の中《なか》に、暖帯だんたいと書てありやす國《くに》があるがネ。彼所《あすこ》が赤道《せきだう》といツて、日《ひ》の照《て》りの近《ちか》イ土地《とち》だから、あついことはたまらねへ。そこで以《もつ》テ、国《くに》の人《ひと》が日《ひ》にやけて、皆《みん》なくろん坊《ぱう》サ。それだから、その国《くに》の王《わう》がいろ/\工風《くふう》をして、風舩《ふうせん》といふものを造《つく》ツて、大きな圓《まる》い袋《ふくろ》の中《なか》へ風《かぜ》をはらませて空《そら》からおろすと、そのふくろの口《くち》をひらきやすネ。すると、大きなふくろへ一《いっ》ぱいはらませてきた風《かぜ》だから、四はう八方《ぱう》へひろがッて、国《くに》の内《うち》がすゞしくなるといふ工風《くふう》でごス。まだ奇妙《きめう》なことがありやす。魯西亜《をろしや》なンぞといふ極《ごく》寒《さむ》い国《くに》へゆくと、寒中《かんちう》は勿論《もちろん》、夏《なっ》でも雪《ゆき》が降《ふ》ツたり、氷《こほり》が張《はる》ので、往來《わうらい》ができやせん。

そこで彼《かの》蒸氣車《じやうきしや》といふものを工風《くふう》しやしたが、感心《かんしん》なものサネ。一体《いつてへ》蒸氣車《じようきしや》と云《いふ》ものは、地獄《ぢこく》の火《ひ》の車《くるま》から考出《かんがへだ》したのださうだが、大勢《おほぜい》をくるまへのせて、車《くるま》の下《した》へ火筒《ひづゝ》をつけて、そのなかで石炭《せきたん》をどん/\焚《たく》から、くるまの上《うへ》に乗《のつ》てゐる大勢《おほぜい》は、寒氣《かんき》をわすれて遠道《とほみち》の通行《つうかう》ができやせう。ナント考《かんが》へたものサネ。何《なに》サこのくれへな工風《くふう》は、彼土《あつち》の徒《てあひ》はちやぶ/\前《まへ》でげス。此《この》大千世界《たいせんせかい》の形象《かたち》せへ渾沌《こんとん》として毬《まり》の如《ごと》しと考《かんが》へたはサ。それ以前《いぜん》は、釋迦如來《しやかにょらい》が須弥山《しゆみせん》と号《なづ》けたところが、西洋人《せいやうじん》はまん/\たる海上《かいじやう》を渡《わた》ツて、世界《せかい》の果《はて》からはてまでを見《み》きはめたのだから、釋迦坊《しやかぱう》も後悔《こうくわい》したさうサ。そこで以《もつ》て、海《うみ》をわたる工風《くふう》を、西洋《せいやう》じやア後悔術《こうくわいじゆつ》といひやすはナ。ヲヤモウ御帰路《おかへり》か。ハイさやうなら。ヲイ/\、ねへさん、生《なま》で一合《いちがう》。葱《ごぶ》も一処《いつしよ》にたのむ/\。

○堕落個《なまけもの》の廓話《くるわぱなし》

▲年は二十四五いろなましろくあたまのかみはたくさんにて、いてうにゆひ、はなしかの円てうまがひ、おめしのあゐみぢんの小そで一ツ、どう着はさだめし女の物をなほしたりとおもはれ、二三日ゐつゞけてぼんやりしたすがた、すこしやつれを見せるたちなり。ぎんぐさり十六ほんのたばこいれしやうのあやしきにしちどやきぢよしんばりのきせる、ねつけはぞうげのかゞみぶたにて、これも仕いれものとみへたり。とき/゛\うでをまくりてうでまもりのぎんかな具をひけらかし、つれとふたり、さしつおさへつ、のみかけ目のふちをあかくして、きいろいこゑをたかてうし


半ちゃん、ゆふべの世界《せかい》はおいらはじつにふさいだヨ。彼楼《あすこ》へは三四《さんよ》たび登楼《あがつ》たことのあるのだから、けんのんだといふのに、竹坊《たけぱう》がむやみにあがらうといふから、おめへは一件《いつけん》の処《とこ》へ脱走《だつそう》してしまうし、おいら一人《ひとり》ほかへあがるのもおもしろくねへから、野面《のづ》であがりこんだところが、あひにくと二會《うら》までいつた遊女《をんな》がおいらに出ツくわせたらうじやアねへか。こいつは不見識《ふけんしき》だとおもつたけれど、ひきつけのとき、ごまかしてわきを向いてゐたから、お茶屋が気をきかして、ヘイおめしかヘト、はやく切あげたので、その場《ぱ》はきりぬけたが、番新《ぱんしん》めがおいらの顔《かほ》を見おぽへてゐやアがつて。ひけて座《ざ》しきへ這入《はいる》と、すぐに、モシヱ、ぬしやアよくきなました。人がわるウざんすヨ。これサ、お茶屋の人《ひと》、このきやくじんは跡《あと》の月《つき》の三日に、田町の弁天平野《ベんてんひらの》から、三人一座《いちざ》で二會《うら》に來《き》なましたお客《きやく》だますヨ。ト敵《てき》にこゑをかけられたから、うしろを見せるのも外聞《げへぶん》がわるいとはおもつたが、馴染金散財《なじみきんさんざい》にやア代《かへ》られねへ。これをきくがいなや小便《せうぺん》にいつて。その帰《かへ》り足《あし》にはしごをトン/\。はきものヲト、みづからこゑをかけて、茶屋《ちやや》の女《をんな》を。おきざり、まいねんさつサとござれや、といふ身《み》で飛出《とぴだ》して、茶屋まですた/\帰《けヘ》ツたところが、女中が跡《あと》から追《お》ツかけて來て、なにかお氣にさはツたことでもございましたかは。ヱヽコウ。いゝじやアねへか。ダガノおいらのやうに、年《ねん》びやく年中《ねんぢう》吉原《なか》へ計《ぱか》りはいりこんでゐちやア、かほがわるくなつて、さきがこわがつて相手《あひて》にしねへから、嶋《しま》ばらへでも巣《す》をかへやうとおもツてゐるのサ。なんだツても、丸《まる》三年といふもの、一トばんもかゝしたことがあるめへじやアねへか。それだから、宝槌楼《さのづち》のことばの「かうなんし、あゝなんし」から、鶴泉《つるいづみ》の「くされてゐる」「だしきつてゐる」平泉《ひらいづみ》じやア、客《きゃく》を古風《こふう》にぬしといひサ、「なんだます」「ぢれツてへ」といふことから、松田屋《まつだや》のつの字《じ》ことば。角《かど》ゑびのはやことに、岡本《をかもと》の「くるはヨ」「ゆくはヨ」金瓶大黒《きんぺいだいこく》じやア、「あゝやだヨ」といふことばを禁《ふう》じられたシ、尾彦《おひこ》の朝のむかひのはやいのヤ大文字屋の気のかるいの。伊勢六の大見識の内ゆるみまでを知《し》ツて居《ゐ》るシ。岡田屋《をかだや》のおいらんたちは、傾城水滸傳《けいせいすいこでん》の種本《たねほん》で、甲子屋《きのへねや》のしん造衆《ぞうしゆ》が客《きやく》のくるかこねへかを茶屋《ちやや》に念《ねん》をおすことまでしようちしちやア、樂屋《がくや》が見《み》どほしで、客《きやく》になつてもおもしろいあそびはできねへから、ずつと世界《せけへ》を見《み》やぶつて、新造買《しんぞうかひ》もして見《み》たが、次《つぎ》の間《ま》あそびはがうせい氣《き》ぽねのをれるものだし、いまの壯年《わか》サにあんまり老人《やきまはり》じみるから、それも廃《はい》して藝者《げいしや》と出《で》かけたが、組《くみ》で八十匁《め》はつゞかねへ。うら茶屋ばいりの汐待《しほまち》もたいぎだから、グツト色氣《いろけ》を去《さ》ツて、幇間《をとこのこ》を買《か》ツてあそんでも見たが、彼奴等《きやつら》はどうも友《とも》を呼《よん》でならねヘヨ。此あひだも新孝《しんかう》をさそツて金子《かねこ》へ夕飯《やしよく》を喰《く》ひに行《ゆく》と、あとから喜代壽《きよじゆ》に正孝《しやうかう》、序作《じよさく》、露八《ろはち》なんぞといふ流行《はやり》ツ子が、どかくとおしこんで來《き》て、かけがへのねへ大楮幣《おほさつ》をとうく一枚《いちまい》こすらせられたぜ。モウ/\なか《吉原》はごめんく。しかし、今夜《こんや》は廓《さと》の名残《なごり》に。彼一件《かのいつけん》の処《とこ》へ出《で》かけるつもりだが。もうひとばん附合《つきあ》ふべしサ。なに又|株《かぶ》ダ。イヤサ、実《じつ》にこんやで根《ね》ツきり葉ツ切りほんとうにこれぎりく。扨《さて》おてうしもおつもりタ。

○鄙武士《ゐなかぶし》の獨盃《ひとりのみ》

▲としごろハ三十ばかりいろあくまでくろく、あたまは自びんのくさたばね、もつともそうがみの火のつきそうなみだれがみ、くろもめんのもんつきとんつく、ぬの子に小くらのよごれくさつたるはかま、みぢかき一ぽんがたなのつかのよごれをいとふかあるひは、つかいとのほつれをかくさんためか、しろもめんにて、ぐる/\とまきつけつんつるてんのきものをうでまくりして、しやにかまへ、よほどゑひがまはりしと見へて、わりばしのさきにたれのつきたるを二ほんつかみて手びやうしをうちながら大きなどすごゑにて

詩「衣《ころも》は〓《かん》にいたりイ、そではア腕《わん》にいたるウ、腰間秋水《えうかんしうすゐ》。鉄《てつ》を断《きる》べしイ。人《ひと》觸《ふる》れば人を斬《きり》。馬《うま》ふるれば馬《うま》をきるウ。十八|交《まじはり》をむすぶ健兒《けんじ》の社《しや》ア引。是《こ》ヤ/\、女子《をなご》、酒《さけ》ヱもてこずかイ。こや/\そしてナ、生《なま》の和味《やっこい》のをいま一皿《いちめへ》くれンカ。ア、愉快《ゆくわい》じや/\【トあたりをきよろ/\みまはして、となりにゐたるさむらひをじろり見やり、くくづしたるひざをたてなほし】

ハア失敬《しっけい》ごめん、コヤ女子《をなご》なにを因循《いんじゆん》してをるか勉強《べんけう》して神速《しんそく》にせい【トいひながら又こちらのさむらひにうちむかひ】

君牛肉ハ至極《しごく》御好物《ごかうぶつ》とすゐさつのウ仕るが、僕なぞも誠実《せいじつ》賞味《しようみ》いたすでござる。イヤかゝる物價沸騰《ぶっかふつとう》の時勢《じせい》に及《およ》ンで割烹店《かつほうてん》などへまかりこすなんちふ義は所謂《いはゆる》激發《げきはつ:ヤケニナル》の徒でござる。此牛肉チウ物ハ高味極まるのみならず開化滋養《かいくわじやう》の食料《しよくれう》でござるテ。イヤ何《なに》かとまうして失敬《しつけい》。御めんコヤ/\女子《をなご》一寸《ちよつと》來ンか、コヤ。あのうナ、生肉《せいにく》をナ、一斤《いっきん》ばかり持参《ぢさん》いたすンで。至極《しごく》の正味《しやうみ》を周旋《しうせん》いたイてくれイ。アヽ酩酊《めいてい》きはまツた、ヲヽ生肉《せいにく》か、ゑゝは/\、會計《くわいけい》はなんぼか

じんく「愉快《ゆくわい》きはまる陣屋《ぢんや》の酒《しゆ》ゑん。中《なか》にますら雄《を》、美少年《ぴせうねん》引。【トはなうたをうたひながら、あら/\しくかたなをさげ、たけのかはづゝみをつかにかけて】、女子またくるぞ。【トほうの木ばのはきもの、がら/\おもてへたちいで】、ウタ「しきしまのやまとごゝろを人《ひと》とはゞア丶丶丶丶あさひにイ匂《には》ふウ山《やま》さくら花《ぱな》ア丶丶丶引

     ○|野幇間《のだいこ》の|諂諛《おベツか》

▲としごろは三十二三、かほほそながく、せいのひよろりとしたをとこ、あゐみぢんのおめしちりめんたうざらさは、へりばかりの下タ着にそろへきぬちゞみのくりうめにそめたはおりへ、ちひさく五ツところもんをつけ、上しうはかたのふながうし、のりのつよいおびをしめ、まがひさんごじゆのをじめをつけたるくろざんの一ツさげ、ねつけは角にてからしゝをつくりたる古風なさいくきせるは石州ばりのてんぷらなり。とき/゛\まゆげをあげさげして、くちをつぼめて物を云くせ有。

○つれハかねてとくいのきやくとおぼしく、あさくさの地内あたりでゆきあひとりまきてはなれぬやうす

のづ八「モシ若旦那。どうでげス。このせつはでへぶ柳橋辺でおうかれすぢじやアごぜへせんか。ヱヽモシ、あまりまよはせすぎると罪になりやすぜ。柳のすぢは誰でごぜヘス、はくじやう/\。ヲツト忘《わす》れたり/\。二三日めへに嶋原《しまぱら》の晩花《ぱんくわ》から飛札《ひさつ》到來。すなはち、たねは爰《こゝ》に有馬《ありま》の人形筆《にんぎゃうふで》ツ【トくわいちうのかみいれより、うや/\しくふみをだしてみせかけ】、ヱモシ、あの娼妓《らん》は、あなたにやアつとめをはなれた仕《し》うちでげスぜ。イヱサ、油《あぶら》をかけるなんぞといふのはひととほりのお客《きやく》でげス。あなたと拙《せつ》がその中《なか》は、きのふやけふのことじやないッ。マァおきゝなせへし。此間《このあひだ》、内證《ないしょう》の千臆《ちおく》さん【晩花樓主人の俳名をしかいふ】へ甘海《かんかい》宗匠《そうせう》からの傳言《でんごん》をたのまれやしたから、一寸《ちよっと》顔《かほ》を出《だ》したつひでに、楼上《おにかい》へ参《めへ》ッたところが、私《わちき》を見《み》ると、おいらんが、野図八《のづはっ》さん、浮《うき》さんと同伴《いつしよ》かへと、次《つぎ》の間《ま》へかけだしてきなすッたから、私《わちき》がいちばんだまをくらはせて、ヘイ浮《うき》さんはいまさめや【清元栄荏の宅。引手茶やなり】へ寄ておいでなさるから、すぐに跡から、モシおいらん御愉快。なんぞお饗應《おごん》なさいと、十八番《ぱん》の銕《てつ》をきめると、アヽまつてくんなヨと、なにかそは/\しながら、新造《しんぞう》しゆうに耳《みゝ》こすりサ。私《わちき》は尾車《をぐるま》さんや連山《れんざん》さんのところをまはつてくるうちに、金花楼《きんくわらう》の珎味《ちんみ》たつぷり手形《てがた》の「びいる」が一《いつ》ぽんとあらはれやした。ところで、しやア/\と御馳走《ごちそう》てうだいの間《あひだ》がおよそ西洋時計《せいようどけい》一字《いちじ》三ミニウトばかりのひまだから、娼妓《らん》の曰《いはく》。のづ八さん、うきさんはどうしなましたらう。あんまりひまがとれるのだヨといはれてハツと胸《むね》にくぎ、露顯《あらはれ》ぬうち、こつちからきりあげ揚貝《あげがひ》、ちよん/\まく。ちよツくら私《わちき》がおむかひに。ゆきますさいづちたばねのし、廊下《らうか》とんびも羽《は》をのして、スタ/\にげてきたさのサツサ。モシ、こんどはあなたとでもおともでねへと、見つかりやアどんなめにあふかしれやせんヨ。ア、あんまりしやベツて咽《のど》がひつゝくやうになりやした。いきつぎにちやわんで一杯《いつぺい》いたゞき女郎衆《ぢよろしゆ》はよい女郎衆《しゆ》。チト時代《じだい》だが、ヲツトヽヽヽヽヽ、ごぜへす/\。【トぐつとのんで、あたまをたゝき、なベのうしをむちや/\くひ、またはしをしたへおき】、わかだんな/\、ちよつとごらんなせへやし。となりの年増はサ、ちよつとあくぬけた風俗《こしれへ》だが、牛《ぎう》をば平氣岡本《ヘいきをかもと》で食《しめ》る達者《たつしや》サは、ありやアたゞものじやアごぜへせんぜ。なんでも北里《なか》のお茶屋《ちやや》の妻君《さいくん》か、さもなけりやア、山谷堀《ほり》あたりの舩宿《ふなやど》の女房《したぱう》かしらん。堀《ほり》じやア見かけねへかほだが、どうもわからねへ。ヲツト、ほりと云《い》やア、紫玉《しぎよく》の処《とこ》へ繪短冊《えたんざく》を、客《きやく》さきからたのまれやしたから、今戸《いまど》の弁《べん》次郎へ風爐《ふろ》の注文《ちうもん》ながら、一昨日《おとゝひ》ちよつくらよりやしたら、外《おもて》を藝《げい》の有明楼行《ゆうめいろうゆく》が二タ組《くみ》ほど通《とほ》りやす。

たそやと見れば豈《あに》はからん。モシ、それ一件《いっけん》のネ。お猫《ねこ》サ。そらいつか、大七からはしけて濱中やへ連出した藝《げい》サ。ホンニおめへさんほど罪作りなみゃうりのわるいお方《かた》はごぜへませんぜ。彼奴《きゃつ》、私《わちき》を見《み》ると、紫玉《おんそう》の敷居《しきゐ》をまたいで、若《わか》だんなはどうなさいました。あれぎりじやアあんまりでスから、モウ一《いつ》ぺん後生《ごしやう》でございますヨと、あたりをはゞかつて手《て》をあはしてわかれやしたネ。モシ、あなたはどういふ腕《うで》を出《だ》して婦人《ふじん》をおころしなさるのでげス。実《じつ》にふしぎ妙《めう》でごぜへす。アヽおそれべ/\。

○諸工人《しよくにん》の侠言《ちうツぱら》

▲としごろハ四十ぐらゐ、大工か左官らしきふうそく、しるしばんてん、も丶ひき、はらかけ、三尺おびはよごれたれど、白木のそろばんぞめ、よどばしまがひのたばこいれに、あつばりのしんちうぎせる、かみはしのをたばねたるごとく、つれも同じくしよくにんながら、このじんぶつはとしかさといひ、ことにあにでしにてもあらんかと思はれたるはなしぶり、よほどゑひがまはりしとみへて、まきじたのたかごゑにてゐばりをつけるくせあり】

「ヱヽコウ、松や、きいてくれ。あの勘次の野郎ほど附合のねへまぬけは、西東《にしひがし》の神田三界《かんださんがへ》にやアおらアあるめへとおもふぜ。まアかういふわけだ。きいてくりや。夕辺《ゆうぺ》仕事《しごと》のことで、八右衛門さんの処《とけ》へつらア出すと、てうど棟梁《とうりう》がきてゐて酒がはじまツてゐるンだらう。手めへの前だけれど、おらだつて世話やきだとか犬《いん》のくそだとかいはれてるからだゝから、酒を見かけちやアにげられねへだらう。しかたがねへから、つツぱへりこんで一杯《いつぺへ》やツつけたが、なんぽさきが棟梁《とうリう》でゑくでも、ごちそうにばかりなツちやア外聞《げへぶん》がみつともねへから、さかづきをうけておいてヨ、小便《せうべん》をたれにゆくふりでおもてへ飛出《とびだ》して、横町《よこちやう》の魚政《うをまさ》の処《とけ》へ往《いつ》てきはだのさしみをまづ壱分《いちぶ》とあつらへこんで、内田《うちだ》へはしけて、一升《いっせう》とおごつたはおらアしらんかほの半《はん》兵へで帰《け》ヘッてくると、間《ま》もなく酒と肴《さかな》がきた処《とツ》から、棟梁《とうりう》もうかれ出して、新道《しんみち》の小美代《こみよ》をよんでこいとかなんとかいツたからたまらねへ。藝妓《ねこ》が一枚《めへ》とびこむと、八右衛門がしらまで浮氣《うはき》になつてがなりだすとノ、勘次《かんじ》のやらうがいゝげい人《にん》のふりよをしやアがつて、二上《にあが》りだとか、湯《ゆ》あがりだとか、蛸坊主《たこぱうず》が湯氣《ゆけ》にあがつたやうなつらアしやアがつて、狼《おほかみ》のとほぽへで、さんざツぱらさわぎちらしやアがつて、そのあげ句《く》が、人力車《ちよんきな》で小塚原《こつ》へおしだそうと成《なる》と、かん次のしみツたれめへ、おさらばずゐとくじをきめたもんだから、棟梁《とうりう》も八さんもそれなりになつてしまツたが、エヽコウ、おもしろくもねへ。細工《せへく》びんぽう人《ひと》だからだ。あのやらうのやうに、銭金《ぜにかね》ををしみやアがつて、仲間附合《なかまつきゑエ》をはづすしみつたれた了簡《れうけん》なら、職人《しよくにん》をさらべやめて、人力《じんりき》の車力《しやりき》にでもなりやアがればい二。ひとをつけ、こちとらア四十づらアさげて色氣《いろけ》もそツけもねへけれど、附合《つきゑゝ》とくりやア、よるが夜中《よなか》、やりがふらうとも、唐天《からてん》ぢよくからあめりかのばつたん国《こく》までもゆくつもりだア。あいつらとは職人《しよくにん》のたてがちがはゝ。口《くち》はゞツてへいひぶんだが、うちにやア七十になるばゞアに、かゝアと孩兒《がき》で以上《いじやう》七人ぐらしで、壱升の米《こめ》は一日《いちんち》ねへし、夜《よ》があけてからすがガアと啼《な》きやア、二分《ぶ》の札《さつ》がなけりやア、びんばうゆるぎもできねへからだで、年中《ねんぢう》十《じふ》の字《じ》の尻《けっ》を、右《みぎ》へぴん曲《まが》るが半商《はんしやう》賣だけれど、南京米《なんきんめへ》とかての飯《めし》は喰《く》ツたことがねへ男《をとこ》だ。あいつらのやうに、かゝアに人仕事《ひとしごと》をさせやアがつて、うぬは仕事《しごと》から帰《けへ》ツてくると、並木《なみき》へ出《で》て、やすみにでつちておいた塵取《ごみとり》なんぞヲならべて賣《う》りやアがるのたアすツぽんにお月《つき》さま、下駄《げた》にやき味噌《みそ》ほどちがふおしよくにんさまだア。ぐず/\しやアがりやア、すのうてんをたゝきわつて、西瓜《すいくわ》の立賣《たちうり》にくれてやらア。はゞかりながら、ほんのこつたが、矢《や》で、銕砲《てつぱう》でももつてこい。おそれるのじやアねへはヘト、いひがゝりやアいひたくなるだらう。のウ松《まつ》、てめへにしたところがさうじやアねへか。ヲイ/\、あんねへ《女》、熱《あつ》くして、モウ二合《ふたつ》、そして、生肉《なま》もかはりだア。はやくしろウヱ

○生文人《なまぶんじん》の會話《くわいぱなし》

▲ ちかごろりうかうの書画會れん中としごろ三十一二ぐらゐやぼなるこしらへ身なりもさのみわろきにはあらねど、世を見やぶつたつもりにてきものも上下ふそろひなるをいくぢもなくきなしくろのはおりむらさきのふとひもをむなだかにむすびて、けんしきははなばしらとともにたかくかたはらに、たう紙のまきたると扇子のつかねたるをあめりかざらさのふろしきにつゝみかけておき、下タ地よほどさけの匂いのあるはなかむらやか万八あたりの會くづれと見えつれは、さそひてつれゆきたるたゞの人物とみえたり。もつともをり/\うけこたへありとしるべし。

「アヽけふの會《くわい》はよわつた/\。あのやうに、唐紙《たうし》、扇面《せんめん》の攻道具《せめだうぐ》でとりまかれては、さすがの僕《ほく》もがつかりだ。これだから、近頃《ちかごろ》はどのやうにまねかれても、謝義《しやぎ》ばかりもたせて書画會《しよぐわくわい》へは出《で》ぬことゝきめたが、けふは南漠老人《なんめいらうじん》が喜壽《きじゆ》の莚《ゑん》といひ、殊《こと》に南湖翁《なんこおう》の三十三回《くわい》の追福《つゐふく》じやから、先生《せんせい》が出《で》て給はらなければ、枕山《ちんざん》、松塘《しやうたう》、芦洲《ろしう》、雪江《せつこう》、東寧《とうねい》、帆雨《はんう》、柳圃《りうほ》、随庵《ずゐあん》、桂洲《けいしう》、波山《はざん》、の諸先生《しよせんせい》たちが不承知《ふしやうち》じやから、ぜひに出席《しゆっせき》をねがふと、わざく扇《せん》めん亭《てい》の善公《ぜんこう》と、廣小路《ひろかうじ》の一庭《いつてい》が使者《ししや》に來《き》たので、止《やむ》を不得《えず》出かけたところが、肴札五枚《さかなふだごまい》がけの一局《いつきよく》へ合併《がつぺい》して、一杯《いつぱい》のむが否《いな》や、どうか先生、おあとでねがひますと、左右《さいう》から扇面《せんめん》の鎗《やり》ぶすまサ。さて、うるさいことだとギヨツとしたが、かねて期《ご》したことで、アヽ是《これ》も會主《くわいしゆ》への義理《ぎり》じやと観念《くわんねん》して、書画《しよぐわ》の注文《ちうもん》でも、扇面《せんめん》が弐百疋《ぴき》、唐紙《たうし》なら五百疋と極札《きはめふだ》がついてある腕《うで》を、一言《ひとこと》の礼《れい》のみで先《まづ》四五本かゝせられたと思《おも》ひなさい。僕《ぼく》がからだの居《ゐ》まはりを、雲霞《うんか》のごとく取巻《とりまい》て、お跡《あと》で一本どうか諸先生《しよせんせい》の合作《がつさく》でござりますから一寸《ちよつと》ねがひますの、ヤレ遠國《ゑんごく》からたのまれました。書画帖《しよぐわでう》だのとたちまち扇紙《せんし》の山《やま》をなしたは實《じつ》にうるさい。はやく切《きり》あげて脱《だつ》しやうと身《み》じんまくをしてゐる最中《さいちう》、隣《となり》の方《はう》で生酔《なまゑひ》がけんくわをはじめた騒《さわ》ぎで人々《ひと/゛\》が奔走《ほんそう》する間《ま》に早々《そう/\》下タ《した》ヘ來《く》ると、膳所《ぜんしょ》に琴雅《きんが》、乙彦《をとひこ》などいふ風流雄《みやびを》が内食《ないしよく》をきめてゐる。むかふの隅《すみ》には、諏訪《すは》町の松本がヱ、何《なに》サ、楓湖先生《ふうこせんせい》がサ、藝者《げいしや》の房《ふさ》八を合手《あひて》に、大なまゑひで、これから舩《ふね》で上手《うはて》へ出《で》かけるから是非《ぜひ》附合《つきあひ》と、こまらせるので、爰《こゝ》にも足《あし》をとめることがならん。それは偶《たま》の附合《つきあひ》だから止《やむ》を得《え》ぬが、明日《あす》は大藩《たいはん》の知事公《ちじこう》かち召《め》されてお席《せき》に於《おい》て絹地三幅對《きぬぢさんぶくつい》の山水《さんすゐ》を、即席《そくせき》にしたゝめンければならんから、チトつきあひははづす。じやが、後日《ごじつ》として、尊公《そんこう》のそでをひいてぬけ出《だ》したが、なにか呑《のみ》たらんやうじやによつて、牛店《ぎうてん》ときめたは、中村のかまびすきところより、落《おち》ついてのめるから妙《めう》だてナ。扨《さて》まづ、春木氏《はるきうじ》の義理《ぎり》もすんだが、エヽ、また來月《らいげつ》の朔日《ついたち》は、萬八で虚堂《きよだう》の展覧會《てんらんくわい》。二日が、カウト、寺嶋《てらじま》の梅隣亭《ぱいりんてい》で席画《せきぐわ》の約速《やくそく》。ア、うるさい/\。実《じつ》に高名家《かうめいか》には誰《たれ》がした。モウ/\、名聞《めうもん》は廃《はい》すべし/\。ヲツトヽヽヽこぼれる/\。

書籍からの画像で注記のないものは、著作権法上の「引用」の範囲内であるか、著者の著作権が切れて刊行後五十年以上経っているものである筈です。